第120話「迷走するコウノトリ、黒猫の凱旋と初めての不協和音」
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ナラ・エンの森、白亜の塔。
この世の楽園であるはずの新婚家庭に、
今、かつてないほどの冷たい空気が流れていた。
「エルカ。それは何ですか?」
「…ただのクッキーよ」
リビングのソファで、私は背中に隠した「ブツ」を死守していた。
目の前には、仁王立ちするアルフォンス。
その眼鏡の奥の瞳は、まるで異端審問官のように鋭く、冷徹だ。
「提出してください。今の貴女のスケジュール表において、『糖分』の摂取は朝のフルーツのみと定めたはずです」
「嫌よ! 小腹が空いたんだもん! 一枚くらい良いじゃない!」
「駄目です。精製された砂糖は血糖値を急上昇させ、ホルモンバランスを乱す敵です。代わりに、この『煮干しと小松菜のペースト』をお食べください」
彼が差し出した小皿には、深緑色の泥のような物体が乗っていた。
栄養満点なのは知っている。
彼の愛が詰まっているのも知っている。
でも……もう限界だった。
「……いい加減にしてよ」
私は立ち上がり、彼を睨みつけた。
「ここ一週間、ずっとこれじゃない!
『寝る向きは北枕』『お風呂の温度は39度』『読書は一日30分』……。
私はあんたの愛する妻なの? それとも、子供を産むための製造マシーンなの!?」
私の言葉に、アルフォンスが息を呑んだ。
「なっ……! 心外です! 私はただ、貴女と未来の子のために、最善の環境を……!」
「それが息苦しいって言ってるのよ!
私の好きなものを取り上げて、時間も自由も管理して……そんなの、ちっとも幸せじゃない!」
プツン、と何かが切れた音がした。
アルフォンスの顔が蒼白になり、次いで悲痛に歪む。
「……幸せじゃない、ですか。
私の献身は、貴女にとって……不幸でしたか?」
その傷ついた表情を見て、胸がズキリと痛んだ。
言いすぎたかもしれない。
でも、引くに引けなかった。
「……頭冷やしてくる。今日は書庫で寝るから!」
「エ、エルカ!?」
私はクッキーを握りしめ、パタンと扉を閉めてリビングを出て行った。
背後で、アルフォンスが手を伸ばしたまま固まっているのが気配で分かったけれど、振り返らなかった。
書庫に逃げ込んだものの、クッキーは全く美味しくなかった。
砂を噛んでいるみたいだ。
「……バカね、私」
膝を抱えて溜息をつく。
彼が必死なのは分かっている。
彼にとって「家族」を作ることが、どれだけ大きな夢かも知っている。
それなのに、「製造マシーン」だなんて酷いことを言ってしまった。
「……謝らなきゃ」
でも、どうやって?
あの完璧主義者のことだ。「幸せじゃない」と言われたショックで、今頃部屋の隅でキノコを生やしているかもしれない。
気まずい。最高に気まずい。
その時だった。
カリカリ、カリカリ。
窓の外から、何かを引っかくような音がした。
「……ん? 風?」
いや、違う。
私は窓を開けた。
そこには、金色の瞳が二つ、暗闇の中で光っていた。
「……ニャア」
「あ! ノワール!?」
黒猫のノワールだった。
塔に住み着き、ここ数週間ほど「旅に出る」と言わんばかりに姿を消していた、自由気ままな同居猫。
「久しぶりね! どこ行ってたのよ」
私が抱き上げようと手を伸ばすと、ノワールは「待て」をするように片手を上げた。
そして、窓枠に飛び乗り、振り返って「おーい、こっちだ」と合図をするように鳴いた。
「……?」
ガサゴソと茂みが揺れる。
続いて現れたのは、雪のように真っ白で、ふんわりとした毛並みの美しい白猫だった。
そして、その口には――。
「……えっ!?」
小さな、本当に小さな毛玉が二つ。
まだ目が開いたばかりのような、黒と白の模様の子猫たちが、ヨチヨチと続いて入ってきたのだ。
「ニャウン」
ノワールが誇らしげに喉を鳴らした。
白猫が、私の足元にすり寄って挨拶をする。
子猫たちが「みー、みー」と鳴きながら、
私のスリッパによじ登ろうとする。
「うそ……ノワール、あんた……」
私は口元を押さえた。
この自由人は、私たちが「妊活だ」「管理だ」と揉めている間に、外の世界で愛を見つけ、立派に家庭を築いて帰ってきたのだ。
「すごい。パパになったのね」
私は感動で涙ぐみながら、子猫をそっと手に乗せた。
温かい。小さくて、ドクドクと早い心臓の音がする。
命だ。
アルフォンスが焦がれ、私たちが目指していたものが、ここにある。
「……エルカ? どなたとお話しされているのですか?」
ガチャリ。
扉が開き、死人のような顔をしたアルフォンスが入ってきた。
おそらく、謝罪に来たのだろう。
手には私の好きなハーブティーが乗ったトレイ……を持っていたが、その手は震えていた。
彼は、私の手の中にいる子猫と、足元でくつろぐノワール一家を見て、石化した。
「……黒猫……?」
「ニャ」
ノワールが尻尾を立てて挨拶した。
その横で、白猫がノワールの顔をペロペロと舐め、ノワールも愛おしそうに白猫の耳をグルーミングしてやる。
完璧な夫婦の姿。
そして、無邪気にじゃれ合う二匹の子猫。
カシャン。
アルフォンスの手からトレイが落ちる音はしなかったが、彼のプライドが粉々に砕け散る音が聞こえた気がした。
「……負けた」
アルフォンスが膝から崩れ落ちた。
「……嘘でしょう?
私が……この私が、医学書を128冊読破し、完璧なスケジュールを組み、貴女の基礎体温を0.1度単位で管理しても成し得なかった『家族の構築』を……。
この、気まぐれな黒猫は……ただの本能だけで成し遂げたというのですか!?」
彼はガクガクと震えながら、幸せそうな猫一家を見つめた。
「しかも、見てくださいあの甲斐甲斐しさを!
奥方を気遣う毛繕い! 子猫を危険から守る立ち位置!
……完璧だ。理想的な父親像そのものではないですか……!」
アルフォンスは床に手をつき、項垂れた。
「……私は、何をしていたのでしょう。
データだ、効率だと言って貴女を縛り付け……一番大切な『自然な愛』を、猫に教えられるなんて」
その背中は、いつもの自信満々な彼とは違い、
とても小さく見えた。
私は子猫をカーペットに下ろし、彼のそばに歩み寄った。
「……アルフォンス」
私は彼の背中に抱きついた。
「……ごめんね。言いすぎたわ。
あんたが一生懸命だったのは分かってるの」
「……いいえ。貴女の言う通りです」
彼は私の手を握りしめ、振り返った。
眼鏡が少しズレて、アイスブルーの瞳が潤んでいる。
「私は怖かったのです。
自分の中に『幸せな家庭』のデータがないから……本や理論で武装しないと、貴女と子供を不幸にしてしまうのではないかと。
だから、管理することで安心しようとしていました」
彼はノワールを見た。
ノワールは「難しく考えすぎだニャ」とばかりに大あくびをし、奥さんと団子になって眠り始めた。
「……あんな風に、もっと適当でよかったんですね」
「そうよ。……私たちは猫じゃないけど、人間だもん。もっと不器用でいいじゃない」
私は彼の頬を両手で包み、自分の方へ向かせた。
「管理なんかしなくても、あんたの愛はちゃんと私に届いてる。
……だから、もうスケジュール表は捨てましょ?
その代わり、もっといっぱい……イチャイチャしよ?」
私が恥ずかしさを堪えて言うと、アルフォンスは一瞬きょとんとし、次いで花が咲くように破顔した。
「……はい。仰せのままに」
彼は私を強く抱きしめた。
その強さは、マニュアル通りの「39度のお風呂」よりもずっと熱く、心地よかった。
「……ところで、アルフォンス」
「はい」
「この子たちの名前、どうする?」
私は足元で眠る新しい家族たちを見た。
「そうですね……。母猫はステラ。
男の子の方は、夜空のように黒いので『ノックス』。
女の子の方は、貴女の肌のように白いので『ルミエ』というのはいかがでしょう?」
「ステラにノックスとルミエ。……うん、可愛い!」
「……ノワールたちにも、専用の部屋とベッドを用意しなければなりませんね。
最高級の羽毛布団と、栄養バランスの取れたキャットフードを……」
「あ、また始まった」
「おっと、いけません。……ほどほどに、ですね」
アルフォンスは苦笑し、私のおでこにコツンと自分のおでこを合わせた。
「……エルカ。愛しています。
子供ができても、できなくても……貴女とこうしている今が、私にとっての『家族』です」
「うん。私もよ」
私たちはキスをした。
足元からは、子猫たちの可愛い寝息と、ノワールのゴロゴロという満足げな喉の音が聞こえてくる。
初めての夫婦喧嘩は、猫たちのおかげで、甘くて温かい和解へと変わった。
張り詰めていた糸が切れ、自然体に戻った二人。
「コウノトリ」が迷わずやってくる準備は、今度こそ本当に整ったようだった。
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