第121話「世界で一番幸せな朝の報告」
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ナラ・エンの森の奥深く。
朝靄の中に、寄り添うように立つ二つの塔がある。
『白亜の双塔』。
かつて「ゴミ屋敷」と呼ばれた古びた塔を捨て、私とアルフォンスが互いの魔力を練り上げ、基礎から屋根の瓦一枚に至るまで共同で建築した、私たちの新しい城だ。
螺旋を描くように絡み合う二つの塔は、まるで抱き合う恋人たちのようだと、もっぱらの評判らしい(アルフォンスがそう吹聴しているだけかもしれないけれど)。
「おはようございます、エルカ」
「ん、おはよう」
キッチンから漂ってくる、焼きたてのパンとハーブティーの香り。
足元では、ノワールとその奥さんステラが日向ぼっこをし、二匹の子猫ノックスとルミエが私のスリッパを獲物に見立ててじゃれついている。
平和だ。
孤独と埃にまみれていた過去はもう遠い。
今は、愛する夫と、可愛い猫たちに囲まれた、温かくて少し騒がしい朝がここにある。
「さあ、朝食です。今朝は貴女の栄養バランスを完璧に計算した、特製コンソメスープですよ」
アルフォンスが、湯気を立てるスープ皿を運んできた。
透き通った黄金色のスープ。じっくり煮込まれた野菜と鶏肉の旨味。
いつもの私なら、「おかわり!」と飛びつくはずの、完璧な朝食。
けれど。
「……うっ」
皿が目の前に置かれた瞬間、その濃厚な「匂い」が鼻腔を突き抜けた。
いつもなら食欲をそそるはずの香りが、今日はなぜか、喉の奥を締め付けるような強烈な異物感に変わった。
「……エルカ?」
「……ごめん、ちょっと」
私は口元を手で押さえ、椅子を蹴るようにして立ち上がった。
視界が揺れる。胃の底から、冷たいものがせり上がってくる。
「エルカッ!?」
アルフォンスの悲鳴を背に、私は洗面所へと駆け込んだ。
「……はぁ、はぁ……」
洗面台の前で、私は冷たい水を顔に浴びせた。
吐き気は治まったけれど、心臓が早鐘を打っている。
鏡の中の私は、顔色は少し青いけれど、病人のようには見えない。むしろ、肌は妙に艶やかで、内側から発光しているようにさえ見える。
「……大丈夫ですか!? 開けてください、エルカ!」
バンバンバン!!
ドアの向こうで、アルフォンスが錯乱している。
その声は、かつて魔獣の大群を相手にした時よりも必死で、震えていた。
「すぐに解毒魔法をかけます! いえ、主治医を空間転移で呼び寄せます!
まさか、スープのハーブの配合を間違えたのか!? それとも昨日の気温差で自律神経が!?ああ、私の管理不足です! 万死に値します!! 今すぐこの腹を切って詫びますから、ドアを開けてください!!」
「……待って、アルフォンス。落ち着いて」
私はドア越しに声をかけた。
「病気じゃないの。……ちょっと、確かめたいことがあるから」
「確かめる!? 何をですか!? 毒ですか!? 呪いですか!?」
「……ううん。もっと、別のこと」
私は深呼吸をして、自分の下腹部に手を当てた。
魔女の勘が、囁いている。
これは「異物」じゃない。
もっと懐かしくて、愛おしくて、温かい……「光」だ。
私は指先を光らせ、簡易検査のルーン文字を空中に描いた。
産婦人科の魔法薬なんてないけれど、私には魔力が見える。
もし、ここに新しい命があるなら、私の魔力とは違う「波長」が見えるはずだ。
『――Reveal(暴け)』
ヒュン。
ルーンが弾け、淡い金色の光が私のお腹を中心に広がった。
「……あ」
見えた。
私のアメジスト色の魔力と、アルフォンスの氷のような銀色の魔力。
その二つが螺旋のように絡み合い、混ざり合い、中心で小さく、けれど力強く脈打っている。
トクン、トクン。
小さな光の粒。
まだ豆粒みたいに頼りないけれど、それは確かに「生きている」。
「……うそ」
膝が震えた。
洗面台の縁を掴んでいないと、崩れ落ちそうだった。
ここ数ヶ月、アルフォンスと一緒に頑張ってきた「妊活」。
いつかできたらいいな、とは思っていた。
でも、いざその事実を突きつけられると、頭が真っ白になる。
「……私の中に、いるんだ」
涙が滲んだ。
怖いような、嬉しいような、くすぐったいような。
不思議な感情が胸いっぱいに広がって、私は泣き笑いのような顔で、お腹をさすった。
「……待たせちゃったね」
私は涙を拭い、ドアノブに手をかけた。
外には、世界で一番この報告を待ちわびている、世界一心配性の夫がいる。
ガチャリ。
ドアを開けると、アルフォンスが床に正座して待っていた。
顔面蒼白。眼鏡はズレ、髪は乱れ、今にもこの世の終わりみたいな顔をしている。
その手には、なぜか短剣が握られていた(本当に切腹するつもりだったの!?)。
「……エルカ。……救急馬車の手配は完了しました。
ナラ・エン最高の治療院へ搬送します。
……毒でしたか? それとも未知の風土病ですか?
どんな病魔だろうと、私が貴女の細胞一つ一つに入り込んで殲滅してみせますから……!」
彼は短剣を放り捨て、私の手を取り、縋るように見上げてきた。
その手は氷のように冷たく、小刻みに震えている。
私が苦しむことが、彼にとって何よりの恐怖なのだ。
「……バカね」
私は彼の冷たい手を、両手で包み込んだ。
「病気じゃないって言ったでしょ」
「では、何なのですか!?
貴女が食事も喉を通らないほど苦しんでいるのに、原因が分からないなんて……私は執事失格です!
このままでは、貴女を守れない……ッ!」
「守れてるわよ」
私は彼の手を引き、ゆっくりと私の下腹部へと導いた。
まだ平らなお腹。
でも、そこには確かな熱がある。
「……え?」
アルフォンスの手が、私のお腹に触れた。
彼は戸惑いながら、私を見上げた。
「……エルカ?」
「聞こえる?」
私は精一杯の笑顔を作った。
声が震えないように。でも、嬉しさが溢れてしまうのを止められなかった。
「まだ、すごく小さいけど。
ここに、あんたに似た、甘えん坊の心音がいるの」
「…………」
時間が、止まった。
アルフォンスの瞳から、光が消え、また灯り、そして激しく揺れた。
彼の呼吸が止まる。
彼は信じられないものを見るように私のお腹を見つめ、また私の顔を見て、そして再びお腹へと視線を落とした。
「……心音……?」
彼が掠れた声で呟く。
彼の手のひらを通して、私の魔力と、赤ちゃんの微弱な魔力が伝わったはずだ。
優秀な魔術師である彼が、それを見逃すはずがない。
「……嘘では、ありませんね?」
「嘘じゃないよ」
「……私の、夢や妄想では、ないのですね?」
「夢じゃないよ。……私と、アルフォンスの赤ちゃんだよ」
その瞬間。
アルフォンスの喉から、言葉にならない音が漏れた。
「……あ……ぅ……」
彼の大きな体が崩れ落ちた。
私の腰に腕を回し、お腹に顔を埋めるようにして、彼はその場に泣き崩れた。
「……ああ、神よ……! 神よ……ッ!!」
「アルフォンス……」
「……私のような……汚れた人間に……!
あんなに人を殺し、傷つけ、ゴミのように生きてきた私に……!
こんな……こんな綺麗な奇跡が、許されるのですか……!?」
彼の慟哭が、洗面所に響き渡る。
眼鏡が涙で濡れ、肩が激しく上下している。
完璧な執事の仮面なんて、跡形もない。
ただの、父親になったばかりの一人の男が、そこにいた。
「許されるに決まってるじゃない」
私は彼の銀髪を優しく撫でた。
「あんたは私を守ってくれた。私を愛してくれた。
……この子はね、あんたの愛が作ったの。
だから、世界で一番綺麗な子になるに決まってるわ」
「……エルカ……ッ!
ありがとう……! ありがとう……!!
私を父親にしてくれて……私に、『生きていて良かった』と思わせてくれて!!」
彼は何度もお腹にキスをした。
服の上から、祈るように、崇めるように。
その涙が私の服に染み込んで、熱くて、私もつられて泣いてしまった。
ひとしきり泣いた後。
私たちはリビングのソファに移動した。
アルフォンスはまだ鼻をすすりながら、私の背中にクッションを当て、膝掛けをかけ、ハチミツ入りホットミルクを用意してくれた。
その動きはいつもよりぎこちなく、でも最高に優しかった。
「……大丈夫ですか? 寒くありませんか? 湿度は適切ですか?
ああ、窓からの風が少し強いかもしれません。すぐに結界を張ります」
「大丈夫よ。ちょっと落ち着いて」
私は苦笑しながら、ホットミルクを啜った。
美味しい。さっきの吐き気が嘘みたいだ。
アルフォンスも私の隣に座り、まるで壊れ物を扱うように私の肩を抱いている。
でも、ふと不安がよぎった。
「……ねえ、アルフォンス」
「はい、何でしょう。何でも仰ってください。
星を取ってこいと言われれば、今すぐ軌道を変えてきます」
「……そういうことじゃなくて」
私はカップを置いて、俯いた。
喜びが落ち着くと、急に現実的な不安が押し寄せてきたのだ。
「……私、お母さんになれるかな」
「……え?」
「だって、知ってるでしょ?
私、ズボラだし。掃除もできないし、料理も爆発させるし。自分の服のコーディネートさえ怪しいし……。
こんな私が、ちゃんと子供を育てられるのかな。
……私みたいなダメな母親じゃ、この子が可哀想なんじゃないかな」
マリッジブルーならぬ、マタニティブルー。
今まで「守られる側」だった自分が、「守る側」になることへの恐怖。
完璧なアルフォンスを見ていると、余計に自分の未熟さが怖くなる。
アルフォンスは、私の震える手を取った。
そして、まっすぐに私の目を見た。
その瞳は、さっきまでの涙で洗われて、雨上がりの空のように澄んでいた。
「……エルカ。貴女は、ご自分のことを誤解しています」
「……誤解?」
「ええ。貴女は、世界で一番『育てる』のが上手な女性ですよ」
彼は優しく微笑んだ。
「思い出してください。
十年前、ゴミ捨て場で死にかけていた、薄汚い少年を拾ったのは誰ですか?」
「……私、だけど」
「貴女は、泥だらけの私に魔法をかけ、生きる希望を与えました。
そして、心も体もボロボロだった私を再び受け入れ、居場所を与え、愛してくれました。……今の私が、こうして笑っていられるのは、貴女が私を『育て直して』くれたからです」
彼は私の手を、自分の頬に当てた。
「貴女は、死にかけた『ゴミ』さえも、幸せな人間に変える魔法を持っています。
そんな貴女が、自分の命を分けて産む我が子を、愛せないはずがありません。
……貴女は、間違いなく世界一の母親になります。私が保証します」
彼の言葉は、どんな育児書よりも説得力があった。
だって、目の前に「証拠」がいるのだから。
あんなに荒んで、誰も信じなかった彼が、こんなに優しくて温かいパパの顔をしている。
「……そっか。……私、あんたを育てたんだっけ」
「ふふ。ええ、手のかかる駄犬でしたが」
「……じゃあ、大丈夫かも」
私は笑った。
肩の力が抜けた気がした。
「それに、一人ではありません。
掃除も、洗濯も、料理も、オムツ替えも、夜泣きの対応も……面倒なことは全て、この完璧執事であり夫のこのアルフォンスにお任せください。
貴女はただ、その子と一緒に笑っていてくだされば、それでいいのです」
「甘やかしすぎじゃない?」
「いいえ。貴女と子供を甘やかすために、私は存在しているのですから」
彼は誇らしげに胸を張った。
ああ、なんて頼もしいんだろう。
この人がいれば、どんな未来も怖くない。
「……ニャア」
足元で、ノワールが呆れたように鳴いた。
見ると、子猫たちがアルフォンスの足によじ登ろうとしている。
アルフォンスは、いつもなら「スーツが汚れます!」と避けるところを、今日は優しく子猫を抱き上げ、目尻を下げた。
「……ノックス、ルミエ。
お前たちに、弟か妹ができるぞ。
……仲良くしてやってくれな」
子猫が「みー」と鳴いて、アルフォンスの鼻を舐めた。
朝日が差し込むリビングは、光と、匂いと、そして新しい命の予感に満ちていた。
「……アルフォンス」
「はい、エルカ」
「愛してる」
「……私もです。
貴女と、この子を……私の命を懸けて、愛し抜きます」
私たちは、三度目のキスをした。
それは誓いのキスであり、始まりのキスだった。
白亜の双塔に、新しい風が吹く。
この先には、きっと大変な「妊婦生活」と、涙と笑いの「出産」が待っているだろう。
でも、今の私たちは無敵だ。
だって、こんなにも幸せな予感が、二人のお腹の中で、トクン、トクンと歌っているのだから。
読んでくださってありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
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