第111話「蜜月の朝、出汁の香りと甘えん坊な新妻」
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小鳥のさえずりと、カーテンの隙間から差し込む柔らかな光。
ナラ・エンの森に、穏やかな朝が訪れていた。
「……んぅ……」
天蓋付きのキングサイズベッドの中、私は重い瞼をこすりながら目を覚ました。
体中が軋むように重い。けれど、それは嫌な痛みではなく、全身の筋肉が甘く解されたような、
蜂蜜に漬け込まれたような気怠さだ。
昨夜の記憶が、波のように押し寄せてくる。
正座から始まった、あの激しくて、熱くて、とろけるような初夜。
『朝まで』という宣言通り、アルフォンスは本当に夜明け前まで、執拗に、そして愛おしそうに私を愛し抜いたのだ。
「……腰、抜けたかも……」
私がベッドの上で芋虫のようにモゴモゴしていると、寝室の扉の向こうから、普段とは違う香りが漂ってきた。
いつもの紅茶や焼き立てパンの香りではない。
もっと香ばしくて、どこか懐かしい……「海」と「大豆」の香り?
「おはようございます、エルカ」
タイミングよく、銀のワゴンを押してアルフォンスが入ってきた。
彼は今日も完璧な身だしなみだ。昨夜の乱れた姿が嘘のように、パリッとしたシャツに、その上から清潔なエプロンをつけている。
ただ一つ違うのは、その表情が、いつもの「冷徹な執事」ではなく、完全に「満たされた夫」のデレ顔だということだ。
「目覚めはいかがですか? ……昨夜は少々、張り切りすぎましたね」
「……少々どころじゃないわよ。あんたの体力どうなってるの」
「愛の力です」
彼は涼しい顔で即答し、ベッドサイドにワゴンを寄せた。
「さて、本日の朝食ですが。……昨夜、貴女が寝言で『和食が食べたい……』と呟いていたので、ご用意いたしました」
「えっ、和食?」
ワゴンの上の銀の蓋が開けられる。
ふわぁっ……!
白い湯気と共に現れたのは、古都ナラ・エンの伝統的な朝食セットだった。
土鍋で炊かれた、宝石のように輝く白米。
脂の乗った厚切りの鮭の塩焼き。
森で採れたキノコと豆腐がたっぷり入った、熱々のお味噌汁。
そして、黄金色に輝く、プルップルの出汁巻き卵。
「うわぁ……! すごい、完璧な和食……!」
「当然です。お米は私が品種改良した『極甘・堕落米』。一度食べれば脳が溶けるほどの糖度と旨味を持っています。お水は早朝、裏山の湧き水を汲んできました。……さあ、どうぞ」
アルフォンスは私を抱き起こし、背中にふかふかのクッションを当ててくれた。
膝の上にトレイを置かれると、出汁の香りが鼻孔をくすぐり、空腹感が一気に刺激される。
「いただきまーす」
私はワクワクしながら、お箸を手に取った。
まずは、あの大好きな出汁巻き卵から。
プルプル……カチャ、カチャ。
「……あれ?」
お箸を持つ手が、小刻みに震えて力が入らない。
卵を摘もうとしても、箸先が合わずにツルンと滑り落ちてしまう。
昨夜、アルフォンスに手を握られ、指を絡ませられすぎたせいか、あるいは単に体力を使い果たしたせいか。指先が思うように動かないのだ。
「……持てない」
「おや。……やはり、昨晩の『指先への愛撫』が執拗すぎましたか。あるいは、シーツを掴みすぎて握力が低下しているのか……」
アルフォンスが、わざとらしく困った顔をする。
その目は笑っている。いや、むしろ「チャンス!」と言わんばかりに爛々と輝いている。
「もー。あんたのせいなんだからね」
私は悔し紛れに睨みつけたが、お腹は空いているし、目の前の卵は美味しそうだ。
仕方ない。
私は「魔女」としてのプライドを捨て、「新妻」としての特権を行使することにした。
私は上目遣いで、エプロン姿の彼を見上げた。
「ねえ、アルフォンス」
「はい」
「……食べさせて?」
私が口を開けて「あーん」のポーズをすると、アルフォンスの動きが止まった。
彼の眼鏡が、カチャリと音を立ててズレる。
「……今、なんと?」
「だから、手が動かないの! あんたが責任とって、食べさせてよ」
「……ッ!!」
アルフォンスが口元を押さえ、天を仰いだ。
魔力のパスを通じて、彼の脳内の絶叫が聞こえてきそうだ。
(神よ! 新妻の「あーん」おねだり! この破壊力は戦略級魔法に匹敵する! 生きててよかった、執事やっててよかった!!)
彼は深呼吸をして心を落ち着かせると、恭しくお箸を受け取った。
「……承知いたしました、奥様。この私が、貴女の手足となり、口となりましょう」
彼は震える手で出汁巻き卵を一口大に切り、箸で持ち上げた。
ぷるん、と卵が揺れる。断面からは、溢れんばかりの出汁が染み出している。
「まずは卵からですね。……熱くないか確認します」
彼は自分の唇に卵を近づけ、フーフーと息を吹きかけた。
そして、ちょっとだけ舌先で温度を確かめる。
……それ、間接キスじゃない?
「よし、適温です。さあ、あーん」
「あーん」
パクッ。
口の中に、出汁の優しい風味と、卵の甘みがじゅわっと広がる。
温かくて、ふわふわで、涙が出るほど美味しい。
「……んん〜っ! 美味しい……!」
「そうですか。……貴女のその笑顔が、私にとって最高の調味料です」
「次、ご飯!」
「はい。……このお米は、一粒一粒が立っていますよ」
彼は白いご飯を一口分すくい、その上に小さくほぐした焼き鮭を乗せた。
最強のコンビネーションだ。
「ほら、お口を開けて」
「あーん……」
もぐもぐ。
お米の甘みと、鮭の塩気が絶妙に絡み合う。
皮はパリパリ、身はふっくら。
私が咀嚼している間、アルフォンスはずっと私の顔を見つめている。
まるで、世界で一番尊い生き物の食事風景を鑑賞するかのように。
「美味しいですか?」
「うん、すっごく美味しい」
「……貴女の唇についたお米になりたい」
「……なんか変態なこと言わなかった?」
「気のせいです。さあ、次は熱々のお味噌汁ですよ」
彼はお椀を手に取り、私の口元まで運んでくれた。
私は小鳥のように、彼の手から直接スープを啜る。
キノコの旨味が溶け出したお味噌汁が、疲れた体に染み渡っていく。
「ふぅ……あったまるぅ……」
「……可愛い」
アルフォンスがポツリと漏らした。
「無防備に口を開けて、私の与えるものを全て受け入れる……。ああ、なんと背徳的で愛らしい姿なのでしょう」
「……ねえ、食事中に変な解説入れないでくれる?」
「失礼しました。あまりに貴女が可愛いので、つい」
彼は悪びれもせず、今度は焼き鮭の皮の部分を丁寧に取ってくれた。
「ここは一番脂が乗っているところです。……どうぞ」
「あーん」
パクッ。
私の唇の端に、少しだけ脂がついた。
私が舌で舐め取ろうとすると、アルフォンスの指がスッと伸びてきた。
「……動かないで」
彼の親指が、私の唇をなぞる。
そして、ついた脂と汚れを、優しく、いやらしく拭い取った。
そして――その指を、自分の口に含んで舐めた。
「……ッ!?」
「……ん。鮭の脂と、貴女の唾液……。極上のソースですね」
「……き、汚いっ!」
「汚くありません。貴女の全ては、私にとって聖水であり聖油です」
彼は妖しく微笑み、またご飯をすくった。
「さあ、もっと食べて。……昨夜、あれだけ私を受け入れたのです。栄養を補給しなければ、体が持ちませんよ?」
「……うぅ」
恥ずかしい。でも、美味しい。
彼はまるで雛鳥に餌を与える親鳥のように、あるいは宝物を磨く職人のように、甲斐甲斐しく私の口に食事を運んでくれる。
私が一口食べるたびに、彼は「いい子だ」「もっと大きく口を開けて」「ああ、喉が動くのが見える」とブツブツ呟いている。
……重い。でも、幸せだ。
ズボラな魔女と、世話焼きの執事。
昔から変わらない光景だけど、「夫婦」になった今のこの時間は、とびきり甘くて特別だった。
完食。
お腹いっぱいになった私は、幸福感で満たされていた。
体も温まり、心も満タンだ。
「……ごちそうさまでした。……ありがとう、アルフォンス」
「お粗末様でした。……貴女の胃袋を満たすことができ、光栄です」
彼がトレイを片付けようとした時、私は彼のエプロンを掴んで引き寄せた。
「……アルフォンス」
「はい?」
私はベッドの上で少し背伸びをした。
こんなに尽くしてくれた夫に、言葉だけじゃ足りない。
「……お礼」
チュッ。
私は彼の頬に、軽く、でもしっかりと音を立ててキスをした。
不意打ちの、感謝のしるし。
「……えっ」
アルフォンスが固まった。
彼の手には、まだ空になったお茶碗とお箸が握られている。
彼は自分の頬に手を当てようとして、手がふさがっていることに気づき、そしてまた私を見た。
「……エ、エルカ……?」
「美味しかったよ。……大好き、旦那様」
私がニコッと笑い、上目遣いで彼を見つめた、
その瞬間だった。
バキィッ!!!!
盛大な破壊音が、静かな寝室に響き渡った。
「……あ」
見ると、アルフォンスが握りしめていたお箸が、見事に真っ二つにへし折れていた。
最高級の黒檀で作られた頑丈なお箸が、彼の握力というか暴走した愛の力によって粉砕されたのだ。
お茶碗にも、ピキピキと亀裂が入っている。
「……あ、アルフォンス? お箸が……お茶碗が……」
「……申し訳ありません」
彼は折れたお箸を震える手でトレイに置いた。
その顔は、茹で上がったタコのように真っ赤で、眼鏡は湯気で曇っていた。
肩が小刻みに震えている。
「……不意打ちです。『新妻からのキス』と『大好き』、さらに『旦那様』のコンボ攻撃は……私の耐久限界を超えました」
「耐久力、低すぎない?」
「うるさいです! ……ああ、もう! 我慢できるはずがない!」
彼は突然、トレイをサイドテーブルに乱暴に置き、私をベッドに押し倒した。
ドサッ!!
「……っ、きゃっ!?」
「責任、取っていただきますよ?」
彼のアイスブルーの瞳が、昨夜と同じ――いや、それ以上に飢えた「獣」の色に変わっている。
エプロン姿のまま、彼は私に覆いかぶさった。
「……お腹はいっぱいになりましたね?」
「う、うん」
「和食も堪能しましたね?」
「したけど……!」
「では、次は『デザート』の時間です」
彼の指が、私のネグリジェの紐に掛かる。
熱い吐息が、耳元にかかる。
「……え、ちょっと待って、今は朝……!」
「関係ありません。貴女が可愛すぎるのが悪いのです」
彼は私の首筋に顔を埋め、深々と息を吸い込んだ。
「……鮭の香りもいいですが……やはり、貴女自身の香りが一番食欲をそそります」
「……あ、あんた、さっき腰が痛いって言ったの聞いてなかったのーッ!?」
私の抗議は、甘く、熱いキスによって封じられた。
出汁の香りが残る寝室で、新婚夫婦の甘くて騒がしい「二回戦」のゴングが、高らかに鳴り響いたのだった。
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