第23話「毒ある者のワルツ」
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「――それでは、ダンスの時間を始めます」
儀典官の合図と共に、ホールの照明がわずかに落とされた。 オーケストラが奏でるのは、建国記念の夜にふさわしい、荘厳かつ華やかなウィンナー・ワルツ。 『青きドナウのさざめき』。
その優雅な旋律が流れた瞬間、張り詰めていた会場の空気が一変した。
「……ッ」
私は反射的に身を強張らせた。
先ほど、アルフォンスが王子を撃退したとはいえ、ここは敵地だ。 音楽は「狩り」の開始の合図でもあった。
「シュヴァルツ卿。もしよろしければ、私と……」
「いやいや、まずは私が。北部の鉱山利権についてお話を……」
「美しい魔女殿。僕のステップに合わせていただけますかな?」
堰を切ったように、男たちが押し寄せてきた。
若い貴族、腹の出た商人、野心に燃える若手将校。彼らの目は、私という人間を見ているのではない。
「魔法省の要人」という肩書きか、あるいはアルフォンスが磨き上げた「絶世の美女」というトロフィーを見ているのだ。
(……気持ち悪い)
吐き気がした。
鎮静シロップの効果で恐怖は薄れているが、
生理的な嫌悪感は消せない。
脂ぎった笑顔。 品定めするような視線。
彼らの手が伸びてくる。
私の指先に、腰に、触れようとしてくる。
「……う……」
私は後ずさった。
だが、ミッドナイト・シルクのドレスには「重力魔法」がかかっている。
アルフォンスから離れれば離れるほど、足は鉛のように重くなり、逃げ場を失う。
(……助けて、アルフォンス)
心の中で叫んだ。 その時だった。
「――お下がりください」
氷の鞭のような声が、喧騒を切り裂いた。
スッ。
私の目の前に、白い手袋をした手が差し出された。男たちの手を払いのけ、最も近く、最も強引に割り込んだその手。
「……アル、フォンス?」
見上げると、そこには不機嫌な――いや、殺意を完璧な微笑みでコーティングした執事が立っていた。 眼鏡の奥のアイスブルーが、群がる男たちを一瞥する。 それだけで、数人がひっ、と息を呑んで道を空けた。
「……執事風情が、何の真似だ?」
「主人はダンスの相手を探しているのだぞ。下がれ」
一人の貴族が声を荒らげた。
アルフォンスは慇懃無礼に一礼し、涼しい顔で答えた。
「ご忠告感謝いたします。……ですが、主人は病み上がり。足元もおぼつかない状態です」
彼は私の腰に手を回した。
グイッ。
強引に引き寄せられ、私の身体は彼の硬い胸板に密着した。
「万が一、転倒でもなされば国家の損失。ここは、彼女の身体構造と重心移動を完全に把握している私が、『介添え』を務めるのが道理かと」
「介添えだと? ワルツを執事と踊るなど、前代未聞だぞ!」
「ええ。ですが、私の主人は『規格外』の魔女ですから」
アルフォンスは男たちの抗議を無視し、私に向き直った。その瞳が、熱っぽく私を捕らえる。
「……エルカ様」
彼は私の右手を取り、自分の左手に重ねた。
そして、右手を私の肩甲骨の下あたりに添える。 完全に、ダンスのホールドだ。
「……踊れますか? 私と」
「……あんた以外と、踊れるわけないでしょ」
私が震える声で答えると、彼は満足げに口角を上げた。
「正解です。……さあ、参りましょう。私に全てを委ねて」
タン、タ、タッ……。
アルフォンスの一歩目が、世界を変えた。
「……っ!」
身体が浮いた気がした。 重力魔法で鉛のように重かったはずのドレスが、彼にリードされた瞬間、羽毛のように軽くなったのだ。
いや、違う。 彼が私の体重ごと、ドレスの重さごと、全てを支えて回しているのだ。
「……遠心力と、魔力による慣性制御。……計算通りです」
アルフォンスが小声で呟く。
私たちはフロアの中央へと滑り出した。
周囲のカップルが、驚いて道を開ける。
黒曜石のような髪の魔女と、銀髪の執事。
そのコントラストは、シャンデリアの光の下で鮮烈な美しさを放っていた。
「……すごい」
「あの動き……本当に執事か?」
周囲から漏れる感嘆の声。
だが、私にはそんなものを気にする余裕はなかった。目の前の男に、魂ごと持っていかれそうだったからだ。
「……近い、アルフォンス」
「離れませんよ。一ミリたりとも」
彼のリードは強引だった。
私の意思など介在する余地はない。
彼が右と言えば右へ、回れと言えば回る。
私の身体は完全に彼の一部となり、彼の思考通りに動く人形と化していた。
「……見てください、あの男たちの顔を」
回転の最中、アルフォンスが私の耳元で囁いた。 吐息が直接鼓膜を揺らす。
「貴女に触れられず、指をくわえて見ているだけの無様な姿。……いい気味だ」
彼の指が、私の背中を強く押す。
ドレスの薄い布地越しに、指先の形が分かるほどの圧力。
「貴女の腰のライン、背中の熱、そしてドレスの下の肌の質感。それを知っているのは、この会場で私だけです」
「……変態」
「独占者と言ってください」
彼はニヤリと笑い、わざと大きくターンした。
ミッドナイト・シルクの裾が大きく広がり、
銀糸が星雲のように煌めく。
その遠心力で、私はさらに彼に密着する。
太腿が触れ合う。 胸が押し付けられる。
「……っ、ん……」
公衆の面前で、こんなに密着して踊るなんて。
羞恥心で顔が熱くなる。
でも、それ以上に、甘い痺れが身体を駆け巡る。
彼の手の熱さが、ドレスを通して侵食してくる。
「エルカ様。貴女は今、世界で一番美しい」
彼の瞳が、至近距離で私を見つめる。
アイスブルーの中に、暗い炎が揺らめいている。
「ですが、美しすぎるのも問題ですね。さっきから、貴女を見る視線の数が減らない」
彼は周囲を一瞥した。
その瞬間、眼鏡の奥から放たれた殺気に、数人の令嬢が悲鳴を上げてグラスを取り落としたのが見えた。
「不愉快だ。貴女の網膜に、私以外の男が映ることすら許せない」
「見えてないわよ。薬のせいで、あんた以外はモザイクみたい」
「……ほう」
アルフォンスは嬉しそうに目を細めた。
彼は私の手を握る力を強めた。
痛いほどに。
「いい子です。……ですが、念には念を入れましょう」
彼は私の耳に唇を寄せた。
キスをするような距離。
周りから見れば、愛を囁き合っているようにしか見えないだろう。だが、彼が告げたのは、甘い脅迫だった。
「帰ったら、入念な『消毒』が必要ですね」
「……消毒?」
「ええ。この会場の空気は汚れています。欲望と嫉妬、そして不潔な呼気。貴女の肌に付着したそれらを、全て洗い流さねばなりません」
彼の指が、私の二の腕の内側――敏感な部分を、そっと撫でた。
「お風呂で、全身を。……指の隙間から、髪の一本一本、そして……」
言葉は途切れたが、意味は伝わった。
今日の夜は、ただでは済まない。
いつものケア以上の、執拗で、粘着質な「清掃」が待っている。
「怖がらないで。ご褒美ですよ?」
「……あんたがしたいだけでしょ」
「否定はしません。……今の貴女を見ていると、理性が焼き切れそうだ」
アルフォンスの呼吸が、少し乱れている。
いつも完璧な彼が。 私の顔を見つめる瞳が、潤んで、渇望している。
その時、私は気づいた。
密着した胸元から伝わってくる、彼の心音に。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン……。
速い。 異常なほど速い。
ダンスの運動量によるものじゃない。
もっと切羽詰まった、爆発寸前のエンジンのような鼓動。
「……アルフォンス、心臓……すごい音」
「おや。聞こえてしまいましたか」
彼は苦笑した。
余裕ぶっているけれど、耳の先が少し赤い。
「……怖いのです」
「え?」
「貴女が誰かに奪われるのではないか。この手が離れた瞬間に、貴女が遠くへ行ってしまうのではないか。そう思うと、心臓が早鐘を打って止まらない」
あの「完璧執事」が、恐怖している?
私を奪われることを?
「……バカね。ドレスに重力魔法までかけておいて」
「魔法など信用できません。信用できるのは、こうして触れている体温だけです」
彼は私を強く抱きしめた。
ダンスのステップなど、もうどうでもいいと言わんばかりに。 会場の中心で、私たちは一つの塊になった。
「……行かないわよ」
私は彼の手を握り返した。
彼の手袋が汗で湿っているのが分かる。
その人間臭さが、たまらなく愛おしかった。
「私だって、あんたがいないと歩けないし、息もできない。あんたが私をダメにしたんだから、責任取りなさいよ」
「……ふっ、ははっ」
アルフォンスが笑った。 いつもの冷笑ではない。
年相応の青年の、心からの歓喜の笑い声。
「ええ、取りますとも。一生をかけて、貴女を縛り付けて差し上げます」
音楽がクライマックスを迎える。 激しい回転。
天井のシャンデリアが流星のように回る。
世界が溶けていく。 残ったのは、目の前の銀色の瞳と、繋がれた手の熱さだけ。
ジャン、と最後の音が鳴り響いた。
アルフォンスは私を優雅にのけぞらせ、フィニッシュのポーズを決めた。 私の身体を支える彼の腕は、鋼鉄のように揺るがない。
静寂。 そして、割れんばかりの拍手喝采。
だが、私たちは観客の方を見なかった。
お互いの目だけを見つめ合い、荒い息を整えていた。
「……素晴らしいダンスでした、エルカ様」
「……あんたのリードのおかげよ」
アルフォンスは私を起こし、恭しく一礼した。
その際、彼は誰にも聞こえない声で、最後の一撃を放った。
「さあ、帰りましょうか。私の『検閲』をクリアできなかった不潔なドレスを脱がせて、真っ白な貴女に戻す時間が楽しみでなりません」
彼の眼鏡の奥がキラリと光った。
その光を見た瞬間、私の腰がカクンと崩れそうになった。 社交界の猛獣たちよりも、目の前の執事の方がよほど危険で、そして甘美な「毒」を持っている。
私は震える足で、彼のエスコートを受けた。
恐怖と、それ以上の期待に胸を高鳴らせながら。 毒ある者のワルツは終わったが、私たちの夜はまだ始まったばかりなのだ。
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