第119話「執事による至高の妊活マニュアル」
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ナラ・エンの朝。
窓から差し込む陽射しは爽やかで、本来なら小鳥のさえずりと共に優雅なモーニングティーを楽しむ時間だ。
しかし、今朝のダイニングテーブルの上には、
異様な緊張感が漂っていた。
「……アルフォンス。これは、なに?」
私は目の前に置かれた「物体」を指差した。
それは、深緑色のドロリとした液体で満たされたグラスだ。
表面には得体の知れない気泡が浮かび、微かに土と薬草の匂いが漂ってくる。
「『朝の祝福』です、エルカ」
アルフォンスは、いつもの完璧な笑顔で即答した。
手には分厚いファイルが握られている。
背表紙には『プロジェクト・エデン:受胎環境の最適化計画書』という禍々しいタイトルが金文字で箔押しされていた。
「祝福っていうか、これ……呪いじゃない?」
「とんでもない。
これは、葉酸を豊富に含む『マンドラゴラの若葉』、鉄分補給のための『ドラゴンブラッド・スピナッチ』、そして貴女の魔力回路を温める『太陽の雫』を、黄金比率でブレンドした特製スムージーです」
彼は眼鏡をクイッと押し上げ、ファイルを開いた。
「昨夜、貴女と誓いましたね? 『二人の宝物』について真剣に取り組むと。
私はその誓いを守るべく、徹夜で古今東西の医学書と魔導書、計128冊を読破し、貴女のための最強の『妊活プログラム』を構築しました」
「……128冊?」
「ええ。結論から申し上げますと、貴女の体は非常にデリケートです。
魔女としての魔力消費が激しいため、どうしても基礎体温が不安定になりがち。
そこで、まずは『母体強化』が必要です」
彼は指示棒を取り出し、空中にホログラムのグラフを表示した。
私の基礎体温、ホルモンバランス、魔力周期が、まるで株式市場のチャートのように詳細に描かれている。
「見てください、このグラフを。
排卵予定日は三日後。そこに向けて、今日から体温を0.5度上昇させ、子宮内の魔力密度をピークに持っていく必要があります。
そのためには、まずこのスムージーを一気飲みし、細胞レベルで活性化させなければなりません」
「……うぅ」
私はスムージーを見下ろした。
愛は感じる。重すぎるほどの愛と、彼の本気度は痛いほど伝わってくる。
でも、色が……色が、沼なのよ。
「……これ、美味しいの?」
「味については、栄養価とのトレードオフとお考えください。ですが、私が愛を込めて攪拌しました。貴女なら、私の愛の味を感じ取れるはずです」
「……ずるい言い方」
私は覚悟を決めて、グラスを煽った。
ゴクッ、ゴクッ……。
「んぐっ……!」
苦い。青臭い。そして、喉を通った瞬間、カッと胃が熱くなる。
まるで溶岩を飲んだみたいだ。
「……ど、どう?」
「素晴らしい飲みっぷりです! さあ、仕上げに口直しのアサイーヨーグルトをどうぞ。こちらは美味しいですよ」
彼が差し出したヨーグルトは、天国のような味がした。
飴と鞭。
この執事、完全に私を飼育する気だ。
朝食後、私の「妊活ライフ」は本格的にスタートした。
というか、アルフォンスによる「絶対管理生活」が強化されただけとも言う。
「エルカ、靴下を履いてください。足首を冷やすことは、世界の滅亡に等しい重罪です」
リビングでくつろごうとした私に、アルフォンスが分厚いモコモコの靴下を履かせてくる。
最高級の羊毛で作られたそれは温かいけれど、
今はまだ初秋だ。ちょっと暑い。
「ねえ、これ蒸れない?」
「蒸れるくらいが丁度いいのです。
『頭寒足熱』。古の賢者の教えです。子宮を温めるには、まず足元から。……ああ、いけません。そんな薄着で窓際に立っては」
彼が飛んできて、私の肩にショールをかけた。
「日光浴はビタミンDの生成に不可欠ですが、直射日光による体温上昇と発汗による気化熱のバランスを考慮しなければなりません。
今の貴女は、孵化を待つドラゴンの卵よりも繊細に扱われるべきなのです」
「……過保護すぎない?」
「足りません。できることなら、私が貴女をカンガルーのようにポケットに入れて、24時間体温調整をして差し上げたいくらいです」
彼は真顔で言った。
本気だ。この男、隙あらば私を物理的に体内に取り込もうとする節がある。
「……でもさ、アルフォンス」
私はショールを羽織り直しながら、彼を見上げた。
「あんた、楽しそうね」
「……え?」
「なんか、いつもより目がキラキラしてる。
そんなに……子供、楽しみ?」
私の問いかけに、アルフォンスは一瞬きょとんとし、それから照れくさそうに視線を逸らした。
耳の先が少し赤い。
「……楽しみ、という言葉では軽すぎますね」
彼は私の手を取り、その甲にキスをした。
「私はかつて、自分のことを『道具』だと思っていました。ルシウスに作られ、汚され、使い潰されるだけの道具だと。
そんな私に、『家族』ができるなんて……想像もしていませんでした」
彼の手が、優しく私のお腹に触れた。
まだ何もいない、平らなお腹。
でも、彼の手の温もりが、そこにある「未来」を信じさせてくれる。
「貴女と私の血を引く、新しい命。
……それを想像するだけで、胸が震えるのです。
私が貴女に救われたように、私もその子に、ありったけの愛を注ぎたい。
……私が持てなかった『幸せな子供時代』を、その子には全部あげたいのです」
「……アルフォンス」
彼の言葉に、胸が詰まった。
彼の過去を知っているからこそ、その願いの切実さが分かる。
彼は、自分自身の失われた過去を、私たちの子供を通して救おうとしているのかもしれない。
それは「代償行為」かもしれないけれど、彼が父親になることで癒やされる傷があるなら、私は喜んでその手伝いをしたい。
「……うん。頑張ろうね、妊活」
「はい。……必ずや、最高の結果を出して見せます」
彼は力強く頷いた。
その瞳には、執事としての忠誠心と、父親になる男の決意が宿っていた。
夜。
妊活のメインイベント――つまり、「タイミング」の時間だ。
「……お風呂、沸きましたよ」
アルフォンスが寝室に入ってきた。
手にはバスローブと、怪しげなアロマオイルの小瓶。
「今日は『イランイラン』と『ゼラニウム』のブレンドです。ホルモンバランスを整え、リラックス効果を高め、そして……」
彼は意味ありげに微笑んだ。
「……催淫効果も、少々」
「……準備万端ね」
私は苦笑しながら、彼に抱き上げられた。
お風呂場は、湯気と甘い香りに満ちていた。
彼は私をバスタブに浸からせると、自らも入り込み、背後から私を抱きしめた。
「……あ、一緒に入るの?」
「当然です。温度管理と、マッサージが必要です」
彼の大きな手が、私のお腹や腰をゆっくりと撫でる。
お湯の温かさと、彼の手の熱さが混ざり合い、
体が芯から解けていくようだ。
「……気持ちいい」
「血流を良くしています。骨盤周りの筋肉をほぐし、魔力の通りを良くすることで、受胎率を飛躍的に向上させます」
彼の説明は医学的だが、その手つきはどう見てもいやらしい。
指先が際どいラインをなぞり、私の反応を楽しんでいる。
「んぅ……そこ、くすぐったい……」
「力を抜いてください。エルカ、貴女の体は本当に素直ですね。私の指が触れるだけで、こんなに熱くなって……」
「……あんたのせいよ」
「光栄です」
彼は私の耳元にキスをし、首筋を甘噛みした。
「……ねえ、アルフォンス。
もし子供ができたら……どっちがいい?」
お風呂の湿気の中で、私はぼんやりと聞いた。
「男の子? 女の子?」
「……そうですね」
アルフォンスは少し考えてから、夢見るような声で答えた。
「女の子なら……貴女に似た、アメジストの瞳を持つ、世界一愛らしい姫君がいいですね。
私が全ての悪い虫から守り、女王のように育て上げます」
「……過保護なパパになりそうね」
「男の子なら……私に似た銀髪で、少し生意気な子がいいかもしれません。
私が持てる全ての技術と魔術を叩き込み、貴女を守る最強の騎士に育てます」
「……スパルタ教育になりそうね」
「どちらにせよ、私にとっては宝物です。
……ですが、一つだけ譲れない条件があります」
彼は私を振り向かせ、正面から見つめた。
濡れた銀髪が額にかかり、水滴が滴るその顔は、息を呑むほど色っぽかった。
「一番愛するのは、貴女です。
子供が何人生まれようと、私の世界の中心は、
永遠にエルカただ一人です。
……それだけは、忘れないでくださいね?」
「……バカね」
私は彼の首に腕を回した。
子供に嫉妬する未来が見えるようだ。
でも、そんな重い愛が、今は愛おしくてたまらない。
「……分かってるわよ。私も、あんたが一番よ」
「……エルカ」
彼の瞳が揺れた。
次の瞬間、私たちは深く口づけを交わした。
お湯がちゃぷんと揺れる。
浴室の空気が、一気に熱を帯びる。
「……上がりましょうか。
ここからは、ベッドでの『特別集中ケア』の時間です」
彼は私を抱き上げ、バスタオルで包み込むと、そのまま寝室へと運んだ。
ベッドの上で、彼は私を丁寧に拭き、保湿クリームを塗り込みながら、まるで聖遺物を扱うように触れた。
「……準備は整いました。
体温、魔力、ホルモンバランス……全て完璧です」
彼は私の上に覆いかぶさり、眼鏡を外した。
露わになった素顔は、もう「執事」ではなく、「夫」の顔だった。
「……今夜は、星の巡りも最高です。
月が満ち、魔力が満ちる刻。
……二人の愛を形にするには、これ以上ない夜です」
「……うん」
私は彼の頬に手を添えた。
「……お願い、アルフォンス。
私に……あんたとの家族をちょうだい」
私の言葉が合図だった。
彼の理性の糸が切れ、情熱の炎が燃え上がった。
「……仰せのままに、マイ・ロード。
貴女の深淵に、私の全てを捧げます」
その夜の営みは、いつものような「快楽」だけを求めるものではなかった。
互いの魂を確かめ合い、深い祈りを込めて、命の灯火を点そうとする、神聖で、そしてどこまでも泥臭い愛の儀式だった。
何度も何度も、彼は私を求めた。
「愛しています」「欲しい」「離さない」と、壊れたレコードのように囁きながら。
私もそれに答え、彼を受け入れた。
彼が私の中に注ぎ込む熱が、やがて小さな命の芽となることを信じて。
翌朝。
私は鳥のさえずりと共に目を覚ました。
隣には、満足げな顔で眠るアルフォンスがいる。
その腕は、しっかりと私の腰を抱きしめている。
「……んぅ」
体が重い。腰も痛い。
昨夜の「集中ケア」がどれほど激しかったか、
体の節々が訴えている。
でも、不思議と気分は良かった。
お腹に手を当てる。
まだ何も変わっていない。
でも、昨夜の彼の祈りと熱は、確かにここに残っている。
「……おはようございます、エルカ」
不意に、アルフォンスが目を開けた。
寝起きの掠れた声。
とろりとした甘い瞳。
「……おはよう、アルフォンス」
「体調はいかがですか? どこか痛むところは?」
「……腰がちょっとね」
「おや、申し訳ありません。張り切りすぎました」
彼は悪びれもせず、私の腰を優しくマッサージし始めた。
「……ですが、手応えはありましたよ」
「え? 分かるの?」
「執事そして夫の勘です。……きっと、可愛い天使が降りてきてくれた気がします」
彼は私のお腹にキスをした。
「……さて。今日からは『妊娠初期対応プログラム』に移行します。
食事メニューも、カフェインレスを中心としたものに変更し、運動強度も調整しなければ」
「……またあの沼スムージー?」
「ふふ。今日はベリー味にしてみました。美味しくなっていますよ」
彼は軽やかにベッドから降り、ガウンを羽織った。
その背中は、昨日よりも少しだけ大きく、頼もしく見えた。
「さあ、起きましょう。
未来のパパとママの、新しい一日が始まりますよ」
私は苦笑しながら、彼の手を取った。
重すぎる愛と、過保護な管理。
でも、これが私たちの「幸せ」の形だ。
これから始まる新しい日々も、きっと騒がしくて、甘くて、温かいものになるだろう。
ナラ・エンの森に、新しい風が吹いていた。
それは、もうすぐ訪れる小さな奇跡を予感させる、優しい風だった。
読んでくださってありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
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