第118話「魔女の逆襲、『誘惑術式』の誤算」
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ナラ・エンの午後。
窓から差し込む陽射しは、溶けたバターのように黄金色で、気怠げな眠気を誘っていた。
「……ふわぁ」
私はリビングの長椅子にだらしなく寝転がり、分厚い古書を顔の上に広げていた。
『西方魔術体系・第三巻:感情操作とフェロモンの相関』。
なんてことのない、書庫から適当に引っこ抜いてきた三流魔導書だ。
内容は退屈極まりない。
「愛とは化学反応である」だの「視線による脳内麻薬の分泌」だの、小難しい理屈ばかりが並んでいる。
「……暇ね」
ページをめくる指が止まる。
視線の先には、今日も今日とて完璧な姿勢で銀食器を磨いている、我が夫にして執事、アルフォンス・クラインの背中があった。
シャッ、シャッ、シャッ。
リズミカルな音。
一点の曇りもない銀髪。
皺ひとつない燕尾服。
そして、私に向けられる背中越しでも分かる過保護なセンサー。
「エルカ。あくびをなさる時は、手で口元を隠してください。……それと、スカートの裾が乱れていますよ」
彼は振り返りもせずに指摘した。
「……あんた、背中にも目がついてるの?」
「執事たるもの、全方位の気配察知は基本技能です。特に貴女に関しては、呼吸の深さから体温の変化まで、半径五十メートル以内なら全て把握しております」
彼はクルリと振り返り、ニッコリと微笑んだ。
その笑顔は、相変わらず完璧で、隙がなくて、そして……なんだか「悔しい」。
(……いつも、あんたのペースじゃない)
新婚生活が始まってからというもの、私は常に彼に管理され、愛でられ、翻弄されている。
夜の営みだってそうだ。
私がどれだけ強がっても、結局は彼の手のひらで転がされ、恥ずかしい声を上げさせられて終わる。
たまには、私の方が彼を驚かせてやりたい。
あの涼しい顔を、真っ赤にさせて、タジタジにしてやりたい。
「……ん?」
その時、手元の魔導書の一節が目に留まった。
『――第7章:簡易誘惑術式【アフロディーテの吐息】』
記述によれば、これは術者の魔力を「視覚的な魅力」と「嗅覚的なフェロモン」に変換し、対象の理性のタガを強制的に緩める魔法らしい。
高度な精神操作魔法とは違い、あくまで「本人の魅力を底上げする」程度の、パーティ用ジョークグッズみたいな術式だ。
『効果:対象は術者を「抗いがたい果実」として認識し、保護欲と情欲を同時に刺激される。副作用:なし(ただし、乱用は痴話喧嘩の元となる)』
「……これだわ」
私の口元がニヤリと歪んだ。
これを使って、少しばかり「色っぽい奥様」を演じてみよう。
あの鉄仮面のような理性が、どこまで持つか見ものだわ。
「……アルフォンスー」
私は普段通りの気怠げな声を出しつつ、カウチの影でこっそりと指先を動かした。
複雑な印を結ぶ。
魔力が練り上がり、ピンク色の淡い光となって私の体を包み込む。
(術式展開……対象、アルフォンス・クライン。出力、中くらい!)
「はい、何でしょうか」
アルフォンスがクロスを置いて近づいてくる。
私は魔導書を閉じ、カウチの上でゆっくりと体勢を変えた。
いつもの「ゴロゴロ」ではない。
意識して、足を組み替え、スリットから太腿をチラリと覗かせる。
シャツのボタンを一つ外し、鎖骨を強調する。
そして、上目遣いで彼を見つめ、甘い声を作る。
「……なんだか、熱いの」
術式が発動した。
私の周囲に、微細な魔力の粒子が舞う。
それは視覚的には「キラキラしたエフェクト」として、嗅覚的には「熟した果実と花の香り」として、アルフォンスの五感を直撃するはずだ。
「……おや」
アルフォンスの足が止まった。
彼は眼鏡の奥のアイスブルーの瞳を細め、私を凝視した。
(かかった!)
私は心の中でガッツポーズをした。
さあ、どうする?
「エルカ様、なんと美しい……」とか言って、顔を赤くして狼狽えるがいいわ!
「……室温は適正なはずですが。熱っぽいのですか?」
彼はスタスタと歩み寄り、私の額に手を当てようとした。
「ち、違うわよ! 病気じゃないの!」
私は彼の手を取り、自分の頬に押し当てた。
そして、術式の出力を上げる。
もっと、妖艶に。もっと、魅力的に。
「……あんたの顔を見てたら、熱くなっちゃったの。ねえ、アルフォンス。喉が渇いたわ。あんたが、癒やして?」
精一杯の誘惑台詞。
心臓がバクバクする。
こんな恥ずかしいこと、シラフじゃ絶対に言えない。
でも、今日こそは主導権を握るんだから!
アルフォンスは私の頬に手を当てたまま、ピタリと動きを止めた。
彼の視線が、私の潤んだ瞳、少し開いた唇、そしてボタンの外れた胸元へと這うように移動する。
「…………」
沈黙。
リビングの空気が、急激に重くなる。
(……あれ? 反応がない?)
私が不安になった瞬間。
「……『アフロディーテの吐息』ですね」
彼は静かに言った。
声色は冷静そのものだった。
「……えっ」
「構成術式から見て、第三世代の汎用型でしょうか。魔力配列が少し古いです。私が気づかないとでも思いましたか?」
バレてるーッ!?
さすが元・掃除屋。魔術への造詣が深すぎる。
私は一気に恥ずかしくなって、彼の手を振りほどこうとした。
「う、うるさいわね! ちょっとイタズラしようと思っただけじゃない! ……もういい、解除する!」
「待ちなさい」
ガシッ。
逃げようとした私の手首が、彼の手袋に覆われた大きな手に掴まれた。
「……え?」
「解除する必要はありません。……いえ、させません」
アルフォンスの声が、一段低くなった。
見上げると、彼の表情が変わっていた。
いつもの「完璧な執事の微笑み」ではない。
眼鏡の奥の瞳が、暗く、深く、濁っている。
「……あ、アルフォンス?」
「エルカ。貴女は大きな誤算をしています」
彼は私の手首を引き寄せ、そのままカウチの上に私を押し倒した。
ドサッ。
クッションに沈み込む体。
覆いかぶさる彼の影。
「誤算……?」
「この術式は、対象の理性を『緩める』効果があります。ですが……」
彼の指先が、私の首筋をゆっくりとなぞる。
その感触は、いつもより熱く、そして粘着質だ。
「私に関して言えば、貴女への理性など、普段から『皮一枚』で辛うじて繋ぎ止めている状態なのです。……それを、貴女自身の手で緩めてどうするのですか?」
「っ……!」
「それに……」
彼は顔を近づけ、私の耳元で囁いた。
術式の甘い香りよりも、彼自身の男らしい香りが私を包み込み、頭がクラクラする。
「こんな術式を使わなくとも……。
貴女が私の気を引こうと、古ぼけた本を読み漁り、慣れない色仕掛けを一生懸命に画策しているその『姿』だけで……私はもう、限界なのですよ」
「……うそ」
「嘘ではありません。
先ほど、貴女がボタンを外して私を見上げた瞬間……私の理性の留め金は、音を立てて弾け飛びました」
彼の眼鏡が、カチャリと外された。
露わになった素顔。
美しく、そしてどうしようもなく飢えた獣の目。
「……か、可愛かった?」
私が震える声で聞くと、彼は苦しげに顔を歪め、私の首筋に噛み付くようにキスをした。
「……可愛すぎて、殺意が湧くほどでした。
他の男に見せたら、この国の全人口を抹殺しかねないほどに」
「……ひゃぅっ!」
首筋に吸い付かれる感触。
術式の効果だろうか、それとも私の自爆だろうか。
彼の唇が触れた場所から、痺れるような熱が広がり、体に力が入らない。
「あ、アルフォンス……まっ、待って……! 心の準備が……!」
「準備? 貴女が誘ったのですよ?
『熱いから癒やして』と仰いましたね。……ええ、たっぷりと癒やして差し上げます。私の全存在を注ぎ込んで」
「そ、それは言葉のアヤで……!」
「却下です。……今の貴女は、術式の効果でいつにも増して魅力的だ。肌が発光しているように美しい。香りも……ああ、甘い。私の脳を溶かす毒のようだ」
彼は私のシャツのボタンを、次々と外していく。
その手つきに、迷いも遠慮もない。
「……見え透いた誘惑魔法など、私には通用しません。ですが、『貴女が私を求めてくれた』という事実だけで、私は貴女を朝まで離さない理由を得ました」
「……っ、この……変態執事……!」
「光栄です。貴女だけの変態ですよ、愛しい魔女様」
彼は私の唇を塞いだ。
深く、重く、逃げ場のない口づけ。
魔法で作り出した「偽物の誘惑」なんて吹き飛ぶほどの、本物の情熱が流れ込んでくる。
(……ああ、やっぱり敵わない)
私は彼の背中に手を回し、しがみついた。
翻弄するつもりだったのに。
結局、私が彼に溶かされている。
でも、彼の腕の中がこんなにも熱くて心地よいなら……まあ、負けてあげてもいいかな。
一時間後。
術式の効果はとっくに切れていたが、カウチの上の熱気は冷めるどころか、増すばかりだった。
「……はぁ、はぁ……。もう、無理……」
私が涙目で訴えると、アルフォンスは満足げに私の髪を梳き、汗ばんだ額にキスをした。
「……素晴らしい反応でした、エルカ。
これほど乱れた貴女を見られるなら、あの魔導書も捨てたものではありませんね」
「……うぅ……もう絶対やらない……」
「そうですか? 私はいつでも歓迎ですが」
彼は私の腹部――おへそのあたりを、愛おしそうに撫でた。
「……しかし、これほど愛を注いだのです。
そろそろ、本当に……私たちの『宝物』について、真剣に考えなければなりませんね?」
「……え?」
「私の理性はもうボロボロです。次に貴女が不用意な誘惑をしたら……避妊魔法など掛け忘れて、本能のままに貴女の奥深くに種を撒いてしまうかもしれませんよ?」
彼の瞳が、冗談ではない光を帯びていた。
脅しではない。
それは、切実な願いと、予言のような響きを持っていた。
「……そ、それは……」
「……嫌ですか?」
彼が不安そうに眉を下げる。
そんな顔をされたら、断れるわけがない。
それに、私も……。
「……嫌じゃ、ないけど……」
「本当ですか?」
「……うん。……あんたとの子供なら、悪くないかなって……」
私がボソッと言うと、アルフォンスは一瞬きょとんとし、次の瞬間、世界が壊れるほどの満面の笑みを浮かべた。
「……言いましたね? 今、確かに言いましたね?」
「い、言ったわよ! 一回だけよ!」
「ああ、神よ! 感謝します! 今日という日は『聖エルカ受胎準備記念日』として歴史に刻みましょう!」
「名前が重い!!」
「善は急げです。さあ、第二ラウンドといきましょう。今度は基礎体温を上げるマッサージから……」
「ちょ、待って! 休憩させて! アルフォンスーッ!!」
完璧執事の暴走は止まらない。
魔女の逆襲は、完璧な敗北と、甘すぎる未来への約束という形で幕を閉じたのだった。
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