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第118話「魔女の逆襲、『誘惑術式』の誤算」

◆ 更新スケジュール ◆


この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。

「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。

ナラ・エンの午後。

窓から差し込む陽射しは、溶けたバターのように黄金色で、気怠げな眠気を誘っていた。


「……ふわぁ」


私はリビングの長椅子カウチにだらしなく寝転がり、分厚い古書を顔の上に広げていた。

『西方魔術体系・第三巻:感情操作とフェロモンの相関』。

なんてことのない、書庫から適当に引っこ抜いてきた三流魔導書だ。

内容は退屈極まりない。

「愛とは化学反応である」だの「視線による脳内麻薬の分泌」だの、小難しい理屈ばかりが並んでいる。


「……暇ね」


ページをめくる指が止まる。

視線の先には、今日も今日とて完璧な姿勢で銀食器を磨いている、我が夫にして執事、アルフォンス・クラインの背中があった。


シャッ、シャッ、シャッ。

リズミカルな音。

一点の曇りもない銀髪。

皺ひとつない燕尾服。

そして、私に向けられる背中越しでも分かる過保護なセンサー。


「エルカ。あくびをなさる時は、手で口元を隠してください。……それと、スカートの裾が乱れていますよ」


彼は振り返りもせずに指摘した。


「……あんた、背中にも目がついてるの?」


「執事たるもの、全方位の気配察知は基本技能です。特に貴女に関しては、呼吸の深さから体温の変化まで、半径五十メートル以内なら全て把握しております」


彼はクルリと振り返り、ニッコリと微笑んだ。

その笑顔は、相変わらず完璧で、隙がなくて、そして……なんだか「悔しい」。


(……いつも、あんたのペースじゃない)


新婚生活が始まってからというもの、私は常に彼に管理され、愛でられ、翻弄されている。

夜の営みだってそうだ。

私がどれだけ強がっても、結局は彼の手のひらで転がされ、恥ずかしい声を上げさせられて終わる。

たまには、私の方が彼を驚かせてやりたい。

あの涼しい顔を、真っ赤にさせて、タジタジにしてやりたい。


「……ん?」


その時、手元の魔導書の一節が目に留まった。


『――第7章:簡易誘惑術式【アフロディーテの吐息】』


記述によれば、これは術者の魔力を「視覚的な魅力」と「嗅覚的なフェロモン」に変換し、対象の理性のタガを強制的に緩める魔法らしい。

高度な精神操作魔法チャームとは違い、あくまで「本人の魅力を底上げする」程度の、パーティ用ジョークグッズみたいな術式だ。


『効果:対象は術者を「抗いがたい果実」として認識し、保護欲と情欲を同時に刺激される。副作用:なし(ただし、乱用は痴話喧嘩の元となる)』


「……これだわ」


私の口元がニヤリと歪んだ。

これを使って、少しばかり「色っぽい奥様」を演じてみよう。

あの鉄仮面のような理性が、どこまで持つか見ものだわ。


「……アルフォンスー」


私は普段通りの気怠げな声を出しつつ、カウチの影でこっそりと指先を動かした。

複雑な印を結ぶ。

魔力が練り上がり、ピンク色の淡い光となって私の体を包み込む。


(術式展開……対象、アルフォンス・クライン。出力、中くらい!)


「はい、何でしょうか」


アルフォンスがクロスを置いて近づいてくる。

私は魔導書を閉じ、カウチの上でゆっくりと体勢を変えた。

いつもの「ゴロゴロ」ではない。

意識して、足を組み替え、スリットから太腿をチラリと覗かせる。

シャツのボタンを一つ外し、鎖骨を強調する。

そして、上目遣いで彼を見つめ、甘い声を作る。


「……なんだか、熱いの」


術式が発動した。

私の周囲に、微細な魔力の粒子が舞う。

それは視覚的には「キラキラしたエフェクト」として、嗅覚的には「熟した果実と花の香り」として、アルフォンスの五感を直撃するはずだ。


「……おや」


アルフォンスの足が止まった。

彼は眼鏡の奥のアイスブルーの瞳を細め、私を凝視した。


(かかった!)


私は心の中でガッツポーズをした。

さあ、どうする?

「エルカ様、なんと美しい……」とか言って、顔を赤くして狼狽えるがいいわ!


「……室温は適正なはずですが。熱っぽいのですか?」


彼はスタスタと歩み寄り、私の額に手を当てようとした。


「ち、違うわよ! 病気じゃないの!」


私は彼の手を取り、自分の頬に押し当てた。

そして、術式の出力を上げる。

もっと、妖艶に。もっと、魅力的に。


「……あんたの顔を見てたら、熱くなっちゃったの。ねえ、アルフォンス。喉が渇いたわ。あんたが、癒やして?」


精一杯の誘惑台詞。

心臓がバクバクする。

こんな恥ずかしいこと、シラフじゃ絶対に言えない。

でも、今日こそは主導権を握るんだから!


アルフォンスは私の頬に手を当てたまま、ピタリと動きを止めた。

彼の視線が、私の潤んだ瞳、少し開いた唇、そしてボタンの外れた胸元へと這うように移動する。


「…………」


沈黙。

リビングの空気が、急激に重くなる。


(……あれ? 反応がない?)


私が不安になった瞬間。


「……『アフロディーテの吐息』ですね」


彼は静かに言った。

声色は冷静そのものだった。


「……えっ」


「構成術式から見て、第三世代の汎用型でしょうか。魔力配列が少し古いです。私が気づかないとでも思いましたか?」


バレてるーッ!?

さすが元・掃除屋。魔術への造詣が深すぎる。

私は一気に恥ずかしくなって、彼の手を振りほどこうとした。


「う、うるさいわね! ちょっとイタズラしようと思っただけじゃない! ……もういい、解除する!」


「待ちなさい」


ガシッ。

逃げようとした私の手首が、彼の手袋に覆われた大きな手に掴まれた。


「……え?」


「解除する必要はありません。……いえ、させません」


アルフォンスの声が、一段低くなった。

見上げると、彼の表情が変わっていた。

いつもの「完璧な執事の微笑み」ではない。

眼鏡の奥の瞳が、暗く、深く、濁っている。


「……あ、アルフォンス?」


「エルカ。貴女は大きな誤算をしています」


彼は私の手首を引き寄せ、そのままカウチの上に私を押し倒した。

ドサッ。

クッションに沈み込む体。

覆いかぶさる彼の影。


「誤算……?」


「この術式は、対象の理性を『緩める』効果があります。ですが……」


彼の指先が、私の首筋をゆっくりとなぞる。

その感触は、いつもより熱く、そして粘着質だ。


「私に関して言えば、貴女への理性など、普段から『皮一枚』で辛うじて繋ぎ止めている状態なのです。……それを、貴女自身の手で緩めてどうするのですか?」


「っ……!」


「それに……」


彼は顔を近づけ、私の耳元で囁いた。

術式の甘い香りよりも、彼自身の男らしい香りが私を包み込み、頭がクラクラする。


「こんな術式を使わなくとも……。

貴女が私の気を引こうと、古ぼけた本を読み漁り、慣れない色仕掛けを一生懸命に画策しているその『姿』だけで……私はもう、限界なのですよ」


「……うそ」


「嘘ではありません。

先ほど、貴女がボタンを外して私を見上げた瞬間……私の理性の留め金は、音を立てて弾け飛びました」


彼の眼鏡が、カチャリと外された。

露わになった素顔。

美しく、そしてどうしようもなく飢えた獣の目。


「……か、可愛かった?」


私が震える声で聞くと、彼は苦しげに顔を歪め、私の首筋に噛み付くようにキスをした。


「……可愛すぎて、殺意が湧くほどでした。

他の男に見せたら、この国の全人口を抹殺しかねないほどに」


「……ひゃぅっ!」


首筋に吸い付かれる感触。

術式の効果だろうか、それとも私の自爆だろうか。

彼の唇が触れた場所から、痺れるような熱が広がり、体に力が入らない。


「あ、アルフォンス……まっ、待って……! 心の準備が……!」


「準備? 貴女が誘ったのですよ?

『熱いから癒やして』と仰いましたね。……ええ、たっぷりと癒やして差し上げます。私の全存在を注ぎ込んで」


「そ、それは言葉のアヤで……!」


「却下です。……今の貴女は、術式の効果でいつにも増して魅力的だ。肌が発光しているように美しい。香りも……ああ、甘い。私の脳を溶かす毒のようだ」


彼は私のシャツのボタンを、次々と外していく。

その手つきに、迷いも遠慮もない。


「……見え透いた誘惑魔法など、私には通用しません。ですが、『貴女が私を求めてくれた』という事実だけで、私は貴女を朝まで離さない理由を得ました」


「……っ、この……変態執事……!」


「光栄です。貴女だけの変態ですよ、愛しい魔女様」


彼は私の唇を塞いだ。

深く、重く、逃げ場のない口づけ。

魔法で作り出した「偽物の誘惑」なんて吹き飛ぶほどの、本物の情熱が流れ込んでくる。


(……ああ、やっぱり敵わない)


私は彼の背中に手を回し、しがみついた。

翻弄するつもりだったのに。

結局、私が彼に溶かされている。

でも、彼の腕の中がこんなにも熱くて心地よいなら……まあ、負けてあげてもいいかな。


一時間後。

術式の効果はとっくに切れていたが、カウチの上の熱気は冷めるどころか、増すばかりだった。


「……はぁ、はぁ……。もう、無理……」


私が涙目で訴えると、アルフォンスは満足げに私の髪を梳き、汗ばんだ額にキスをした。


「……素晴らしい反応でした、エルカ。

これほど乱れた貴女を見られるなら、あの魔導書も捨てたものではありませんね」


「……うぅ……もう絶対やらない……」


「そうですか? 私はいつでも歓迎ですが」


彼は私の腹部――おへそのあたりを、愛おしそうに撫でた。


「……しかし、これほど愛を注いだのです。

そろそろ、本当に……私たちの『宝物』について、真剣に考えなければなりませんね?」


「……え?」


「私の理性はもうボロボロです。次に貴女が不用意な誘惑をしたら……避妊魔法など掛け忘れて、本能のままに貴女の奥深くに種を撒いてしまうかもしれませんよ?」


彼の瞳が、冗談ではない光を帯びていた。

脅しではない。

それは、切実な願いと、予言のような響きを持っていた。


「……そ、それは……」


「……嫌ですか?」


彼が不安そうに眉を下げる。

そんな顔をされたら、断れるわけがない。

それに、私も……。


「……嫌じゃ、ないけど……」


「本当ですか?」


「……うん。……あんたとの子供なら、悪くないかなって……」


私がボソッと言うと、アルフォンスは一瞬きょとんとし、次の瞬間、世界が壊れるほどの満面の笑みを浮かべた。


「……言いましたね? 今、確かに言いましたね?」


「い、言ったわよ! 一回だけよ!」


「ああ、神よ! 感謝します! 今日という日は『聖エルカ受胎準備記念日』として歴史に刻みましょう!」


「名前が重い!!」


「善は急げです。さあ、第二ラウンドといきましょう。今度は基礎体温を上げるマッサージから……」


「ちょ、待って! 休憩させて! アルフォンスーッ!!」


完璧執事の暴走は止まらない。

魔女の逆襲は、完璧な敗北と、甘すぎる未来への約束という形で幕を閉じたのだった。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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