第112話「旦那様のライバルは黒猫!?仁義なき嫉妬戦争」
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ナラ・エンの森に、しとしとと雨が降る午後のこと。
新婚生活も板についてきた私たち夫婦の愛の巣で、ある「事件」が勃発していた。
「よしよし、ノワール。今日も毛並みがつやつやね〜。可愛い〜」
「みゃあ〜」
リビングのソファ。
私は膝の上に黒猫のノワールを乗せ、専用のブラシでブラッシングをしていた。
ノワールは喉をゴロゴロと鳴らし、私の手に頭を擦り付けてくる。
温かくて、柔らかくて、ほんのりお日様の匂い(実際は乾燥魔法の匂い)がする。
あまりの可愛さに、私はノワールの額にチュッとキスをした。
「ん〜っ! 世界一可愛い猫ちゃんね! 誰よりも愛してるわよ〜」
私がデレデレと猫可愛がりしていると。
カチャン……。
背後で、ティーカップをソーサーに置く音が、やけに冷たく響いた。
「……『誰よりも』、ですか?」
振り返ると、そこには完璧な紅茶を用意したアルフォンスが立っていた。
いつもの燕尾服姿。
銀髪は完璧に整えられ、眼鏡の位置も正しい。
けれど、そのアイスブルーの瞳は、絶対零度の冷気を帯びていた。
そして、その視線は私ではなく――私の膝の上でくつろぐノワールに、レーザービームのように突き刺さっている。
「……アルフォンス? 紅茶、ありがとう」
「……ええ。どうぞ。毒など入っておりませんよ。……貴女が愛してやまない『その獣』の毛が入る前に、お飲みください」
刺々しい。
言葉の端々から、隠しきれない棘が出ている。
「なに、怒ってるの?」
「怒ってなどいません。……ただ、ここ数日、貴女の『愛の配分』が著しく不公平ではないかと、客観的なデータを元に分析していただけです」
彼は懐から手帳を取り出し、ペラペラとめくった。
「昨日の貴女の行動ログです。
私への接触時間:計120分(入浴・睡眠時を除く)。
一方、あの黒猫への接触時間:計185分。
キスをした回数。私:朝と夜の2回。黒猫:15回。
……エルカ。これはどういうことですか?」
彼は眼鏡をクイッと押し上げ、私を尋問するように見下ろした。
「……暇なの?」
「暇ではありません! 私は常に貴女のことを考えているだけです!」
彼は私の膝の上のノワールを指差した。
「その獣は、何の労働もせず、ただ『にゃあ』と鳴くだけで貴女の愛を掠め取っていく寄生生物です。……不潔だ。私の管理する清潔なリビングに、毛を撒き散らすなど……」
「酷いこと言わないでよ! ノワールは家族でしょ? それに、あんたが綺麗にしてくれてるから不潔じゃないし」
私はノワールを庇うように抱きしめた。
すると、アルフォンスの表情がさらに険しくなった。
「……家族、ですか。……では、聞きましょう」
彼は一歩、私に詰め寄った。
「私と、その猫。……どちらが大切なのですか?」
「は?」
出た。
世界一しょうもない二択。
「比べられるわけないでしょ。ノワールはペットで、あんたは夫よ」
「その『夫』よりも『ペット』の方が、キスの回数が多いのはなぜですか!?」
「だって猫だもん! 可愛いんだもん! 仕方ないでしょ!?」
「仕方がなくありません! 私だって……私だって、にゃあと鳴けば可愛がってくれるのですか!?」
「……想像したくないわよ、そんな三十路男」
私が呆れて言うと、アルフォンスはショックを受けたようによろめいた。
そして、ギリリと歯噛みした。
「……分かりました。……貴女がそこまでその獣を優先するのなら」
彼はスッと背筋を伸ばし、冷徹な「仕事モード」の顔になった。
ただし、その内容は子供の喧嘩レベルだ。
「本日の夕食は、作りません」
「……はい?」
「私の手料理よりも、その猫の缶詰の方がお好きなようですからね。……今夜は、その猫にでも作ってもらってください」
彼はプイッと顔を背け、キッチンの方へと歩き出した。
「ストライキです。……私の機嫌が直るまで、ご飯も、おやつも、マッサージも、一切いたしません」
家事ボイコット宣言。
それは、生活能力ゼロの私にとって、死刑宣告に等しい。
美味しいご飯が食べられない?
ふかふかのお布団を用意してくれない?
そんなの、生きていけない。
いつもなら、ここで私が折れて「ごめんね」と言うところだ。
でも、今日の私は虫の居所が悪かった。
新婚生活で甘やかされすぎて、少し図に乗っていたのかもしれない。
それに、ノワールに罪はないのに「寄生生物」呼ばわりされたのが許せなかった。
「……ふーん。そう」
私は立ち上がり、ソファのクッションを掴んだ。
「分かったわよ。ご飯作ってくれないなら、いいわ」
「……ほう? 強がりを。貴女に何ができると……」
「その代わり!!」
私はクッションを、アルフォンスの背中に向かって投げつけた。
ポスッ。
軽い音がして、クッションが彼の背中に当たり、床に落ちた。
「……今夜は、一緒に寝てあげないから!!」
ピタリ。
アルフォンスの足が止まった。
「……はい?」
彼はスローモーションのように振り返った。
その顔から、さっきまでの傲慢さが抜け落ちている。
「……今、なんと?」
「聞こえなかった? 『寝室追放』よ!
あんたなんか、一人でソファで寝ればいいわ!
私はノワールと一緒に、あの広いベッドで寝るから!あんたの抱き枕なんか、もういらないんだからーッ!!」
私は叫び捨てると、ノワールを抱えて寝室へと走り、中から鍵をかけた。
ガチャン!!
重厚なロック音が、廊下に響き渡る。
「……エルカ? ……冗談、ですよね?」
扉の向こうから、アルフォンスの声が聞こえる。
少し震えている。
「開けてください。……話し合いましょう」
「やだ! ご飯作らない執事なんか知らない!」
「……ご飯は作ります! 前菜からデザートまでフルコースで作ります!」
「もう遅い! 私は怒ってるの!」
「エルカ! ……エルカァッ!!」
私は耳を塞ぎ、ベッドに飛び込んだ。
ふん。
たまにはお灸を据えてやらなきゃ。
いつも彼に管理されっぱなしなんだから、こういう時くらい私が主導権を握るんだ。
……そう思っていた。
最初の五分くらいは。
一時間後。
外は完全に暗くなり、雨音だけが響いている。
広いキングサイズベッドの真ん中で、私は膝を抱えていた。
隣にはノワールがいるけれど……。
「……寒い」
いつもなら、隣に人間湯たんぽのアルフォンスがいる。
彼が私を抱きしめ、最適な体温で温めてくれる。
彼の心音が聞こえて、彼の匂いがして、安心感に包まれて眠るのだ。
それが、ない。
広いベッドが、こんなに冷たくて寂しい場所だなんて知らなかった。
「……お腹、すいたな……」
アルフォンスの作る、絶品のシチューの味が恋しい。
彼が淹れてくれる、蜂蜜たっぷりのミルクティーが飲みたい。
そして何より……彼に「愛してる」って囁かれながら、頭を撫でてほしい。
(……言いすぎたかな)
後悔が押し寄せてくる。
彼があんなに嫉妬したのは、私を愛しすぎているからだ。
それを知っているのに、拒絶してしまった。
もし、彼が本当に拗ねて、どこかに行ってしまったら?
「……アルフォンス……」
不安になって、私はそっとベッドから降りた。
ドアノブに手をかける。
鍵を開け、少しだけ隙間を開けて外を覗く。
廊下には、誰もいない。
リビングの方も、静まり返っている。
電気が消えている。
(……うそ。本当に出ていっちゃったの?)
心臓がドクンと跳ねた。
どうしよう。
私、一人ぼっちになっちゃった。
「……アルフォンスぅ……」
涙目になりながら、リビングへと走った。
暗い部屋。雨の音。
雷が鳴り、窓ガラスがガタガタと揺れる。
「ひっ……!」
怖い。
一人は怖い。
私はソファの陰にうずくまり、名前を呼ぼうとした。
「……ここにいますよ」
すぐそばから、声がした。
「……え?」
ソファの向こう側。
床に、アルフォンスが座り込んでいた。
膝を抱え、まるで捨てられた子犬のように小さくなって。
いつもの完璧なオーラは消え失せ、どんよりとした空気を纏っている。
「……アルフォンス?」
「……エルカ」
彼が顔を上げた。
眼鏡がズレている。
そして、そのアイスブルーの瞳は……赤く充血し、涙で潤んでいた。
「……開けてくれないかと、思いました」
「……ずっと、そこにいたの?」
「はい。……貴女のいないベッドなど、私には氷の棺桶と同じですから」
彼はよろよろと立ち上がると、いきなりその場に土下座した。
フローリングの床に、額を擦り付ける勢いで。
「申し訳ありませんでしたァァァッ!!」
「えっ、ちょっ、アルフォンス!?」
「私が愚かでした! 傲慢でした! 嫉妬に狂った醜い男でした!!猫ごときに嫉妬し、あろうことか主人の食事を人質に取るなど……執事失格! 夫失格です!!万死に値する! いえ、一万回死んでも償いきれません!!」
彼は床に頭を打ち付けながら、早口で懺悔を始めた。
「貴女に『一緒に寝ない』と言われた時……私の世界から色が消えました。
心臓が停止し、呼吸ができなくなりました。
貴女の体温を感じられない夜が、こんなにも恐ろしいとは……!
ご飯は作ります! 掃除もします! 洗濯もします!
だから……だからどうか、寝室追放だけはご勘弁くださいィィィッ!!」
「……あ、アルフォンス、顔上げて……!」
必死すぎる。
あまりの必死さに、怒りなんて吹き飛んでしまった。
この最強の執事兼夫が、ただ「私と一緒に寝たい」というだけで、ここまでプライドをかなぐり捨てて泣いているのだ。
「……もう、いいよ。私も悪かったから」
「い、いいえ! 貴女は悪くありません! 全ては私の器の小ささが招いたことです!」
彼は私の足元に縋り付き、ルームシューズにキスをした。
「……許してくださいますか? また、私のご飯を食べてくださいますか? ……私の腕の中で、眠ってくださいますか?」
上目遣いで見上げてくる瞳。
捨て犬なんてレベルじゃない。捨て執事だ。
こんなの、断れるわけがない。
「うん。食べる。一緒に寝る」
「……あぁ、エルカ……!!」
彼は感極まって私に飛びつき、強く抱きしめた。
潰れそうなほどの力。
彼の体温と、レモンと石鹸の匂いが私を包み込む。
ああ、これだ。
この重さと温もりがないと、私はもうダメなんだ。
「……お腹、すいた」
「直ちに! 今すぐ世界一美味しいディナーをご用意します!!」
彼はバネ仕掛けのように飛び起き、キッチンへとダッシュした。
その背中からは、「歓喜」という文字が湯気のように立ち上っていた。
そして、その夜。
仲直りの印にと振る舞われた豪華フルコース(キャビアとフォアグラが出てきた)でお腹を満たした後。
私たちは寝室のベッドに入っていた。
「……んぅ……」
私はアルフォンスの腕の中にすっぽりと収まり、
彼の胸板に頬を寄せていた。
温かい。落ち着く。
やっぱり、ここが私の特等席だ。
「……エルカ」
「なぁに?」
アルフォンスが、私の髪を梳きながら低く囁いた。
「ノワールは、足元です」
「え?」
見ると、いつもは私の顔の横で寝ているノワールが、今日はベッドの足元、毛布の上に追いやられて丸くなっていた。
「……どうして? こっちおいでよ、ノワール」
「ダメです」
アルフォンスが、私を抱きしめる腕に力を込めた。
「……今夜は、ダメです。ここから先は、聖域です」
彼の手が、私のパジャマの中に滑り込んでくる。
熱い掌が、私の腰を撫で、背中を這い上がる。
「……今日は貴女を失う恐怖で、寿命が縮みました。……その分、補給させていただかなければ」
「……補給って……」
「私の成分で、貴女を上書きするのです」
彼は私の首筋に噛みついた。
甘噛みじゃない。所有印を刻むような、少し強めのキス。
「……っ、アルフォンス……」
「貴女が可愛がるのは、私だけでいい。……貴女のキスも、撫でる手も、甘える声も……猫には渡しません」
彼のアイスブルーの瞳が、暗闇の中で妖しく光る。
嫉妬深い夫は、まだ完全には機嫌が直っていなかったらしい。
いや、これは機嫌が悪いんじゃない。
独占欲に火がついているのだ。
「……あの猫が見ていますよ」
「えっ、ノワール起きてる?」
「関係ありません。……見せつけてやりましょう。この家の主人が誰で、貴女が誰のものなのかを」
「……んッ……ぁ……」
彼は私の唇を塞ぎ、深い口づけを落とした。
足元のノワールが、呆れたように「ニャー」と鳴いて、ベッドから降りていく気配がした。
「……邪魔者は消えました」
アルフォンスはニヤリと笑い、私の体を組み敷いた。
「さあ、エルカ。……仲直りの儀式を始めましょう。家事をボイコットした罰として……今夜は貴女が気絶するまで、奉仕させていただきますから」
「……罰を受けるのは、私の方じゃない?」
「連帯責任です。……夫婦ですからね」
甘い屁理屈と共に、部屋の明かりが消された。
雨音はもう聞こえない。
聞こえるのは、私たち二人の熱い吐息と、愛を囁く言葉だけ。
ライバルの黒猫が部屋の外で「やってられない」と欠伸をする中、私たちの仁義なき嫉妬戦争は、とろとろに甘い敗戦処理によって幕を閉じたのだった。
読んでくださってありがとうございます。
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