第19話「シルバー・スプーンの誓い」
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「……コホッ、コホッ」
朝の光が差し込む寝室で、私はわざとらしく咳き込んだ。 布団を顎まで引き上げ、身体を小さく丸める。 完璧な演技だ。……たぶん。
「……おや、エルカ様。まだ起床されませんか?」
規則正しいノック音と共に、アルフォンスが入室してきた。 いつものようにカーテンを開け放ち、私の惰眠を貪る権利を剥奪しに来たのだ。
「……うぅ……なんだか、身体がだるくて……」
私は弱々しい声を出し、上目遣いで彼を見た。
起き上がれないフリをして、シーツをぎゅっと握る。
「……熱があるかも。頭も痛いし……今日はお休みするわ」
嘘である。
昨夜の夕食もしっかり食べたし、睡眠も八時間バッチリ取った。今の私は、ドラゴンですら素手で倒せそうなほど健康体だ。
それなのに、なぜこんな猿芝居をしているのか。
それは――昨日の「共同研究」のせいだ。
魔力を混ぜ合わせ、甘い香りに包まれたあの時間の心地よさが、忘れられないのだ。
もっと構われたい。 もっと心配されたい。
雷の夜みたいに、優しく抱きしめられて、「よしよし」されたい。
(……私、だいぶ終わってるわね)
自覚はある。
かつての孤高の魔女はどこへ行ったのか。
でも、一度味わってしまった蜜の味には抗えない。
「……ほう」
アルフォンスがベッドサイドに歩み寄ってきた。 彼は私の額に手を当てた。
ひんやりとした手袋の感触。 そして、眼鏡の奥のアイスブルーの瞳が、至近距離で私を検分する。
「……体温、36・5度。脈拍、正常。顔色、良好。瞳孔反応、明瞭」
彼は淡々とバイタルサインを読み上げた。
「……医学的見地からは、健康そのものに見受けられますが」
「うっ……そ、それは表面上の数値よ! 内面が、こう……魔力回路が炎症を起こしてるの!」
苦しい言い訳だ。
バレている。絶対にバレている。
彼ほどの観察眼を持つ男が、私の下手な演技を見抜けないはずがない。 怒られるだろうか。
「甘えるな」と布団を剥がされるだろうか。
私は身構えた。
だが、アルフォンスの口から出たのは、予想外の言葉だった。
「……それは大変ですね」
彼は深刻そうな顔を作り、大げさに頷いた。
「魔力回路の炎症……『甘えん坊熱』の疑いがあります。これは重篤だ」
「え?」
「直ちに絶対安静が必要です。本日は全ての予定をキャンセルし、徹底的な治療を行いましょう」
彼はニッコリと微笑んだ。
その笑顔は、病人を気遣う聖職者のようであり――罠にかかった獲物を眺める猟師のようでもあった。
「……え、あ、うん。お願い……」
私は少し引け腰になりながらも頷いた。
まあいいわ。とりあえず、今日は一日ベッドでゴロゴロできる権利を勝ち取ったのだから。
しかし、私は甘かった。
「完璧な執事」の看病が、ただの「放置」であるはずがないことを、失念していたのだ。
「――動かないでください」
昼時。 私がトイレに行こうと上体を起こした瞬間、鋭い制止の声が飛んだ。
「え、トイレ……」
「ダメです。貴女は重病人なのですから、歩くことなど許されません」
アルフォンスは私を軽々と抱き上げると、そのままトイレまで運搬した。 そして、用を足す間もドアの外で待機し、終わったらまた抱き上げてベッドに戻す。文字通り、足が地につかない。
「ちょ、ちょっと過保護すぎない!?」
「何をおっしゃいます。患者の体力を温存するのは、看護人の義務です」
彼は涼しい顔で私を布団に押し戻し、隙間なく包み込んだ。指一本、外気触れさせないという鉄壁の守り。
「さて、栄養補給の時間です」
彼がワゴンから取り出したのは、湯気の立つ銀色の器だった。 中に入っているのは、とろりとした乳白色のスープ。 鶏肉と野菜をじっくり煮込み、裏ごしして滑らかにした、特製のポタージュだ。 ふわりと漂う、優しくて濃厚な香り。
「おいしそう……。いただこうかしら」
私は手を伸ばした。 だが、その手は空中で彼の手によって優しく、しかし強固に制止された。
「……?」
「エルカ様。貴女はスプーンを持つ体力すらないはずですよ?」
アルフォンスは眼鏡を光らせ、諭すように言った。
「重病人が、自分で食事をするなど言語道断。……私が介助いたします」
「えっ、いや、それくらいできるってば……」
「ダメです。スプーンの重みで手首を骨折したらどうするのですか」
「そんなわけあるか!」
私の抗議など聞こえないふりで、彼は椅子に腰掛け、私の枕元に陣取った。
右手には、柄に繊細な彫刻が施された、純銀のスプーン。
彼はスープをひと掬いすると、フーフーと息を吹きかけて冷ました。
「……さあ、口を開けて」
銀のスプーンが、私の目の前に差し出される。
いわゆる「あーん」。 しかも、向かい合って座る恋人同士のそれではない。 完全に、幼児に対する母親の構図だ。
「……は、恥ずかしいわよ……」
「誰も見ていません。私と貴女だけです」
彼はスプーンを引かない。
アイスブルーの瞳が、じっと私の唇を見つめている。 早くしろ、という無言の圧力。
そして、隠しきれない期待の色。
「……うぅ……」
私は観念して、小さく口を開けた。
スプーンが滑り込んでくる。
ヒヤリとした銀の感触と、温かいスープの味。
「……んッ」
美味しい。 野菜の甘みが凝縮されていて、噛まずに飲めるほど滑らかだ。 喉を通り抜ける温かさが、嘘の病気で冷えていたという設定の身体に染み渡る。
「……おいしい」
「よろしい。咀嚼も不要なように調理しましたから、貴女はただ飲み込むだけでいい」
アルフォンスは満足げに頷き、ナプキンで私の口元をチョンと拭った。
「はい、次です」
二口目。三口目。
私は雛鳥のように口を開けて待つ。
彼は完璧なペース配分で、スープを運び続ける。 自分で食べる手間がないことが、こんなに楽だなんて知らなかった。 スプーンを口に運ぶ労力すら、彼が肩代わりしてくれる。
私はただ、彼を見つめて、口を開ければいい。
「……」
食べている間、アルフォンスはずっと私を見ていた。 慈愛に満ちた目で。 まるで、手のかかるペットに餌付けをしているような、あるいは、大切に育てた植物に水をやっているような目。
「……どうしました? まだ半分残っていますよ」
「……あんた、楽しそうね」
私が指摘すると、彼はフッと笑った。
「ええ。至福の時間です」
彼はスープを掬いながら、独り言のように呟いた。
「貴女がこうして、私の手からしか栄養を摂取できない状態にあること。……それが、たまらなく愛おしい」
ゾクリ。
スープの温かさとは裏腹に、背筋に冷たいものが走った。
「普段の貴女は、生意気で、口が悪くて、すぐに私の目を盗んで逃げようとする。……ですが、今は違う」
スプーンが、私の唇に当たる。
カチリ、と小さな音がした。
「今の貴女は、私がいなければ食事もできない。トイレにも行けない。……完全に無力で、私の管理下にある」
「……それ、仮病だって分かってて言ってるの?」
「当然です」
彼は悪びれもせず認めた。
「貴女が私に甘えたがっていることなど、お見通しです。だからこそ、その望みを叶えて差し上げているのですよ」
「……性格悪い」
「『献身的』と言ってください」
彼はスプーンを私の口に押し込んだ。
私は文句を言うために開けた口で、そのままスープを飲むしかなかった。
悔しい。 全部手のひらの上だ。
でも、そのスープは悔しいほど美味しくて、彼の言葉通り、私を芯からとろとろに溶かしていく。
「……全部、飲んでしまいましたね」
いつの間にか、器は空になっていた。
お腹がいっぱいになると、今度は強烈な眠気が襲ってきた。 お腹が満たされ、身体が温まり、心配事は何もない。 安全で、清潔なベッドの中。
「……ねむい……」
「でしょうね。消化を助けるために、少し眠くなるハーブを入れておきましたから」
「……また、盛ったの……?」
「人聞きが悪い。安眠のための処方です」
アルフォンスは空いた食器をワゴンに戻すと、
再び私のそばに戻ってきた。
そして、ベッドの縁に腰掛け、私の前髪を指で梳いた。
「……寝なさい、エルカ様。何も考えなくていい」
彼の手が、私の瞼を覆う。 暗闇。
でも、怖くない。
彼の手の熱と、蜜蝋の香りがそこにあるから。
「……アルフォンス……」
「はい」
「……ずっと、そばにいてね……」
薬のせいだろうか。
それとも、幼児退行してしまったせいだろうか。
普段なら絶対に言わないような言葉が、ポロリとこぼれた。
「……ええ、誓いますとも」
彼の声が、耳元で響く。
甘く、重く、そして決して逃さないという鋼の響きを含んで。
「貴女が病める時も、健やかなる時も。……特に、病んで無力になった時は、私が全身全霊で貴女を『管理』し続けます」
「……んぅ……」
私は彼の指を握りしめたまま、深い眠りに落ちていった。
意識が途切れる寸前、彼が私の額にキスをしたのを感じた。
「……いっそ、本当に手足が動かなくなればいいのに」
そんな不穏で、甘美な呟きを聞いた気がしたけれど、夢の中の私は、それを「愛の言葉」として受け入れていた。
数時間後。
私が目を覚ますと、夕焼けが部屋を赤く染めていた。 気分はすっきりしていた。 仮病だったはずなのに、本当にリフレッシュできた気がする。
「……よく寝た」
私は大きく伸びをして、ベッドから降りようとした。その時、サイドテーブルに置かれた一枚のメモに気づいた。
『追伸:本日は「重病人」の設定ですので、夕食までベッドからの移動を禁じます。もし動いた形跡があれば、明日の食事は離乳食に変更させていただきます。 ――管理者より』
「……ッ!?」
私は慌てて足を引っ込めた。
離乳食。 あの男ならやりかねない。
哺乳瓶でミルクを飲ませてきかねない!
「……動けないじゃない」
私は再び布団を被り、天井を見上げた。
お腹が空いた。 トイレにも行きたい。
でも、動けば「赤ちゃん扱い」が待っている。
「……アルフォンスー! トイレ連れてってー!」
私は大声で叫んだ。 数秒後、廊下から革靴の音が近づいてくるのが聞こえた。
その足音が、どこか嬉しそうに弾んでいる気がして、私は顔を枕に埋めた。
自立心なんて、もうとっくになくなっていたのかもしれない。 銀のスプーンの味を知ってしまった私は、もう二度と、一人で生きていくことなんてできないのだから。
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