第117話「新妻観察日記」
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ナラ・エンの森に、穏やかな午後の静寂が満ちていた。
白亜の塔、その三階にあるアルフォンスの書斎。普段は彼が完璧なスケジュール管理を行う聖域に、私は好奇心という名の魔に差されて足を踏み入れていた。
「アルフォンスのやつ、街へ買い物に行ったわね」
ノワールを小脇に抱え、私は彼のデスクの背後にある、重厚な鍵がかかった書棚を凝視した。
そこには、私の魔術書とは違う、革装の分厚いノートがズラリと並んでいる。背表紙には『管理記録』という無機質な文字。
「怪しい。絶対に怪しいわ」
かつて、ゴミ屋敷の魔女だった私を磨き上げる際、彼は詳細な『観察日記』をつけていた。
私の食事量、睡眠時間、果ては抜けた髪の毛一本に至るまで記録されていたあの忌まわしき(?)日記。
まさか、新婚生活が始まっても続いているのではあるまいな。
「……ちょっとだけ、中身を確認するだけよ。主人の義務だもん」
私は指先から紫色の魔力を通し、複雑な術式ロックを解錠した。
カチャリ、という音と共に、一冊のノートが私の手に落ちる。
表紙には――『新妻管理記録 第十二巻:心身の調律と未来のゆりかごについて』。
「……未来の、ゆりかご?」
嫌な予感を抱きつつ、ページをめくる。
そこに記されていたのは、私の想像を絶する「狂気」と「献身」の結晶だった。
『○月○日。
エルカ様の基礎体温:36.65度。前日より0.05度上昇。
生理周期から逆算するに、排卵予定日まであと三日。
本日の献立は、葉酸と鉄分を重点的に強化した。エルカ様は「レバーが苦い」と仰ったが、蜜蝋で煮込んだ甘露煮にすることで完食。愛らしい。
心拍数:安静時72。私が背後から抱きしめた際、瞬間的に110まで上昇。……素晴らしい、私の愛に体が正直に反応している』
「……な、ななな……ッ!!」
顔から火が出るどころか、全身が発火しそうだった。
ページをめくる手が震える。
そこには、私の体温の推移が精密なグラフとして描かれ、日々の魔力残量や、果ては「寝返りの回数」までがデータ化されていた。
「これ、医療記録じゃない……! もはや生態調査よ!!」
驚愕はそれだけでは終わらなかった。
データの合間に、これでもかと書き殴られた「追記」という名のポエム。
『考察:
今朝のエルカ様の寝起きの睫毛。その角度は、朝日を浴びて15度の黄金角を成していた。
半開きの唇から漏れる吐息は、昨夜与えたレモンティーの香りと彼女自身の体香が混ざり合い、
もはや致死量の媚薬と化している。
指先でその頬をなぞった際、彼女は無意識に私の指を吸った。……神よ。私は危うく理性をかなぐり捨て、予定されていた朝食の準備を放棄し、
彼女を貪り尽くすところだった』
「……っ、へ、変態……! ド変態だわ、この執事!!」
私はノートを閉じ、床に放り投げたくなった。
しかし、次のページに貼られていた「魔導グラフ」が目に留まった。
それは、私の胎内——子宮近辺の魔力環境をシミュレートした図だった。
『結論:
現在のエルカの体内環境は、受胎において最適(コンフィギュレーション完了)。
いつでも、愛の結晶を迎え入れる準備は整っている。あとは、私の『愛』をどれだけ深く、正確に注ぎ込むかだ。今夜の愛撫は、第二脊椎付近を重点的に……』
「……やっぱり!! 私を妊娠させようとしてたのね!!」
私が叫んだ、その時だった。
「――おやおや。許可なく他人の機密文書を閲覧するとは、少々教育が必要なようですね、エルカ」
「ひっ!?」
背後から、凍りつくような、それでいて甘く蕩けるような低い声が響いた。
振り返ると、いつの間にか買い出しから戻っていたアルフォンスが、銀縁眼鏡の奥のアイスブルーの瞳を細めて立っていた。
手には、高級な果物が入ったカゴ。
その立ち姿はどこまでも優雅だが、放たれる独占欲のプレッシャーで空気が重い。
「……ア、アルフォンス。これ、何よ!!」
私は床に落ちたノートを指差し、顔を真っ赤にして詰め寄った。
「何、とは。見ての通り、妻の健康管理記録ですよ」
彼は歩み寄り、優雅な所作でノートを拾い上げると、愛おしそうに表紙を撫でた。
「健康管理のレベルを超えてるわよ! 生理周期とか、基礎体温とか……。それに、この『未来のゆりかご』って……あんた、私に子供を産ませるために、こんな緻密な計画を立ててたの!?」
「当然です」
アルフォンスは一歩、私に詰め寄った。
彼の高い身長に圧倒され、私は思わず書棚に背中を預ける形になる。
「私は貴女の夫であり、主治医であり、執事です。貴女が健やかに、そして最高に幸福な状態で『新しい家族』を迎えられる環境を整えるのは、私の至上の喜び。……エルカ。貴女は、私との子供が欲しくないのですか?」
彼は私の顔の横に手を突き、逃げ場を塞いだ。
アイスブルーの瞳が、至近距離で私のアメジストの瞳を射抜く。
「……っ、そ、そういうわけじゃないけど……。でも、こんな風にデータで管理されるなんて、まるで実験体みたいじゃない!」
「実験体? 心外ですね」
アルフォンスは空いた左手で、私の顎をそっと持ち上げた。
白い手袋越しに伝わる、彼の指先の熱。
「実験体に、これほど情熱的な詩を捧げる男がどこにいますか?私は貴女の細胞一つ一つを愛し、慈しみ、その全てが私のものであることを確認せずにはいられないのです。
……貴女の体は、今や完璧に整えられている。
私が触れれば、貴女の魔力は歓喜に震え、その胎は私の種を望んで熱を帯びる……。
そうでしょう?」
「……っ……ぁ……」
彼の囁きに、体の奥が疼く。
悔しいけれど、彼に磨き上げられた私の体は、
彼の声一つで反応するように作り替えられてしまっている。
アルフォンスは私の首筋に鼻先を寄せ、深々とその香りを吸い込んだ。
「……葉酸も、ミネラルも、十分です。今夜あたり、いかがですか?貴女に似た、アメジストの瞳を持つ小さな天使を……二人で育むのは」
彼の言葉は、甘い誘惑という名の「強制」だった。
逃げられない共依存。
私は彼の胸板を弱々しく押し返しながら、俯いた。
心臓がうるさい。
彼の言う通り、彼との子供ができることは、
私にとっても最高の幸せに違いない。
けれど――。
「……ねえ、アルフォンス」
「はい、愛しい我が妻よ」
私は彼のシャツの襟元をギュッと握りしめ、
消え入りそうな声で、ぼそっと呟いた。
「……子供も、もちろん、いいんだけど……」
「おや、続きがあるのですか?」
「……もう少しだけ、アルフォンスと二人の時間も楽しみたいな、なんて……思ったり……して……」
「………………」
静寂が、書斎を支配した。
アルフォンスの動きが、ピタリと止まった。
「……アルフォンス?」
不安になって顔を上げると、そこにはかつて見たこともないような、ひどく「間抜け」で、それでいて「爆発しそうなほど幸せそう」な、とろとろに溶けた顔の執事がいた。
「……あ」
「……アルフォンスさん?」
「………………神よ」
彼は天を仰ぎ、そのまま私の肩に顔を埋めた。
ガクガクと、彼の大きな体が震えている。
「……ア、アルフォンス!? 大丈夫!?」
「……エルカ。……今、なんと仰いましたか? もう一度、録音魔法を起動しますので、正確に一字一句違わず唱えていただけますか?」
「嫌よ!! なんで録音するのよ!!」
「『二人の時間を楽しみたい』……つまり、貴女は私をそれほどまでに求めていると。……子供という愛の結晶を差し置いても、私の独占を望むと……!!ああ……!! 私の教育が、ついに実を結んだ……!! 貴女を私なしでは一秒も呼吸できない依存体質に仕立て上げたつもりでしたが、まさか貴女の方からそれを望まれるとは!!」
「そこまで言ってないわよ!!」
アルフォンスは私の腰を抱き上げ、そのままくるくると回った。
「完璧執事」の面影はどこにもない。
ただの、妻のデレにノックアウトされた一人の重い男だ。
「……あぁぁぁ!! 尊い!! 尊すぎます、エルカ!!わかりました、予定変更です!! 懐妊計画は一時凍結、あるいは無期限の延長も辞さない!!今夜からは、貴女が望む通り、一分一秒、骨の髄まで『二人の時間』を堪能して差し上げましょう!!」
「……え、いや、そんな極端な話じゃ……」
「いいえ!! 貴女の望みは私の使命です!!
さあ、寝室へ!! 買い物袋? そんなものは魔術で保存しておけばいい!!今は、貴女のその愛らしいワガママを、私の全身全霊をもって受け止める刻です!!」
「ちょ、ちょっと待って! まだ昼間よ!? アルフォンスーッ!!」
私の抗議など、絶頂に達した彼の耳には届かない。
アルフォンスはお姫様抱っこのまま、鼻歌を歌いながら――その歌詞は明らかに私への賛美歌だった――寝室へと突き進んでいった。
書斎の机に残された『新妻管理記録』。
その最後のページに、彼が戻った後、震える手でこう書き加えられたのを、私は後で知ることになる。
『追記:
エルカが「二人きりがいい」と仰った。
私は今日、真の主従、そして真の夫婦となった。
世界よ、私を羨め。
……なお、今夜の「二人の時間」の濃厚さは、過去の全記録を凌駕する予定である』
ナラ・エンの森、白亜の塔。
今日もまた、完璧すぎる執事の重すぎる愛のせいで、魔女の腰が死滅する音が響くのであった。
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