第20話「完成された傑作、そして不穏な影」
◆ 更新スケジュール ◆
この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。
「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。
アルフォンス・クラインがこの塔に派遣されてから、ちょうど一ヶ月が経過した。
三十日。 それは、ゴミ屋敷のズボラ魔女が、
国一番の美女へと変貌するのに十分な期間であり――同時に、一人の人間が自立心を完全に喪失するのにも十分すぎる期間だった。
「……んぅ」
朝、私はベッドの上で小さく呻いて、右手を差し出した。 目を開ける必要はない。私が手を伸ばせば、そこには必ず「彼」がいるからだ。
「おはようございます、エルカ様」
予想通り、温かくて大きな手が私の手を包み込んだ。 そして、私の背中に腕が回り、抱き起こされる。 枕元には、適温に冷まされた白湯が用意されている。
「さあ、一口飲んで。喉を潤してから、洗顔に向かいますよ」
カップが口元に当てられる。
私はコクリと水を飲む。
自分でカップを持つことすらしない。
一週間前の「シルバー・スプーン事件」以来、
私の生活能力は著しく退化していた。
いや、退化させられたのだ。
この完璧すぎる執事によって。
「……アルフォンス、今日のお洋服は?」
「本日は、先日完成した『例のドレス』の最終調整を行います。……いよいよ明日は建国記念パーティーですからね」
アルフォンスは濡れたタオルで私の顔を丁寧に拭きながら、楽しそうに目を細めた。
その瞳は、完成間近の絵画を見つめる画家のそれだった。
リビングの中央。
磨き上げられた巨大な姿見の前に、私は立っていた。
「……すごい」
思わず、ため息が漏れた。
鏡の中にいるのは、私であって私ではない、誰か別の生き物だった。
纏っているのは、夜の闇を切り取って織り上げたような、深い紫色のドレス。
素材は最高級の「ミッドナイト・シルク」。
照明の角度によって、夜空の星々のように微細な銀糸が煌めく。 大胆に開いた背中とデコルテは、
透き通るような肌を際立たせ、コルセットで締め上げられたウエストは、折れそうなほど細く優美な曲線を描いている。
そして、髪。
アルフォンスが毎日二百回梳き続けた黒髪は、
もはや宝石の域に達していた。
複雑に編み込まれ、真珠の髪飾りで留められたその髪型は、私の首筋の美しさを強調している。
「……完璧だ」
背後で、アルフォンスが低い声で呻いた。
彼は私の肩に手を置き、鏡越しに自分の「作品」を凝視している。
「見てください、エルカ様。一ヶ月前、ゴミに埋もれていた貴女が、今や女神すら裸足で逃げ出すほどの美貌を手に入れた」
彼の指が、私の露出した肩をツーっとなぞる。
ドレスの冷たい感触と、彼の手の熱。
そのコントラストに、私は身震いした。
「……これ、本当に私?」
「ええ。貴女です。ですが、正確には『私の手が入った貴女』です」
彼は私の耳元に唇を寄せた。
「この肌の白さも、髪の艶も、身体のラインも。……すべて私が計算し、管理し、磨き上げた成果です」
「あんたの作品ってこと?」
「最高傑作です」
アルフォンスは私の腰に手を回し、強く引き寄せた。ドレスの布地が擦れる音が、シュッと響く。
「正直、誰にも見せたくない」
彼の声色が、フッと暗くなった。
「このまま塔に閉じ込めて、私だけが貴女を愛でていたい。外の不潔な空気に触れさせるなど、冒涜に等しい」
「……じゃあ、行かなくていい?」
「ダメです」
彼は即答し、私の首筋に吸い付くようなキスを落とした。 チュッ。 所有印を押すような、重い音。
「貴女の美しさは、世界に知らしめなければなりません。……そして、それ以上に」
彼は顔を上げ、鏡の中の私と視線を合わせた。
アイスブルーの瞳が、独占欲でギラギラと燃えている。
「この美しい魔女が、誰の『モノ』であるかを、骨の髄まで理解させてやらねばなりませんから」
「……物騒なこと言わないでよ」
「事実です。……おや、少し歩いてみてください」
言われて、私は一歩足を踏み出した。
その瞬間。 ズシリ。
ドレスの裾が、急に鉛のように重くなった。
「っ!? お、重い……!」
「作動しましたね。『安全装置』が」
アルフォンスはニヤリと笑った。
「私が以前言った通りです。……私から一定距離離れると、そのドレスには重力魔法がかかります。貴女が勝手にどこかへ行こうとしても、物理的に不可能です」
「……最悪! トイレはどうすんのよ!」
「私がエスコートします。個室の前まで」
「変態!」
私は頬を膨らませたが、本気で怒る気にはなれなかった。
この重みすら、彼に守られている証のように感じてしまう。 完全に毒されている。
私はもう、彼という檻の中でしか呼吸ができない「飼い慣らされた魔女」なのだ。
その時だった。
ヒュンッ!
窓の外から、鋭い風切り音が聞こえた。
直後、ガラス窓をすり抜けて一羽の銀色の鷹がリビングに飛び込んできた。 鷹は空中で光の粒子となって弾け、一枚の赤い羊皮紙へと姿を変えた。
「……緊急伝令?」
私は息を呑んだ。 赤い羊皮紙は、魔法省における最高レベルの緊急事態を示す色だ。
「……チッ」
アルフォンスが舌打ちをした。
彼は私を背中に庇うようにして前に立ち、空中の羊皮紙をひったくった。
「不躾な。……私の最高傑作を鑑賞している最中に」
彼は不機嫌そうに封を切り、中身を一読した。
瞬間。 部屋の温度が、氷点下まで下がった気がした。
「……アルフォンス?」
彼の背中から、どす黒い殺気が溢れ出している。 いつもは冷静沈着な彼が、手にした羊皮紙を握り潰し、青白い炎で焼き尽くした。 灰が床に落ちる。
「……内容は?」
「魔法省からの、最終通達です」
アルフォンスは振り返った。
その表情は笑っていた。 だが、目は笑っていない。 瞳孔が極限まで開き、アイスブルーの瞳が、深海のように暗く濁っている。
「明日のパーティーにおける、貴女の立ち位置について詳細な指示がありました」
「……立ち位置?」
「ええ。貴女は単なる参加者ではない。『主賓』として招かれているそうです」
「主賓!? 私が!?」
驚いた。 引きこもりのズボラ魔女が、国の主賓? 冗談じゃない。目立ちたくないのに。
「……理由は?」
「表向きは、貴女の魔法研究の功績を称えるため。……ですが」
アルフォンスは眼鏡の位置を直し、吐き捨てるように言った。
「真の目的は、縁談です」
「……え?」
「隣国である『北の大国』の第三王子が、来賓として参加しています。……魔法省の上層部は、美しく磨き上げられた貴女をその王子に宛がい、政略結婚の駒として利用するつもりだ」
「け、結婚……!?」
頭が真っ白になった。
結婚? 私が? 知らない王子と?
そんなの、絶対に無理だ。
だって私は、自分でお茶も淹れられないし、服も着られない。 アルフォンスがいなきゃ、一日だって生きていけないのに。
「……嫌よ。そんなの」
私は震える声で言った。 恐怖で足がすくむ。
ドレスの重みとは違う、もっと重くて冷たい鎖が、心臓に巻き付く感覚。
「アルフォンス……私、行かない。ここから出ない」
私は彼に縋り付いた。
ベストの背中をギュッと掴む。
「あんたが言ったじゃない。ここは私の聖域だって。……外の世界は汚いんでしょ? 私を汚したくないんでしょ?」
「……ええ。その通りです」
アルフォンスは私の手の上に、自分の手を重ねた。 冷たい手袋の感触。
だが、その下にある彼の体温は、怒りで沸騰しているようだった。
「許せませんね。私が手塩にかけて育てた花を、泥棒猫どもが横から掠め取ろうとするなど」
ギチリ。 彼が歯を噛み締める音がした。
「貴女は誰のモノでもない。ましてや、国家のモノでも、どこの馬の骨とも知れぬ王子のモノでもない」
彼はゆっくりと私の方を向き、私の顔を両手で包み込んだ。
その瞳には、もはや「執事」の理性はなかった。あるのは、自分の所有物を侵そうとする外敵を殲滅せんとする、「魔王」のような覇気だけ。
「貴女は、私のモノだ」
断言した。 彼は私の額に、誓いのキスを落とした。今までで一番強く、痛いほどのキス。
「……安心なさい、エルカ様。縁談など、私が全て握りつぶします」
「……でも、魔法省の命令よ? 逆らったら……」
「構いません。……必要であれば、魔法省ごと焼き払っても」
彼は冗談めかして言ったが、その目は本気だった。 この男なら、本当にやりかねない。
私一人のために、国を敵に回すことすら厭わない狂気が、そこにはあった。
「パーティーには出席します。……逃げれば、彼らは軍隊を差し向けてくるでしょう」
「……っ」
「ですが、恐れることはありません。貴女の隣には、私がいます」
アルフォンスは私の腰を引き寄せ、ドレスの上から強く抱きしめた。
「見せつけてやりましょう。貴女という最高傑作が、誰の管理下にあり、誰の手によってのみ輝くのかを」
彼は私の耳元で、甘く、恐ろしい声で囁いた。
「もし、王子だろうが国王だろうが、貴女に指一本でも触れようとしたら……その指をへし折って差し上げます」
「……アルフォンス……」
怖い。 彼の殺意が、嫉妬が、独占欲が怖い。
でも、それ以上に――嬉しい。
彼がここまで私に執着してくれていることが、
どうしようもなく安心する。
世界中が敵に回っても、この男だけは私を離さない。
その絶対的な保証が、震える私の心を支えていた。
「……うん。行くわ」
私は彼の胸に顔を埋めた。
蜜蝋と石鹸、そして微かな硝煙の匂い。
「私、あんた以外の人形になんてなりたくない。……あんただけの、ダメな魔女でいたいの」
「……ええ。約束します」
アルフォンスは私の背中を撫でた。
「貴女は一生、私の塔で、私の紅茶を飲み、私の腕の中で眠るのです。その未来を邪魔する者は、神ですら排除します」
窓の外では、祝祭の前触れを告げる花火が上がっていた。 光と音。
だが、塔の中の私たちは、それよりも熱く激しい「共犯の炎」に包まれていた。
完成された傑作である私と、それを守る狂気の執事。 私たちの戦いが、いよいよ幕を開ける。
読んでくださってありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
感想や評価・ブックマーク、とても励みになります。




