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第16話「塔を揺らす雷鳴、震える魔女」

◆ 更新スケジュール ◆


この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。

「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。

夜の帳が下りると同時に、世界は水没したようだった。 窓の外では、滝のような豪雨が塔の外壁を叩き続けている。 風の唸り声は、まるで地獄の底から這い上がってきた亡者の慟哭のようだ。


「……嫌な天気」


私はベッドの中で、シルクの布団を頭まで被り、

小さく震えていた。時刻は深夜一時。

普段なら、アルフォンスに強制消灯されて熟睡している時間だ。 だが今夜は、どうしても目が冴えてしまう。


大気の魔素マナが乱れている。

空気中に充満する静電気の味。

湿ったオゾンの臭い。 肌がピリピリと痛い。


「……来る」


直感した瞬間だった。


カッ!!


視界が真っ白に染まった。

瞼を閉じて布団の中に潜り込んでいるのに、網膜を焼き尽くすような閃光。


ドォォォォォォォォォンッ!!!!


直後、鼓膜を破るような轟音が炸裂した。

塔全体が悲鳴を上げて振動する。


「ひぃッ!?」


私は悲鳴を上げ、耳を塞いで丸まった。

怖い。 雷はダメだ。どうしてもダメだ。

幼い頃、落雷の火事で家も、愛する家族も一瞬にして奪われた記憶。

炎、熱さ、そして一人ぼっちで瓦礫の下に取り残された絶対的な孤独。


天涯孤独になった私が、その数日後、雨の降るゴミ捨て場で泥だらけの少年を拾ったのは……きっと、死にかけていた彼の中に「すべてを失った自分と同じ絶望」を見たからだった。


あの日の喪失のトラウマが、十年以上経った今でも、雷鳴のたびに私の心臓を氷の手で鷲掴みにする。


「やだ、やだ……来ないで……!」


ゴロゴロ、バリバリバリ……。

空が割れる音が続く。

私の呼吸は浅くなり、過呼吸気味にヒューヒューと喉が鳴る。


「……あ、制御が……」


恐怖で理性が飛び、体内の膨大な魔力が暴走を始めた。私の感情に呼応して、部屋中の物がガタガタと震え出す。


ガシャン! サイドテーブルの水差しが割れた。

バサバサバサ! 本棚から魔導書が飛び出し、蝙蝠のように部屋を旋回する。 アルフォンスが綺麗に整えたカーテンが、見えない風に煽られて荒れ狂う。


「と、止まって……お願い……!」


止めようとすればするほど、恐怖が魔力を加速させる。 部屋の空気が重くなり、重力が歪む。

このままでは、アルフォンスが作り上げたこの「完璧な寝室」を、私が破壊してしまう。


(怒られる……! あいつに、また『汚した』って蔑まれる……!)


それだけは嫌だった。

でも、身体が言うことを聞かない。

次の雷鳴が近づいてくる気配がする。

もっと大きくて、もっと破壊的な一撃が。


「――ッ!!」


ピカッ、と窓が光った瞬間。

私は絶望的な叫び声を上げようと口を開いた。


バンッ!!


雷鳴よりも先に、扉が開く音がした。


「――エルカ様ッ!」


鋭い声。 次の瞬間、私の身体は強い力で抱きすくめられていた。


ドォォォォォンッ!!


雷が落ちた。

すぐ近く、おそらく塔の避雷針に直撃した衝撃。

だが、私は震えなかった。

耳元で響く轟音よりも、私を包み込む「熱」の方が、圧倒的に鮮烈だったからだ。


「……ッ、はぁ、はぁ……」


恐る恐る目を開ける。

目の前にあったのは、真っ白なシャツの胸元だった。 私の顔は、誰かの硬い胸板に押し付けられている。 鼻腔を満たすのは、雨の匂いでも焦げ臭いオゾンの匂いでもない。

濃厚な蜜蝋と、清潔な石鹸、そして微かに香るムスク。


「……アル、フォンス……?」


見上げると、そこにはいつもの冷徹な執事がいた。 ただし、その姿は普段とは少し違っていた。

燕尾服の上着はなく、ベストとシャツだけの姿。

いつもは完璧に結ばれているネクタイが少し緩み、

銀髪には一滴、汗が滲んでいる。

そして何より――手袋をしていなかった。


「……ご無事ですか」


彼の素手が、私の背中を強く、痛いほどに抱きしめていた。

その掌から伝わる異常な熱量が、私の凍りついた背骨を溶かしていく。


「暴走していますよ。……深呼吸をして」


彼は私の乱れた魔力を、自分の魔力で強引に抑え込みにかかった。

私の身体から放出される紫色のスパークを、彼のアイスブルーの魔力が包み込み、中和していく。

まるで、荒れ狂う嵐を、静寂な氷河が飲み込むように。


「……怖い……雷、怖い……」


「存じています。……貴女の過去の記録にありましたから」


彼は私をベッドに座らせたまま、子供をあやすように背中をポンポンと叩いた。

そのリズムは、私の早鐘を打つ心臓の音を、

ゆっくりと正常なテンポへと矯正していく。


「……部屋、壊しちゃう……あんたが掃除したのに……」


「家具のことなどどうでもいい」


アルフォンスは短く吐き捨てた。

彼は部屋の中を旋回していた魔導書を、片手で「伏せ」をするように制した。ドサドサドサッ。

本たちが床に落ち、静寂が戻る。


「家具は買い直せばいい。……ですが、貴女が恐怖で心を擦り減らすことは、私が許しません」


彼は私の顔を両手で挟み込み、無理やり自分の方へ向かせた。 眼鏡の奥の瞳が、至近距離で私を射抜く。 そこには、雷に対する怒りと、私に対する過保護なまでの執着が渦巻いていた。


「聞きなさい、エルカ様。この塔は、私の管理下にあります」


バリバリバリ! 外でまた雷が鳴る。

私がビクリと震えると、彼はさらに強く頬を押し包んだ。


「外の世界がどれほど荒れ狂おうと、この私の腕の中は絶対安全圏です。雷ごときが、私の主人を傷つけられると思わないでください」


「……でも、音が……」


「私が塞ぎます」


彼は私を抱き寄せ、片手で私の頭を自分の胸に押し付け、もう片方の手で私の右耳を塞いだ。

左耳は、彼の心臓の真上にある。


ドクン、ドクン、ドクン。


力強く、規則正しい鼓動。

それが、雷鳴をかき消す唯一の音になった。


「……聞こえますか? これが、貴女を守る音です」


「……うん……聞こえる……」


不思議だった。 あんなに怖かったのに。

彼の心音を聞いていると、自分が巨大な城壁の中に守られているような、絶対的な安心感に包まれる。

彼の体温が、シャツ越しに伝わってくる。

熱い。 この人は、どうしてこんなに熱いのだろう。 冷たい言葉ばかり吐くくせに、身体だけは溶岩みたいだ。


「……アルフォンス、行かないで……」


私は無意識のうちに、彼にしがみついていた。

彼のシャツの袖を掴み、緩んだネクタイを指で巻き取るように握りしめる。 離したくない。

今、彼が離れたら、私は恐怖で死んでしまうかもしれない。


「……行きませんよ」


アルフォンスは、私の頭に顎を乗せ、ため息交じりに言った。


「こんな震える小動物を置いて、どこへ行けと言うのです。貴女が眠るまで、ここにいます」


「……朝まで?」


「ええ。雷雲が去り、空が浄化されるまで」


彼はベッドのヘッドボードに寄りかかり、私を抱き枕のように抱え込んだまま、体勢を整えた。

私は彼の膝の間にすっぽりと収まり、彼に背中を預ける形になる。 背中に感じる彼の胸板の厚み。

首筋にかかる彼の吐息。そして、お腹の前で組まれた、彼のごつごつとした大きな手。


「……手、あったかい」


「貴女が冷たすぎるのです。……まるで死人のようだ」


彼は私の氷のように冷たい手を、自分の両手で包み込み、擦り合わせた。

摩擦熱と、彼の体温。 指先から血が巡り始める。


「……ねえ、アルフォンス」


「なんですか」


「……私、あんたがいなかったら、どうなってたのかな」


ふと、そんな疑問が口をついて出た。

落雷で家族を失い、一人ぼっちになった直後……あのゴミ捨て場で彼を拾い、その後一人で塔に引きこもるようになってから、私はどうしていたんだろう。

思い出せない。 ゴミの山に埋もれて、耳を塞いで、

ただあの日の孤独に震えてやり過ごしていたのだろうか。

それとも、恐怖のあまり気絶していたのか。


「……想像するのも不愉快ですね」


アルフォンスが、私の髪に口づけを落とした。


「貴女は一人で泣き叫び、魔力を暴走させ、この部屋を瓦礫の山に変えていたでしょう。……そして、その瓦礫の中で、埃と涙にまみれて朝を迎えていた」


「……最悪ね」


「ええ、最悪です。美しくない」


彼は私の手を強く握りしめた。


「ですが、今は私がいます。貴女が泣く前に私が駆けつけ、貴女が壊す前に私が直す。貴女が震えるなら、私が熱になる」


彼の言葉は、甘い愛の囁きというよりは、絶対的な「契約」の確認のように聞こえた。


「貴女の恐怖も、不安も、弱さも。すべて私が管理し、処理します。ですから貴女は、何も考えずに私の腕の中で腐っていけばいい」


「……腐るって言わないでよ」


「比喩です。……それほどまでに、安心して身を委ねろという意味です」


彼の腕の力が、少し強まった。

拘束されているみたいだ。

でも、その拘束が心地いい。

自由なんていらない。

外の世界の雷に打たれるくらいなら、この熱い檻の中で、彼に管理されていたい。


「……んぅ……」


安心感からか、急激な睡魔が襲ってきた。

張り詰めていた糸が切れ、瞼が重くなる。


「……眠くなりましたか」


「……うん……」


「おやすみなさい、エルカ様。夢の中までは管理できませんが、悪い夢を見ないよう、おまじないをしておきましょう」


彼は私の耳元で、何かを囁いた。

それは古代語の防壁魔法の詠唱だったのか、

それともただの愛言葉だったのか。

意識が遠のく私には、よく聞き取れなかった。

ただ、最後に感じたのは、彼の手が私の目を優しく覆う感触と、


「……私の大切な、臆病な魔女」


という、熱っぽい独り言だけだった。

         


翌朝。

私が目を覚ますと、そこはいつもの「完璧な寝室」だった。

昨夜の暴走で散乱したはずの本も、割れた水差しも、跡形もなく片付けられ、元通りになっている。

嵐は去り、窓の外には突き抜けるような青空が広がっていた。


「……夢?」


一瞬そう思ったけれど、違った。

私の手の中に、感触が残っていたからだ。


「……ネクタイ」


私は黒いシルクの布切れを握りしめていた。

昨夜、私が彼にしがみついた時、強引に引きちぎるようにして握り続けていた、彼のネクタイだ。


「……あいつ、置いていったんだ」


これを解く手間すら惜しんで、私の手の中に残してくれたのだろうか。 それとも、私が離さなかったから、仕方なく置いていったのか。

どちらにせよ、これは彼が朝までここにいた証拠だ。


「……おはようございます、エルカ様」


タイミングよく、扉が開いた。

新しいネクタイを完璧に締めたアルフォンスが、

ワゴンを押して入ってくる。 その顔は、昨夜の激情や甘さを微塵も感じさせない、いつもの鉄仮面に戻っていた。


「昨夜は随分とうなされていたようですが……目覚めはいかがですか?」


「……おかげさまで、よく眠れたわ」


私は手の中のネクタイを、こっそりと枕の下に隠した。 これは返さない。

次、雷が鳴った時のためのお守りにするんだ。


「それは重畳ちょうじょう。……ですが、昨夜の魔力暴走による器物損壊については、別途請求書を作成しておきました」


「ええっ!? 魔法で直したんでしょ!?」


「私の労働力はタダではありません。……特に、深夜残業と、私のシャツを貴女の涙とよだれで汚したクリーニング代は、高くつきますよ?」


彼は意地悪く笑い、モーニングティーを注いだ。


「……身体で払っていただきます」


「……え?」


「今日のダンスレッスンは、倍の時間行います。昨夜のような無様な姿を、夜会で見せるわけにはいきませんからね」


「……鬼!」


私は叫んだけれど、心の中では笑っていた。

この意地悪で、過保護で、重たい男がいる限り、

私はもう二度と雷に怯えることはないだろう。

甘い紅茶の湯気越しに、私は彼のアイスブルーの瞳を見つめ返した。 そこには、確かな所有欲と、隠しきれない愛おしさが揺らめいていた。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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