第21話「檻の外の社交界」
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重厚なオーク材の扉が、軋んだ音を立てて開かれた。その瞬間、私の頬を叩いたのは、生温かくて埃っぽい風だった。
「……うッ」
私は反射的に袖で鼻を覆った。 臭い。
土の匂い、排気ガスの匂い、そして遠くの街から漂ってくる人間の生活臭。
塔の中で、アルフォンスが徹底的に浄化・調整した空気に慣れきっていた私の嗅覚にとって、外の世界の空気は「猛毒」に等しかった。
「……マスク、したい」
「我慢してください、エルカ様。せっかくのメイクが崩れます」
私の背後には、夜闇のような漆黒の燕尾服に身を包んだアルフォンスが控えていた。
彼は私の腰に手を添え、優しく、しかし逃がさない力強さでエスコートする。
「吸わないでください。貴女の肺が汚れます」
「無理よ……呼吸しなきゃ死んじゃう……」
「浅く、短く。馬車に乗るまでの辛抱です」
彼は不快そうに目を細め、空中に微細な浄化魔法を散布しながら歩き出した。
目の前には、魔法省が手配した豪奢な馬車が待機していた。 黒塗りのボディに、金色の装飾。
御者は直立不動で敬礼しているが、アルフォンスはその彼を一瞥もしなかった。
彼にとって、私以外の人間は風景あるいは障害物でしかないのだ。
「さあ、どうぞ」
アルフォンスが馬車の扉を開け、手を差し出した。 私はその手袋に自分の手を重ね、ステップに足をかけた。
ズシリ。
「……っ」
ドレスが重い。 先日彼が仕立てた「ミッドナイト・シルク」のドレスは、動くたびに星空のように煌めく美しい代物だが、その繊維には強力な「重力魔法」が編み込まれている。
私が塔から離れれば離れるほど、その拘束力は増していく仕様だ。
「足元にお気をつけて。……逃げ出そうなどと考えないことです」
耳元で囁かれる警告。 逃げ出す? とんでもない。 この重いドレスと、ハイヒールと、何より外界への恐怖で、私の足は生まれたての小鹿のように震えているのだから。
私はよろめくようにして、馬車の中へと滑り込んだ。
馬車が動き出すと、すぐにガタゴトという振動が伝わってきた。 車内は、対面式の座席がついた狭い密室だ。 窓には厚いベルベットのカーテンが下ろされ、外の景色は見えないようになっている。 これもアルフォンスの指示だろう。
「……はぁ、はぁ……」
私は座席の隅で膝を抱え……ようとしたが、
コルセットとパニエが邪魔をして、優雅に座ることしか許されなかった。 息苦しい。
物理的に締め付けられているせいだけじゃない。 塔から離れていくという事実が、私の心臓を万力で締め上げているのだ。
「……怖いですか?」
向かいの席に座っていたアルフォンスが、滑るように私の隣へ移動してきた。
広い座席なのに、わざわざ私のドレスの裾を踏むほどの至近距離に座る。
「……怖い」
私は正直に答えた。 強がる余裕なんてなかった。
「人がいっぱいいるんでしょ? 知らない人たちが、私を見るんでしょ?」
「ええ。貴女は今日の主賓ですからね。数百、数千の視線が貴女の全身を嘗め回すことでしょう」
「……吐きそう」
想像しただけで胃液が逆流しそうだ。
私は十年間、誰にも見られずに生きてきた。
それが突然、煌びやかなスポットライトの下に引きずり出されるなんて、処刑台に上がるのと同じだ。
「……帰りましょ、アルフォンス。今からでも『急病』ってことにして……」
「ダメです」
彼は私の肩を抱き寄せ、冷徹に却下した。
「今更引き返せば、貴女は魔法省の面汚しとなり、この国に居場所を失います。それに、あの『縁談』の話も進行してしまう」
「ッ……!」
そうだ。 北の国の王子との政略結婚。
それだけは絶対に阻止しなければならない。
知らない男に嫁ぐくらいなら、この塔で一生アルフォンスに掃除されている方がマシだ。
「……でも、手が震えて……止まらないの……」
私は自分の両手を見つめた。 レースの手袋をしている指先が、カタカタと情けなく震えている。
これでは、グラスを持つことも、挨拶の握手もできない。
「完璧な美女」どころか、「挙動不審な魔女」として笑い者になる未来が見える。
「……仕方ありませんね」
アルフォンスは溜息をつくと、懐から小さな小瓶を取り出した。
中には、透き通った蒼色の液体が入っている。
「……なに、これ」
「特製の『鎮静シロップ』です。ハーブと、微量の魔力を調合してあります」
彼は小瓶の蓋を開けた。
ふわりと、甘い蜜と、清涼感のあるミントの香りが漂った。
「これを飲めば、過剰な神経伝達が遮断され、恐怖心が薄れます。……心臓の鼓動も安定し、優雅な淑女として振る舞えるようになるでしょう」
「……薬漬けにする気?」
「人聞きが悪い。……『お守り』ですよ」
彼は小瓶を私の唇に押し当てた。
冷たいガラスの感触。
「さあ、一口だけ。これで楽になります」
甘い誘惑。 今の私には、悪魔の契約書に見えた。
でも、この震えを止めるためなら、悪魔に魂を売ってもいい。
私は口を開け、蒼い液体を流し込んだ。
「……んッ」
甘い。
暴力的なまでに甘くて、とろりとしている。
液体が喉を通り抜けた瞬間、カッと食道が熱くなり、それが全身の血管を巡っていくのが分かった。
ドクン。
心臓が大きく一度跳ねて――そして、静かになった。
「……あ……」
不思議な感覚だった。
馬車の揺れも、外の騒音も、ドレスの締め付けも。 全てが遠くの出来事のように感じられる。
世界に薄い膜が一枚張られたような、水の中に沈んだような静寂。
その中で、ただ一つ。
鮮明に感じられるものがあった。
「……どうですか? エルカ様」
アルフォンスの声だ。
彼の声だけが、鼓膜を直接震わせるようにクリアに響く。 彼の体温、彼の匂い、彼の気配。
それ以外のノイズが全て遮断され、彼という存在だけが世界に残ったような感覚。
「……うん。……怖く、ない」
私はぼんやりと答えた。
恐怖という感情が、どこかへ抜け落ちてしまったようだ。 代わりに胸を満たすのは、ふわふわとした多幸感と、隣にいる彼への強烈な帰属意識。
「……アルフォンス……」
私は無意識に、彼の腕にしがみついた。
頬を彼の肩に擦り付ける。
あんなに嫌だった馬車の臭いも、今は彼の匂いにかき消されて気にならない。
「……効き目が早いですね」
アルフォンスは満足げに微笑んだ。
眼鏡の奥のアイスブルーが、怪しく光る。
(当然です。ただの鎮静剤ではありませんから)
彼の心の声が、薬の作用で鋭敏になった私の聴覚に届く。
(これは『感覚フィルタリング』の秘薬。……私以外の外部刺激を鈍化させ、私への認識力だけを極限まで高める)
彼は私の顎を指で持ち上げ、瞳孔を確認した。
「……いい目だ。焦点が私にしか合っていない」
「……あんたしか、見えない」
「ええ、それでいいのです。会場には何百という人間がいますが、貴女にとって人間と呼べるのは私一人だけでいい」
彼は手袋を外し、素手で私の頬を撫でた。 熱い。
その熱が、薬で冷えた私の芯を溶かす。
「外の世界は、雑音だらけです。貴女の繊細な耳にはうるさすぎる。だから、私の声だけを聞いていなさい」
「……うん。聞いてる」
「貴女を見る不躾な視線など、気づく必要はありません。貴女が見つめるのは、私だけでいい」
「……うん。見てる」
私は操り人形のように頷いた。
思考がとろとろに溶けて、彼の言葉が絶対の真理のように染み込んでくる。
これが洗脳だとしても、構わない。
だって、こんなに気持ちよくて、安心できるのだから。
馬車が大きく揺れた。 石畳の道に入ったようだ。
窓のカーテンの隙間から、強烈な光が差し込んできた。
「……王宮に着きましたよ」
アルフォンスが窓の外を一瞥し、冷たく告げた。 王宮。魔女としての私が、初めて表舞台に立つ場所。
「……嫌」
私は反射的に彼にしがみついた。
薬で恐怖は薄れているはずなのに、本能が「彼から離れるな」と警鐘を鳴らしている。
「……降りたくない。ずっとここにいたい」
「……ふふ」
アルフォンスは喉を鳴らして笑った。
彼は私の背中に手を回し、抱きしめる力を強めた。
「私もですよ、エルカ様。……このまま馬車を反転させ、誰も知らない遠くの森へ連れ去ってしまいたい」
彼の言葉は、冗談には聞こえなかった。
むしろ、それが彼の一番の願望なのだろう。
「ですが、今日はショーの開幕です。貴女という宝石を、一番高い場所で見せつけてやらねばなりません」
彼は私の乱れた髪を指で直し、耳元にキスをした。
「行きましょう。私の手を離さなければ、何も恐れることはありません」
「……離さない。絶対」
「ええ。もし離したら……」
彼は私の手袋の上から、指を絡めた。
ギリリ、と痛いほどに握りしめる。
「……私が貴女を鎖で繋いででも、引き戻しますから」
馬車が停止した。
外から、ファンファーレの音と、人々の歓声が聞こえてくる。 扉が開かれる。
眩い光が、暗い車内に雪崩れ込んでくる。
「さあ、エルカ様」
アルフォンスが先に降り、私に手を差し伸べた。 逆光の中で、彼の姿だけが黒く、鮮明に浮かび上がっていた。 私の唯一の道標。 私の世界の全て。
私はその手を取った。 ドレスの重みを感じながら、ゆっくりとステップを降りる。
「……うわぁ……」
降り立った先は、光の洪水だった。
巨大なシャンデリアが輝くエントランス。
着飾った貴族たち。 飛び交う視線。
「……あの方が? あのゴミ屋敷の……?」
「まさか。あんなに美しいなんて……」
「隣の執事は誰だ? 見たことがないが……」
さざめきが広がる。
好奇の目、羨望の目、嫉妬の目。
無数の視線が矢のように私に突き刺さる。
普段なら、その圧力だけで気絶していただろう。 でも、今は違う。
(……うるさい)
薬のおかげか、彼らの声は遠くのラジオのノイズのようにしか聞こえなかった。
視界の端に映る彼らの顔も、ぼんやりとしたモザイクのようだ。
鮮明なのは、私の手を引くアルフォンスの背中と、繋がれた手から伝わる熱だけ。
「……顔を上げて、エルカ様」
横に並んだアルフォンスが、小声で指示した。
彼の顔は、完璧な「営業用スマイル」を張り付けている。 だが、私を握る手の力は、骨が砕けそうなほど強い。
「貴女は主賓です。誰よりも傲慢に、堂々と歩きなさい。この会場の全ての人間を、道端の石ころだと思って」
「……石ころ」
「そうです。私以外の全ては、貴女の靴底を汚す塵にすぎません」
なんて傲慢な。
でも、その傲慢さが、今の私には心地いい鎧となった。 私は背筋を伸ばし、顎を引いた。
ミッドナイト・シルクのドレスが、動きに合わせて星屑のように煌めく。
「……行くわよ、アルフォンス」
「御意」
私たちは歩き出した。 光と視線の渦の中へ。
そこは華やかな社交界という名の、猛獣たちが跋扈するジャングルだった。
だが、最強の魔獣使いに繋がれた私は、もう震えてはいなかった。 ただ、彼の熱に酔いしれながら、夢遊病者のように微笑んでいた。
読んでくださってありがとうございます。
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