第16話「塔を揺らす雷鳴、震える魔女」
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夜の帳が下りると同時に、世界は水没したようだった。 窓の外では、滝のような豪雨が塔の外壁を叩き続けている。 風の唸り声は、まるで地獄の底から這い上がってきた亡者の慟哭のようだ。
「……嫌な天気」
私はベッドの中で、シルクの布団を頭まで被り、
小さく震えていた。時刻は深夜一時。
普段なら、アルフォンスに強制消灯されて熟睡している時間だ。 だが今夜は、どうしても目が冴えてしまう。
大気の魔素が乱れている。
空気中に充満する静電気の味。
湿ったオゾンの臭い。 肌がピリピリと痛い。
「……来る」
直感した瞬間だった。
カッ!!
視界が真っ白に染まった。
瞼を閉じて布団の中に潜り込んでいるのに、網膜を焼き尽くすような閃光。
ドォォォォォォォォォンッ!!!!
直後、鼓膜を破るような轟音が炸裂した。
塔全体が悲鳴を上げて振動する。
「ひぃッ!?」
私は悲鳴を上げ、耳を塞いで丸まった。
怖い。 雷はダメだ。どうしてもダメだ。
幼い頃、落雷の火事で家も、愛する家族も一瞬にして奪われた記憶。
炎、熱さ、そして一人ぼっちで瓦礫の下に取り残された絶対的な孤独。
天涯孤独になった私が、その数日後、雨の降るゴミ捨て場で泥だらけの少年を拾ったのは……きっと、死にかけていた彼の中に「すべてを失った自分と同じ絶望」を見たからだった。
あの日の喪失のトラウマが、十年以上経った今でも、雷鳴のたびに私の心臓を氷の手で鷲掴みにする。
「やだ、やだ……来ないで……!」
ゴロゴロ、バリバリバリ……。
空が割れる音が続く。
私の呼吸は浅くなり、過呼吸気味にヒューヒューと喉が鳴る。
「……あ、制御が……」
恐怖で理性が飛び、体内の膨大な魔力が暴走を始めた。私の感情に呼応して、部屋中の物がガタガタと震え出す。
ガシャン! サイドテーブルの水差しが割れた。
バサバサバサ! 本棚から魔導書が飛び出し、蝙蝠のように部屋を旋回する。 アルフォンスが綺麗に整えたカーテンが、見えない風に煽られて荒れ狂う。
「と、止まって……お願い……!」
止めようとすればするほど、恐怖が魔力を加速させる。 部屋の空気が重くなり、重力が歪む。
このままでは、アルフォンスが作り上げたこの「完璧な寝室」を、私が破壊してしまう。
(怒られる……! あいつに、また『汚した』って蔑まれる……!)
それだけは嫌だった。
でも、身体が言うことを聞かない。
次の雷鳴が近づいてくる気配がする。
もっと大きくて、もっと破壊的な一撃が。
「――ッ!!」
ピカッ、と窓が光った瞬間。
私は絶望的な叫び声を上げようと口を開いた。
バンッ!!
雷鳴よりも先に、扉が開く音がした。
「――エルカ様ッ!」
鋭い声。 次の瞬間、私の身体は強い力で抱きすくめられていた。
ドォォォォォンッ!!
雷が落ちた。
すぐ近く、おそらく塔の避雷針に直撃した衝撃。
だが、私は震えなかった。
耳元で響く轟音よりも、私を包み込む「熱」の方が、圧倒的に鮮烈だったからだ。
「……ッ、はぁ、はぁ……」
恐る恐る目を開ける。
目の前にあったのは、真っ白なシャツの胸元だった。 私の顔は、誰かの硬い胸板に押し付けられている。 鼻腔を満たすのは、雨の匂いでも焦げ臭いオゾンの匂いでもない。
濃厚な蜜蝋と、清潔な石鹸、そして微かに香るムスク。
「……アル、フォンス……?」
見上げると、そこにはいつもの冷徹な執事がいた。 ただし、その姿は普段とは少し違っていた。
燕尾服の上着はなく、ベストとシャツだけの姿。
いつもは完璧に結ばれているネクタイが少し緩み、
銀髪には一滴、汗が滲んでいる。
そして何より――手袋をしていなかった。
「……ご無事ですか」
彼の素手が、私の背中を強く、痛いほどに抱きしめていた。
その掌から伝わる異常な熱量が、私の凍りついた背骨を溶かしていく。
「暴走していますよ。……深呼吸をして」
彼は私の乱れた魔力を、自分の魔力で強引に抑え込みにかかった。
私の身体から放出される紫色のスパークを、彼のアイスブルーの魔力が包み込み、中和していく。
まるで、荒れ狂う嵐を、静寂な氷河が飲み込むように。
「……怖い……雷、怖い……」
「存じています。……貴女の過去の記録にありましたから」
彼は私をベッドに座らせたまま、子供をあやすように背中をポンポンと叩いた。
そのリズムは、私の早鐘を打つ心臓の音を、
ゆっくりと正常なテンポへと矯正していく。
「……部屋、壊しちゃう……あんたが掃除したのに……」
「家具のことなどどうでもいい」
アルフォンスは短く吐き捨てた。
彼は部屋の中を旋回していた魔導書を、片手で「伏せ」をするように制した。ドサドサドサッ。
本たちが床に落ち、静寂が戻る。
「家具は買い直せばいい。……ですが、貴女が恐怖で心を擦り減らすことは、私が許しません」
彼は私の顔を両手で挟み込み、無理やり自分の方へ向かせた。 眼鏡の奥の瞳が、至近距離で私を射抜く。 そこには、雷に対する怒りと、私に対する過保護なまでの執着が渦巻いていた。
「聞きなさい、エルカ様。この塔は、私の管理下にあります」
バリバリバリ! 外でまた雷が鳴る。
私がビクリと震えると、彼はさらに強く頬を押し包んだ。
「外の世界がどれほど荒れ狂おうと、この私の腕の中は絶対安全圏です。雷ごときが、私の主人を傷つけられると思わないでください」
「……でも、音が……」
「私が塞ぎます」
彼は私を抱き寄せ、片手で私の頭を自分の胸に押し付け、もう片方の手で私の右耳を塞いだ。
左耳は、彼の心臓の真上にある。
ドクン、ドクン、ドクン。
力強く、規則正しい鼓動。
それが、雷鳴をかき消す唯一の音になった。
「……聞こえますか? これが、貴女を守る音です」
「……うん……聞こえる……」
不思議だった。 あんなに怖かったのに。
彼の心音を聞いていると、自分が巨大な城壁の中に守られているような、絶対的な安心感に包まれる。
彼の体温が、シャツ越しに伝わってくる。
熱い。 この人は、どうしてこんなに熱いのだろう。 冷たい言葉ばかり吐くくせに、身体だけは溶岩みたいだ。
「……アルフォンス、行かないで……」
私は無意識のうちに、彼にしがみついていた。
彼のシャツの袖を掴み、緩んだネクタイを指で巻き取るように握りしめる。 離したくない。
今、彼が離れたら、私は恐怖で死んでしまうかもしれない。
「……行きませんよ」
アルフォンスは、私の頭に顎を乗せ、ため息交じりに言った。
「こんな震える小動物を置いて、どこへ行けと言うのです。貴女が眠るまで、ここにいます」
「……朝まで?」
「ええ。雷雲が去り、空が浄化されるまで」
彼はベッドのヘッドボードに寄りかかり、私を抱き枕のように抱え込んだまま、体勢を整えた。
私は彼の膝の間にすっぽりと収まり、彼に背中を預ける形になる。 背中に感じる彼の胸板の厚み。
首筋にかかる彼の吐息。そして、お腹の前で組まれた、彼のごつごつとした大きな手。
「……手、あったかい」
「貴女が冷たすぎるのです。……まるで死人のようだ」
彼は私の氷のように冷たい手を、自分の両手で包み込み、擦り合わせた。
摩擦熱と、彼の体温。 指先から血が巡り始める。
「……ねえ、アルフォンス」
「なんですか」
「……私、あんたがいなかったら、どうなってたのかな」
ふと、そんな疑問が口をついて出た。
落雷で家族を失い、一人ぼっちになった直後……あのゴミ捨て場で彼を拾い、その後一人で塔に引きこもるようになってから、私はどうしていたんだろう。
思い出せない。 ゴミの山に埋もれて、耳を塞いで、
ただあの日の孤独に震えてやり過ごしていたのだろうか。
それとも、恐怖のあまり気絶していたのか。
「……想像するのも不愉快ですね」
アルフォンスが、私の髪に口づけを落とした。
「貴女は一人で泣き叫び、魔力を暴走させ、この部屋を瓦礫の山に変えていたでしょう。……そして、その瓦礫の中で、埃と涙にまみれて朝を迎えていた」
「……最悪ね」
「ええ、最悪です。美しくない」
彼は私の手を強く握りしめた。
「ですが、今は私がいます。貴女が泣く前に私が駆けつけ、貴女が壊す前に私が直す。貴女が震えるなら、私が熱になる」
彼の言葉は、甘い愛の囁きというよりは、絶対的な「契約」の確認のように聞こえた。
「貴女の恐怖も、不安も、弱さも。すべて私が管理し、処理します。ですから貴女は、何も考えずに私の腕の中で腐っていけばいい」
「……腐るって言わないでよ」
「比喩です。……それほどまでに、安心して身を委ねろという意味です」
彼の腕の力が、少し強まった。
拘束されているみたいだ。
でも、その拘束が心地いい。
自由なんていらない。
外の世界の雷に打たれるくらいなら、この熱い檻の中で、彼に管理されていたい。
「……んぅ……」
安心感からか、急激な睡魔が襲ってきた。
張り詰めていた糸が切れ、瞼が重くなる。
「……眠くなりましたか」
「……うん……」
「おやすみなさい、エルカ様。夢の中までは管理できませんが、悪い夢を見ないよう、おまじないをしておきましょう」
彼は私の耳元で、何かを囁いた。
それは古代語の防壁魔法の詠唱だったのか、
それともただの愛言葉だったのか。
意識が遠のく私には、よく聞き取れなかった。
ただ、最後に感じたのは、彼の手が私の目を優しく覆う感触と、
「……私の大切な、臆病な魔女」
という、熱っぽい独り言だけだった。
翌朝。
私が目を覚ますと、そこはいつもの「完璧な寝室」だった。
昨夜の暴走で散乱したはずの本も、割れた水差しも、跡形もなく片付けられ、元通りになっている。
嵐は去り、窓の外には突き抜けるような青空が広がっていた。
「……夢?」
一瞬そう思ったけれど、違った。
私の手の中に、感触が残っていたからだ。
「……ネクタイ」
私は黒いシルクの布切れを握りしめていた。
昨夜、私が彼にしがみついた時、強引に引きちぎるようにして握り続けていた、彼のネクタイだ。
「……あいつ、置いていったんだ」
これを解く手間すら惜しんで、私の手の中に残してくれたのだろうか。 それとも、私が離さなかったから、仕方なく置いていったのか。
どちらにせよ、これは彼が朝までここにいた証拠だ。
「……おはようございます、エルカ様」
タイミングよく、扉が開いた。
新しいネクタイを完璧に締めたアルフォンスが、
ワゴンを押して入ってくる。 その顔は、昨夜の激情や甘さを微塵も感じさせない、いつもの鉄仮面に戻っていた。
「昨夜は随分とうなされていたようですが……目覚めはいかがですか?」
「……おかげさまで、よく眠れたわ」
私は手の中のネクタイを、こっそりと枕の下に隠した。 これは返さない。
次、雷が鳴った時のためのお守りにするんだ。
「それは重畳。……ですが、昨夜の魔力暴走による器物損壊については、別途請求書を作成しておきました」
「ええっ!? 魔法で直したんでしょ!?」
「私の労働力はタダではありません。……特に、深夜残業と、私のシャツを貴女の涙とよだれで汚したクリーニング代は、高くつきますよ?」
彼は意地悪く笑い、モーニングティーを注いだ。
「……身体で払っていただきます」
「……え?」
「今日のダンスレッスンは、倍の時間行います。昨夜のような無様な姿を、夜会で見せるわけにはいきませんからね」
「……鬼!」
私は叫んだけれど、心の中では笑っていた。
この意地悪で、過保護で、重たい男がいる限り、
私はもう二度と雷に怯えることはないだろう。
甘い紅茶の湯気越しに、私は彼のアイスブルーの瞳を見つめ返した。 そこには、確かな所有欲と、隠しきれない愛おしさが揺らめいていた。
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