第115話「ちいさな魔女と過保護な守護者」
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ナラ・エンの森、白亜の塔。
その実験室で、私は鏡を睨みつけていた。
「……むぅ」
鏡の中の私は、いつもの私だ。
黒髪はアルフォンスの手入れのおかげで絹糸のように艶やかだし、肌も十分に白い。
でも、昨日の夜更かしが祟ったのか、目の下にうっすらとクマがあるような気がする。
「やっぱり、アンチエイジングは早いうちから始めるべきよね」
私は薬学と魔術の権威だ。
「美」を食らう呪いさえ治せるなら、自分を少しばかり「若返らせる」薬なんて、朝飯前のはず。
「理論は完璧。副作用は……まあ、誤差の範囲でしょ」
私は机の上に広げた羊皮紙に、複雑な数式を書き殴った。
「よし、完成!」
ビーカーの中で、ピンク色の液体がポコポコと可愛らしい泡を立てている。
甘いベリーのような香り。
これを飲めば、私の肌は十代の頃のような、パンッと張り詰めた弾力を取り戻すはずだ。
「いっただっきまーす!」
私は一気にそれを煽った。
喉を通る甘い刺激。
胃の中に温かいものが広がり――そして、全身がカッと熱くなった。
「――っ!?」
視界がぐらりと歪む。
体が縮むような、骨が軋むような奇妙な感覚。
そして、ボンッ!! という派手な爆発音と共に、私の意識は白い煙の中に消えた。
「……エルカ? 大きな音がしましたが……」
ガチャリ。
扉が開き、いつものように完璧なタイミングでアルフォンスが入ってきた。
手にはお茶のセット。
しかし、彼の主人はどこにもいない。
あるのは、床に散乱した私の服と、白衣の残骸だけ。
「……エルカ?」
アルフォンスの表情が凍りつく。
彼はトレイを置き、服の山に駆け寄った。
まさか、実験の失敗で消滅してしまったのか?
焦燥感が彼の完璧な仮面を剥がしかけた、その時だった。
「……うぅ……」
服の山が、モゾモゾと動いた。
そして、ブカブカになったシャツの襟元から、
ひょこっと小さな頭が飛び出した。
「……あふぉん……しゅ?」
「……ッ!!」
アルフォンスが、息を呑んで硬直した。
そこにいたのは、私だった。
ただし、サイズが圧倒的に違う。
丸い瞳。プニプニの頬っぺた。短くなった手足。
推定年齢、三歳。
魔女エルカは、薬の過剰反応により、幼児化してしまったのだ。
「……え、るか……?」
「……あ、あれぇ?」
私は自分の手を見た。
クリームパンみたいに丸くて小さい手。
立ち上がろうとするけれど、足が短すぎてバランスが取れず、ペタンと尻餅をついてしまう。
(うそ……! 若返りすぎて、幼児になっちゃった!?)
中身はそのままなのに、舌が回らない。
思考もなんだかふわふわしている。
私は助けを求めて、目の前の巨大な銀色の壁を見上げた。
「……だっこぉ」
自然と、甘えるような声が出た。
両手を広げて、彼に求める。
その瞬間。
ドォォォン!!
アルフォンスの背後で、何かが爆発したような幻覚が見えた。
それは彼の「理性」が吹き飛び、「父性」という名の何かがビッグバンを起こした音だった。
「――ああ、神よ!!」
アルフォンスは膝から崩れ落ちるようにして、私を抱き上げた。
その手つきは、壊れかけの古代遺物を扱うよりも慎重で、そして震えていた。
「なんという……なんという愛らしさ!!
天使? いえ、天使などという言葉では陳腐すぎます。これは奇跡! 宇宙の真理そのものです!!」
「……くるし、い……」
「ああっ、申し訳ありません! あまりの尊さに、力の加減が……!」
彼は慌てて力を緩め、私の顔を覗き込んだ。
そのアイスブルーの瞳は、かつてないほどドロドロに溶け、怪しい光を放っている。
「……エルカ。わかりますか? 私は誰でしょう?」
「……あーふぉんしゅ。……しつじ……おっと」
「ッブハァ!!」
アルフォンスが鼻を押さえて仰け反った。
どうやら、私の幼児語攻撃はクリティカルヒットだったらしい。
彼は眼鏡を光らせ、ハンカチで鼻血(未遂)を拭うと、キリッとした顔で宣言した。
「……状況は把握しました。若返り薬の副作用ですね。解析によると、効果はおよそ半日。……つまり」
彼はニヤリと笑った。
その笑顔は、獲物を見つけた肉食獣のように獰猛で、そして最高に楽しそうだった。
「……半日間、私はこの『ちいさなエルカ』の保護者になれるということです」
それからの時間は、まさに「王侯貴族の育児ごっこ」だった。
「まずは、お召し物を」
アルフォンスは指をパチンと鳴らした。
彼の裁縫スキルと物質変換魔法が発動し、私のブカブカのシャツが、一瞬にして最高級シルクのベビードレス(フリル増量版)に変わった。
「……ふりふり、やだぁ」
「いいえ、お似合いです! 世界一可愛いです! 肖像画に残して美術館に飾りたいくらいです!」
彼は私を着替えさせながら、プニプニの二の腕やお腹を、さりげなく、しかし執拗に触ってくる。
「……ああ、なんと柔らかい……。マシュマロと雲を練り合わせたようだ……」
「……へんたい」
「最高の褒め言葉です、お嬢様」
彼は私を抱っこしたまま、リビングへと移動した。
足が床につかない。視線が高い。
アルフォンスの胸に顔を埋めると、いつものレモンと石鹸の香りに包まれて、なんだか猛烈に安心してしまう。
中身は大人の魔女なのに、本能が「この人に任せておけば大丈夫」と告げているのだ。
「さて、お食事にしましょう」
テーブルには、既に用意されていた。
カボチャのポタージュ、白身魚のムース、そして細かく刻まれた野菜のリゾット。
全てが離乳食仕様だが、香りは三ツ星レストランのそれだ。
「さあ、あーん」
「……じぶんで、たべる」
私はスプーンを奪い取ろうとした。
しかし、丸まった指先では銀のスプーンは重く、
カチャンとテーブルに落ちてしまった。
「……あぅ」
「無理をしてはいけません。……今の貴女の手は、私の指を握るためだけに存在しているのですから」
アルフォンスは優しく微笑み、スプーンを口元に運んでくれた。
「ほら、飛行機ですよ〜。ブーン」
「……こどもあつかい、しないで……」
抗議しようと口を開けた瞬間、絶品のポタージュが滑り込んできた。
甘い。濃厚。
とろけるような美味しさに、頬が勝手に緩んでしまう。
「……おいちい」
「でしょう? ……ああ、食べている姿も愛らしい。口元についたスープさえ宝石のようだ」
彼は私の口元をナプキンで拭い、その指先を愛おしそうに見つめた。
「……エルカ様。いっそ、このままの姿でも良いのでは?」
「……え?」
「このサイズなら、ポケットに入れてどこへでも連れて行けます。悪い虫も寄り付かない。私だけの『お人形』として、一生愛でて差し上げられるのですが」
彼の瞳が、冗談ではない色で光った。
ゾクリと背筋が震える。
この男、本気だ。
私が無力であればあるほど、彼の歪んだ庇護欲は満たされるのだ。
「……だめ。……おとなに、もどるもん」
「ふふ。冗談です(今のところは)」
食事が終わると、急激な眠気が襲ってきた。
幼児の体は燃費が悪い。お腹がいっぱいになると、強制的にスリープモードに入るらしい。
「……ふあぁ……」
「おや、おねむですか?」
アルフォンスは私を抱き上げ、ゆりかごのように優しく揺らし始めた。
大きな手。
広い胸板。
トクトクという心音が、最高の子守唄になる。
「……あるふぉんしゅ……」
「はい、ここにいますよ」
「……ずっと、そばに……いて……」
幼児化したせいか、素直な言葉がポロリとこぼれた。
「……ええ。誓います」
彼が私の額にキスをした。
その唇の熱さが、心地よくて、私は深い闇の中へと落ちていった。
目が覚めると、夕暮れ時だった。
窓の外が茜色に染まっている。
「……ん」
体の感覚が変わっている。
手足が長い。視点が低い(ベッドに寝かされている)。
どうやら、薬の効果が切れたらしい。
「……戻った?」
私は体を起こした。
ベビードレスは弾け飛び、今の私はシーツを一枚纏っただけの、ほぼ裸の状態だった。
「……お目覚めですか、エルカ」
ベッドサイドの椅子に座っていたアルフォンスが、本を閉じてこちらを見た。
いつもの冷静な執事の顔だ。
けれど、その手には、さっきまで私(幼児)をあやしていたガラガラが握られている。
「……見てたの?」
「ええ。一秒たりとも見逃しませんでした。……貴女が寝言で私の名前を呼び、私の指を握りしめて眠る姿を」
彼は立ち上がり、ベッドに近づいてきた。
その瞳の色が、昼間の「慈愛」から、夜の「情欲」へと変化している。
「残念です。ちいさなエルカは、天使のように素直で可愛らしかった」
「悪かったわね、生意気な大人に戻って」
私がふてくされて言うと、彼はシーツごしに私を抱きしめた。
「いいえ。……やはり、こちらの方がいい」
彼は私の耳元で、低く、熱っぽく囁いた。
「あんなに小さな体では、私の愛を受け止めきれませんから」
「……っ」
「それに……育児の予行演習は十分にさせていただきました」
彼の手が、シーツの下に滑り込んでくる。
大きな掌が、私のお腹を優しく撫でた。
「……早く、会いたくなりましたよ」
「……なにに?」
「貴女と私の、本当の子供に」
ドクン。
心臓が跳ねた。
彼の言葉の意味を理解した瞬間、顔が火に油を注いだように熱くなった。
「……き、気が早いわよ……」
「そうですか? ……準備は万端ですが?」
彼は私の唇を塞いだ。
昼間の「あーん」とは違う、大人のキス。
舌が絡み合い、唾液を交換し、互いの存在を確かめ合う濃厚な口づけ。
「……んぅ……っ……」
「さあ、エルカ。今夜は、おままごとではありませんよ」
彼は私を押し倒した。
茜色の光の中で、銀髪の守護者は、最愛の魔女を貪る狼へと変貌していた。
ちいさな魔女との育児ごっこは終わった。
けれど、その先に待っている「本当の未来」への期待が、二人の間に甘く、重く、確かな熱となって残っていた。
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