第22話「深淵の魔女、光の中に現る」
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王宮の大広間へと続く巨大な両開きの扉の前で、
私たちは立ち止まっていた。
扉の向こうからは、オーケストラの優雅な旋律と、何百人もの人間が発する話し声のざわめきが、地響きのように伝わってくる。
「……すごい音」
私は無意識に身をすくませた。
アルフォンスから投与された『鎮静シロップ』のおかげで、パニック発作は抑えられている。
けれど、本能的な拒否反応までは消せない。
あの扉の向こうには、私が最も苦手とする「他人の群れ」がいるのだ。
「……アルフォンス、やっぱり帰らない? ドレスの裾が破れたことにして」
「却下です。貴女のドレスには『自動修復術式』も編み込んでありますから、その言い訳は通用しません」
私の背後に立つアルフォンスは、冷徹に逃げ道を塞いだ。
彼は懐から手鏡を取り出すと、私の顔の横に掲げ、最終チェックに入った。
「リップの艶、良好。チークの血色、完璧。……マスカラの角度、右目が0・1ミリ下がっていますね」
彼は小指の先で、私の目尻をクイッと持ち上げた。
「よし。……これで完璧です」
彼は鏡をしまうと、満足げに私の全身を見下ろした。 その目は、これから戦場に送り出す兵士を見る指揮官のようであり、同時に、自分が丹精込めて作り上げた芸術品を展示会に出す作家のようでもあった。
「いいですか、エルカ様。これから貴女は『見られる側』に回ります」
彼は私の耳元に顔を寄せ、低い声で囁いた。
「今まで貴女を嘲笑い、『ゴミ屋敷の魔女』と蔑んでいた連中に、その眼球が腐っていたことを思い知らせてやるのです」
「……あんた、楽しそうね」
「ええ、とてつもなく。……私の最高傑作が世界を蹂躙する瞬間ですから」
彼の言葉には、ゾッとするほどの自信と、暗い愉悦が含まれていた。
蹂躙。社交界デビューに使う言葉じゃない。
でも、彼の作ったこのミッドナイト・シルクのドレスと、完璧なメイクアップを纏った今の私なら、本当にそれくらいできるのかもしれない。
「……次は、特級魔導師、エルカ・シュヴァルツ様! 並びに、従者のアルフォンス・クライン!」
儀典官の甲高い声が響き渡った。 合図だ。
「行きましょう。……私の手を離さずに」
アルフォンスが左肘を差し出した。
私はその腕に、しがみつくように手を回した。
硬い筋肉の感触。
シルク越しに伝わる、彼の体温。
それだけが、今の私を現世に繋ぎ止める命綱だった。
ギギギギ……。
重厚な扉が、ゆっくりと左右に開かれる。
カッ!!
洪水のような光が、私たちを飲み込んだ。
巨大なクリスタル・シャンデリアの輝き。
壁一面の鏡の反射。
そして、会場を埋め尽くす貴族たちの宝石の煌めき。
「……うッ」
私は眩しさに目を細めた。 足がすくむ。
ドレスの重力魔法が作動し、鉛のように重くなる。
「顔を上げて」
隣で、アルフォンスが短く命じた。
彼の声は、どんな騒音の中でもクリアに私の耳に届く。
「背筋を伸ばし、顎を引き、視線は遠くを見据える。貴女は女王です。下民共に頭を下げる必要はありません」
彼の言葉という魔法がかかる。
私は操り人形のように背筋を伸ばし、一歩を踏み出した。
ヒールが、大理石の床を叩く。 コツン。
その乾いた音が、やけに大きく響いた気がした。
次の瞬間。
「…………え?」
会場のざわめきが、波が引くように消えた。
音楽だけが虚しく流れ続ける中、何百という視線が一点――つまり、私たちに集中したのだ。
「……あれが……シュヴァルツ?」
「まさか。嘘だろう?」
「……なんて……美しい……」
さざ波のような囁きが、広がり始めた。
驚愕。 困惑。 そして、圧倒的な賞賛。
彼らが予想していたのは、髪をボサボサにし、
古臭いローブを纏い、猫背で怯える「ゴミ屋敷の魔女」だったはずだ。 だが、そこに現れたのは。
夜空を纏った絶世の美女。
黒曜石のように輝く髪は、シャンデリアの光を吸い込んで艶めき、透き通るような肌は、深い紫のドレスとのコントラストで妖艶に発光している。
その隣には、氷の彫刻のように美しい銀髪の執事。 二人の姿は、この世のものとは思えないほど浮世離れし、完成された絵画のようだった。
「……見ろ、あの肌。まるで陶器だ」
「どこのドレスだ? あんな生地、見たことがない」
「それに、あの執事……。主人の美しさを引き立てるために、自らの気配を完全に消しているぞ」
貴族たちの視線が、私の肌を、髪を、ドレスを舐めるように這い回る。
粘着質な視線。 値踏みするような視線。
まるで、市場に並べられた高級食材を見ているような目。
「……気持ち悪い」
薬で感覚が鈍っているはずなのに、背筋に悪寒が走った。 皮膚の下を虫が這うような不快感。
吐き気が込み上げてくる。
「……大丈夫です」
アルフォンスの手が、私の手に重ねられた。
熱い。火傷しそうなほどの熱量が、手袋越しに流れ込んでくる。
「貴女に触れているのは私だけです。奴らの視線など、私の結界が全て弾いています」
彼は前を向いたまま、唇を動かさずに囁いた。
その横顔は、完璧な微笑みを浮かべている。
だが、私には分かった。
眼鏡の奥のアイスブルーが、絶対零度まで凍りついていることを。
(……汚らわしい)
彼の心の声が聞こえる。
(どこの馬の骨とも知れぬ豚共が。私のエルカ様を直視するなど、一万年早い。全員の眼球をくり抜いて、消毒液に漬け込んでやりたい)
凄まじい殺気だった。
もしここが戦場なら、彼は既に全員の首を刎ねていただろう。 だが、その殺気が私にとっては最強の盾だった。 彼の怒りが強ければ強いほど、私は「守られている」と感じる。
「……アルフォンス、ありがとう」
「礼には及びません。……さあ、階段を降りますよ」
私たちは、大広間へと続く大階段を、ゆっくりと降りていった。 一歩進むたびに、人垣が割れていく。 まるで海が割れる奇跡のように、私たちの前に道ができる。
「やあ、これはこれは! シュヴァルツ卿ではありませんか!」
階段を降りきったところで、恰幅の良い男が話しかけてきた。胸にたくさんの勲章をつけた、どこかの大臣だろうか。
「見違えましたな! いやはや、噂の『引きこもり魔女』がこれほどの美貌をお持ちだったとは。……どうです、後で私と一曲」
「失礼いたします」
私が口を開く前に、アルフォンスが滑り込んだ。 彼は大臣と私の間に割って入り、壁のように立ちはだかった。
「主人は病み上がりにつき、至近距離での会話は医師より禁じられております。飛沫感染のリスクを考慮し、二メートル以上の距離を保っていただけますよう」
「は、はぁ? 飛沫……?」
「ええ。貴殿の呼気には、高濃度のアルコールと脂質が含まれております。……主人の清浄な肺には毒ですので」
アルフォンスは恭しく一礼しながら、とんでもない暴言を吐いた。 しかも、笑顔で。
大臣は顔を真っ赤にして口をパクパクさせているが、アルフォンスの完璧すぎる礼儀作法に気圧され、言い返す言葉を失っている。
「……行きましょう、エルカ様。ここは空気が悪い」
彼は何食わぬ顔で私を促し、その場を離れた。
「あんた、敵を作るわよ」
「構いません。貴女に近づく害虫を駆除するのが、私の仕事ですから」
彼は懐からハンカチを取り出し、私の肩――
大臣の視線が触れたあたりを、パタパタと払った。まるで汚物でもついたかのように。
「……まったく。油断も隙もありませんね」
アルフォンスは周囲を睨み回した。
会場中の男たちが、私を見ていた。
若い貴族、老練な政治家、そして他国の武官たち。
彼らの目にあるのは、純粋な賞賛だけではない。 「欲しい」「手に入れたい」「自分の色に染めたい」という、ドロドロとした欲望。
(……許せない)
アルフォンスが、ギリリと奥歯を噛んだ。
(私が磨いたのだ。私が洗い、私が着せ、私が育てたのだ。その成果を、なぜ貴様らがタダで鑑賞している? 入場料として、その命を置いていけ)
彼の独占欲が暴走寸前だった。
繋いだ手に込められる力が強くなる。
痛いほどに。
「……痛い、アルフォンス」
「……失礼」
彼は力を緩めたが、手は離さなかった。
むしろ、指を絡め、恋人繋ぎに変えた。
「離しませんよ。少しでも隙を見せれば、ハイエナ共が群がってくる」
私たちは会場の隅、壁際の目立たない場所へと移動した。 そこからは、会場全体が見渡せた。
煌びやかな衣装を纏った人々が、グラスを片手に談笑している。
偽りの笑顔。腹の探り合い。
ここは、私の知っている「静謐な研究室」とは真逆の、欲望が渦巻く戦場だ。
「……帰りたい」
私はポツリと漏らした。
薬の効果で恐怖は薄れているが、疲労感は隠せない。この視線の嵐の中にいるだけで、魔力を削られていくようだ。
「もう少しの辛抱です。長官への挨拶さえ済ませれば……」
その時だった。
「――おや、噂の主役がこんな隅に隠れているとは」
背後から、よく通る声がかけられた。
アルフォンスの背中が、ピクリと強張る。
私たちは同時に振り返った。
そこに立っていたのは、白髪の老紳士だった。
上質なローブを纏い、手には黒檀の杖。
柔和な笑みを浮かべているが、その目は笑っていない。 蛇のような、冷たくねっとりとした目。
「お久しぶりですね、エルカ君」
「……長官」
魔法省長官、ルシウス・ヴァイゼ。
私をこの塔に押し込め、研究予算という餌で飼い殺しにしている張本人。 そして、アルフォンスを私の元へ派遣した黒幕でもある。
「見違えたよ。……報告書には目を通していたが、実物は予想以上だ」
長官は私の全身をじっくりと眺めた。
その視線は、他の男たちのような性的なものではない。 もっと質の悪い――「有益な道具」を見る目だ。
「アルフォンス君の仕事ぶりは完璧だったようだな。……さすがは、元『掃除屋』だ」
「……お褒めに預かり光栄です」
アルフォンスが深く頭を下げた。
だが、その声は氷点下まで冷え切っていた。
「元掃除屋」。 その言葉に、何か不穏な響きを感じて、私は二人を交互に見た。
「さて、エルカ君。君に紹介したい方がいるんだ」
長官は手招きをした。
人垣が割れ、一人の青年が歩み寄ってくる。
金髪に碧眼。
仕立ての良い軍服に身を包んだ、絵に描いたような王子様。
「北の大国、ノルドガルドの第三王子……フリードリヒ殿下だ」
「……お初にお目にかかります、美しい魔女殿」
王子は優雅に微笑み、私の手を取ろうとした。
「ッ……」
私は反射的に手を引こうとした。
知らない男に触れられるなんて、生理的に無理だ。 だが、ドレスの重力魔法が作動し、足が動かない。逃げられない。
王子の手が、私の指先に触れようとした、その瞬間。
スッ。
白い手袋が、王子の手を遮った。
「……お戯れを、殿下」
アルフォンスだった。
彼は王子の手と私の手の間に割り込み、恭しく、しかし絶対的な拒絶の壁として立ちはだかった。
「主人は極度の人見知りにて。いきなりの接触は、彼女の繊細な魔力回路を暴走させる恐れがございます」
「……執事風情が、私の道を塞ぐか?」
王子の笑顔が消えた。
碧眼に、苛立ちの火が灯る。
「無礼者。下がれ」
「お断りします」
アルフォンスは一歩も引かなかった。
彼は眼鏡越しに王子を見下ろし、口角だけで笑った。
「私は彼女の管理者です。彼女に触れてよいのは、毒性検査をクリアし、滅菌消毒を済ませ、さらに私の許可を得た者だけです」
「……何?」
「殿下の手は……少々、脂ぎっておられるようだ。まずは手洗いからお願いできますか?」
会場が凍りついた。
一国の王子に向かって、「手が汚い」と言い放ったのだ。これは外交問題になりかねない暴挙だ。
だが、私は震える身体の奥で、歓喜の声を上げていた。 そうだ、もっと言ってやれ。 私の手を守れるのは、アルフォンスだけだ。
「……面白い」
長官が、パンパンと手を叩いて笑った。
「相変わらずの狂犬ぶりだね、アルフォンス君。……まあいい。ダンスの時間になれば、嫌でもパートナーが必要になる」
長官は意味深な目配せを私に向けた。
「楽しみにしているよ、エルカ君。……今夜は長い夜になりそうだ」
長官と王子は、不穏な空気を残して去っていった。 残された私たちは、再び注目を浴びていた。 「王子を袖にした魔女」と「狂犬執事」。
新たな悪名が加わったようだ。
「……アルフォンス」
私は彼の袖を引いた。
彼は私の方を向き、ふっと表情を緩めた。
「申し訳ありません。……少し、掃除が行き過ぎましたか」
「ううん。……ありがとう」
私は彼の手を両手で握りしめた。
「私、あんた以外とダンスなんて踊れないわよ」
「存じています。そのためのドレスであり、そのための私ですから」
アルフォンスは私の手を取り、甲にキスをした。
「ご安心を。この会場で音楽が鳴る限り、私が貴女のステップを支配し続けます。他の誰にも、指一本触れさせません」
彼の瞳は、会場の照明よりも熱く燃えていた。
その光に焼かれるなら、本望だ。
私は彼に寄り添い、開戦の合図となるワルツの調べを待った。 檻の外の社交界は、予想通り猛獣だらけだったけれど、私には最強の番犬がついているのだから。
読んでくださってありがとうございます。
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