第17話「眼鏡を外した『死神』の素顔」
その日の午後、塔のバスルームでは、定期的な「浄化の儀式」――つまりは、アルフォンスによる大掃除が行われていた。
「……そこまでやる必要ある?」
私は脱衣所の椅子に座り、呆れ半分でその光景を眺めていた。
アルフォンスは、シャツの袖をまくり上げ、濡れた床に膝をつき、巨大な一枚鏡を磨き上げていた。 彼の動きには迷いがない。
右手に持ったスポンジと、左手のスクイージーが、まるで指揮者のタクトのように優雅に舞う。 キュッ、キュッ、という音が、リズムよく響き渡る。
「当然です。鏡は貴女の美しさを映すための祭壇。水垢一つ、曇り一つ許されません」
彼は作業の手を止めずに答えた。
その背中は、相変わらず隙がない。
汗一つかかず、呼吸も乱さず。
ただ黙々と、鏡の中に潜むミクロの汚れと戦っている。
「それに、貴女がシャワーを浴びる際、曇った鏡では自分の体型変化ができませんからね。……常に己の裸体と向き合い、管理される自覚を持っていただかねば」
「……はいはい。ご苦労なこって」
私は肩をすくめた。
最近の彼は、パーティーに向けたドレス作りの傍ら、私のボディメイクにも余念がない。
鏡を見るたびに、「ウエストが二ミリ締まりましたね」「鎖骨のラインが甘い」と小言を言われるのだから、たまったものではない。
「……ふむ。あそこの隅、まだ汚れの気配がしますね」
アルフォンスが立ち上がり、鏡の最上部――私の身長では絶対に届かない高さに手を伸ばした。
彼が爪先立ちになり、身を乗り出す。
濡れたタイル。 蒸気が充満した浴室。
悪条件は揃っていた。
ツルッ。
「――っ」
彼の革靴が、ほんの数ミリ、滑った。
完璧な彼にしては珍しい、体勢の崩れ。
彼は反射的に壁に手をつこうとして――顔を庇うように腕を上げた。
ガシャンッ!!
乾いた破砕音が、浴室に響き渡った。
「あ……」
私は息を呑んだ。
アルフォンスが、床に膝をついている。
その手元には、無惨に砕け散った銀色のフレームと、粉々になったレンズの破片があった。
彼のトレードマークであり、知性の象徴であり、
そして私の管理者の証である「眼鏡」が、死体となって転がっていた。
「……アルフォンス? だ、大丈夫?」
私は慌てて駆け寄った。 怪我はないだろうか。
破片で切ったりしていないだろうか。
「……申し訳ありません」
低い声がした。
いつもの、澄み切ったバリトンボイスではない。
もっと低く、掠れた、地を這うような声。
「手元が……狂いました」
彼がゆっくりと顔を上げた。
「……っ」
私は、その場に釘付けになった。
そこにいたのは、私の知っている執事ではなかった。
銀髪が、湿気を含んで額に落ちている。
そして、あの冷徹な理性を宿していたレンズがない。 露わになったのは、驚くほど彫りの深い顔立ちと――
「……見えませんね」
アイスブルーの瞳。
いつもは鋭利な刃物のように私を検分していたその目が、今は焦点を失い、ぼんやりと虚空を彷徨っていた。 その瞳孔は、猫のように細く収縮している。 無防備で、幼くて、そしてどうしようもなく「危険」な色をしていた。
「……エルカ様? どこにいますか?」
彼が目を細めた。 長い睫毛が震える。
焦点が合わないせいか、彼の視線は定まらず、
私の輪郭を探すように左右に揺れる。
「こ、ここよ。すぐ目の前」
私は恐る恐る手を振った。
眼鏡がないだけで、こんなに印象が変わるなんて。
「冷徹な管理者」の仮面が剥がれ落ち、その下から現れたのは、獲物を探して森を彷徨う、若き獣のような素顔だった。
「……ああ、その色」
アルフォンスが呟いた。
「ぼんやりとした世界の中で……貴女の魔力の色だけが、鮮明に見えます」
彼が手を伸ばしてきた。
探るような手つきではない。
獲物の位置を確信した、捕食者の動きだ。
ガシッ。
私の手首が掴まれた。 強い。
いつもの、優しくエスコートする力加減ではない。骨がきしむほどの握力。
「……アル、フォンス……?」
「……眼鏡がないと、不便ですね」
彼は私の手首を引き寄せ、強引に立ち上がらせた。 距離が縮まる。
私の鼻先が、彼の濡れたシャツの胸元にぶつかる距離。
「視覚情報が遮断されると……他の感覚が鋭敏になりすぎる」
彼は私を引き寄せたまま、顔を近づけてきた。
焦点の合わない瞳が、至近距離で私を捉える。
怖い。 美しいけれど、話が通じなさそうな、
異生物と対峙しているような恐怖。
「……匂い。熱。そして、脈動」
彼のもう片方の手が、私の首筋に伸びた。
素手の指先が、頸動脈の上を這う。
ドクン、ドクンと早鐘を打つ私の脈を、彼が確かめる。
「……エルカ様。貴女は今、恐怖していますか?」
「だ、だって……あんた、顔が怖いもん……」
「怖い? ……いいえ、これは『飢え』です」
彼はニヤリと笑った。
その笑みには、いつもの余裕も、品格もなかった。あるのは、剥き出しの渇望だけ。
「普段、私は眼鏡というフィルターを通して、貴女を『情報』として処理しています。……体重、体温、魔力量。数値化されたデータとして管理することで、理性を保っている」
彼の指が、首筋から頬へ、そして唇へと這い上がる。 視覚に頼れない分、彼は触覚で私の顔を「視よう」としているのだ。 指の腹が、私の唇の形をなぞる。 熱い。火傷しそうなほど熱い指。
「ですが、そのフィルターがなくなると……貴女はただの『雌』になる」
「……っ!?」
耳を疑うような言葉だった。
あの潔癖症のアルフォンスが。
私を「汚らわしい」と罵り続けてきた彼が。
「……アルフォンス、離して……予備の眼鏡、持ってくるから……」
「待ちなさい」
逃げようとした私の腰に、腕が回った。
グイッ、と引き寄せられ、壁に押し付けられる。 背中のタイルが冷たい。 対照的に、密着した彼の身体は、沸騰したように熱い。
「……行かせません」
彼は私の逃げ場を塞ぐように、壁に手をついた。
だが、その距離はあまりに近すぎた。
彼の銀髪から滴る水滴が、私の頬に落ちる。
「……少しだけ、このままでいさせてください。……眼鏡を取りに行くまでの数分間、私は『執事』でいられそうにありませんから」
「……じゃあ、なんなのよ」
「……男、でしょうか」
彼は自嘲気味に笑うと、眼鏡のない無防備な顔を、私の首元に埋めた。
「……ッ!」
吸い付くような吐息。 彼が鼻から大きく息を吸い込む音が、直接鼓膜に響く。
「……ああ、甘い。……視界が悪い分、この香りが脳髄を直接犯してくる」
彼は私の匂いを嗅いでいる。
それも、確認作業のような事務的なものではない。麻薬中毒者が、禁断の粉を吸い込むような、必死で、貪欲な吸引。
「……アルフォンス、くすぐったい……」
「……黙って」
彼は私の抗議を無視して、さらに深く顔を埋めた。 唇が、鎖骨に触れる。
歯が、薄い皮膚を甘噛みする。
「視覚がないと、貴女の『汚れ』も見えません」
彼が囁いた言葉に、私は息を呑んだ。
「貴女がどれほどズボラで、どれほど手のかかるダメな魔女か。その情報が遮断されると、残るのは……」
彼は顔を上げ、至近距離で私を見据えた。
ぼやけたアイスブルーの瞳が、潤んで揺らめいている。
「……ただ、どうしようもなく愛おしくて、壊してしまいたいほど唆る、私の所有物だという事実だけ」
「……っ」
心臓が止まるかと思った。
彼は今、なんて言った? 愛おしい? 唆る?
「……眼鏡がないと、貴女を『管理物』として見る理性が保てそうにありません」
彼の手が、私の頬を包み込んだ。
親指が、私の下唇を強く擦る。
キスをする直前の、あの独特な緊張感。
彼の顔が傾く。
整いすぎた鼻筋が、私の鼻先と触れ合う。
「……アル、フォンス……」
拒めなかった。 怖いのに。 今の彼は、私を守る執事じゃなくて、私を喰らおうとする獣なのに。
その瞳に見つめられると、身体の奥が疼いて、力が抜けてしまう。
「……目、悪いんでしょ……?」
私は震える声で、精一杯の軽口を叩いた。
「……キスする場所、間違えないでよ……?」
私の言葉に、アルフォンスの目が僅かに見開かれた。そして、フッ、と吐息を漏らすように笑った。
「……侮らないでください」
彼は私の顎をくい、と持ち上げた。
「貴女の唇の位置など……座標計算しなくとも、私の本能が知っています」
唇が重なる―― その寸前だった。
パチン。
指を鳴らす音が響いた。 瞬間、青白い光が走り、彼の顔に「予備の眼鏡」が出現した。
「……え?」
私は呆気にとられて、彼を見上げた。
そこには、新品の銀縁眼鏡を装着し、いつもの冷徹な光を取り戻したアルフォンスが立っていた。
「……ふぅ。危ないところでした」
彼は冷静に眼鏡の位置を直し、私からパッと離れた。 さっきまでの獣のような熱気は、霧散している。 壁に押し付けられていた私は、支えを失ってよろめいた。
「……あ、あれ? 予備、持ってたの?」
「当然です。私は完璧な執事ですから。……亜空間収納に、常時五本はストックしています」
彼は涼しい顔で言い放った。
じゃあ、さっきのは何だったの? 眼鏡がないから理性が保てないとか、男になるとか、あんなに追い詰めておいて?
「……からかったの?」
「いいえ。……予備を取り出すまでの『数秒間』の隙を、貴女の匂いが埋め尽くしただけです」
彼は床に落ちた眼鏡の残骸を、魔法で片付けながら言った。
「……やはり、眼鏡は必須ですね。このフィルターがなければ、私は今頃、このバスルームで貴女を『検品』ではなく『試食』していたかもしれません」
彼は背中を向けたまま、低い声で付け加えた。
「……貴女があんなに、無防備な顔で誘うからです」
「さ、誘ってないわよ!」
「いいえ、誘っていました。……『キスする場所を間違えないで』などと」
「ぎゃーーーッ! 忘れて! 今すぐ記憶消去して!」
私は顔を覆って叫んだ。 聞かれていた。
あんな恥ずかしい台詞を、完璧に聞かれていた!
「無理ですね。私の記憶野は、貴女に関するデータを一度たりとも削除しませんから」
アルフォンスは振り返り、ニッコリと微笑んだ。 眼鏡の奥の瞳は、いつもの理知的なアイスブルーに戻っている。 でも、その奥底には、さっき見た「獣」の光が、まだチロチロと燃え残っているのが見えた。
「さあ、掃除を再開します。エルカ様は向こうへ行っていてください。これ以上近くにいると、また私の手元が狂いそうですから」
「……ふんだ! 勝手にすれば!」
私は逃げるようにバスルームを飛び出した。
心臓がまだバクバクしている。
背中に残る壁の冷たさと、唇に残る彼の指の熱さ。そして、眼鏡を外した時の、あの無防備で危険な素顔。
(……死神っていうか……狼じゃない)
私は自分の唇に触れた。
もし、彼が予備の眼鏡を取り出さなかったら。
もし、あのまま唇が重なっていたら。
私たちは、主従という境界線を越えて、もっと深い沼に落ちていたのかもしれない。
「……バカ」
誰にともなく呟いて、私は熱くなった頬を両手で冷やした。 あの「素顔」は、心臓に悪すぎる。
もう二度と、彼の眼鏡が割れませんように。
……でも、もう一度だけ見てみたい気もする。
そんな矛盾した願いを抱きながら、私は自分の部屋へと駆け戻った。




