第109話「古都に誓う、二人だけの祝言」
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ナラ・エンの森において、「霧」は神の吐息と呼ばれている。
朝霧が立ち込める静寂の中。
私たちは、森の最深部にある聖域――樹齢数千年を誇る『神木』の前へと、ゆっくりと足を進めていた。
「……重い」
「我慢してください、エルカ。美しさとは、物理的な重量に比例するのです」
私が呟くと、隣を歩くアルフォンスが、どこか誇らしげに、そして蕩けるように甘く微笑んだ。
今日の私は、彼が全精力を傾けて制作した、この世に二つとない婚礼衣装を纏っている。
東洋の「白無垢」と呼ばれる清廉な絹織物と、西洋の「ウェディングドレス」の優美なレースを融合させた、和洋折衷の極致。
何層にも重ねられた純白のシルクは、歩くたびに真珠のような光沢を放ち、長いトレーンが霧の地面を滑るように流れていく。
頭には、角隠しを模した繊細なベール。
その隙間から覗く私の黒髪は、彼の手によって椿油で磨き上げられ、濡れたような艶を放っていた。
「……でも、本当に誰も呼ばなくてよかったの?」
「愚問です」
アルフォンスは、純白のタキシード(これも着物の羽織のような意匠が凝らされている)の襟を正し、きっぱりと言い切った。
「貴女の晴れ姿を、有象無象の他人の眼球に焼き付けさせるなど、言語道断。……貴女のその神々しい美しさは、私だけの網膜に保存されるべき『秘宝』なのですから」
「……相変わらずね」
「ええ。それに……神木の前での誓いは、魂の契約。立会人は精霊と、身内だけで十分です」
彼の視線の先には、先導するように尻尾を立てて歩く黒猫のノワールと、霧の中から静かにこちらを見守る数頭の神鹿たちの姿があった。
静かだ。
鳥の声さえ遠慮するように潜められた、白と緑だけの世界。
聞こえるのは、衣擦れの音と、お互いの鼓動だけ。
やがて、霧が晴れた。
目の前に、天を衝くほどの巨木が現れた。
苔むした根は大地を鷲掴みにし、枝葉は空を覆い尽くす。
その圧倒的な存在感の前に、私たちは足を止めた。
「ここが、式場」
「はい。ナラ・エンの精霊たちが祝福する、この世で最も清浄な場所です」
アルフォンスは私の前に進み出ると、恭しく跪き、右手で私の左手を取った。
そこには、かつて彼が「決死の覚悟」で贈ってくれたプラチナの指輪――『永遠の服従の環』が嵌められている。
「……覚えていますか、エルカ。あの夕暮れのバルコニーで、私がこの指輪を贈った時のことを」
「忘れるわけないでしょ。……『一生、管理下に置く』なんてプロポーズ、あんたくらいしかしないわよ」
私が苦笑すると、彼は愛おしそうに指輪を親指でなぞった。
「あの時……私は恐怖していました。貴女を失うことを。私が壊れても、貴女だけは守り抜くことしか考えていなかった。……だから、これは一方的な『守護』と『束縛』の首輪でした」
彼の声が、微かに震える。
かつての悲壮な決意が、今は温かい愛おしさに変わっている。
「ですが、今は違います」
「……え?」
アルフォンスは懐から、小さなベルベットの箱を取り出した。
パカッ。
中に入っていたのは、私の指輪と対になるデザインの、一回り大きなプラチナの指輪だった。
「あんたの指輪?」
「はい。……私の魂の半身を封じ込めた、もう一つの指輪です」
彼はその指輪を摘み上げると、迷うことなく自分の左手の薬指に通した。
その瞬間。
キィィィィン……。
甲高い共鳴音が響き渡った。
私の指輪と、彼の指輪。
二つのプラチナが同時に青白い光を放ち、目に見えない光の糸で結ばれたのだ。
「……これは?」
「回路の接続です」
アルフォンスは立ち上がり、光で繋がれた左手を私の左手に重ね合わせた。
「これまでは、私の魔力を貴女に送り、貴女を守るだけの一方通行でした。……ですが、これからは違います」
彼は私のアメジスト色の瞳を、真っ直ぐに見つめた。
そのアイスブルーの瞳には、かつてのような悲壮感はない。
あるのは、燃えるような情熱と、揺るぎない未来への意志。
「私の命も、魔力も、感情も……すべて貴女と共有します。貴女が痛ければ私も痛い。貴女が幸せなら、私も満たされる。これは、二つの魂を完全に融合させる『共依存の契約』です」
「共依存の……契約」
「ええ。……もう、一方的に守られるだけのお人形ではいてくれませんよね? 『賢者様』?」
彼は悪戯っぽく微笑んだ。
断崖で私が彼を守ったこと。それを認めてくれているのだ。
「……誓いの言葉を」
アルフォンスが厳かに宣言する。
神父はいない。彼が新郎であり、進行役であり、すべてだ。
「私、アルフォンス・クラインは誓います。
病める時も、健やかなる時も、たとえ世界が滅びようとも。
貴女の髪の一本、爪の先、細胞の一つに至るまで、永遠に美しく磨き上げ、管理し、愛し抜くことを。
……貴女が『もうやめて』と泣いて懇願しても、決して離さないことを」
「ふふっ。重い、重すぎるわよ」
私は涙がこぼれそうになるのを堪えて、彼の瞳を見つめ返した。
私の番だ。
深呼吸をする。
胸の奥から溢れてくるのは、文句と、感謝と、どうしようもない愛。
「私、エルカ・シュヴァルツは誓います」
声が少し震えた。
「……正直、あんたはやりすぎよ。
潔癖すぎるし、過保護すぎるし、私の自由なんてこれっぽっちもない。
私のゴミ屋敷を勝手にピカピカにして、勝手に美味しいご飯で餌付けして……ズボラな私が、あんたなしじゃ服も選べない身体にされちゃった」
アルフォンスが、嬉しそうに目を細める。
「……でもね。
そんな重たい愛が心地いいって思っちゃうくらい……私、あんたに毒されてるの」
私は一歩、彼に近づいた。
「もう、綺麗なだけの部屋じゃ落ち着かない。
あんたがいない清潔さなんて、ただの冷たい空間よ。
……責任、取ってよね」
私は彼の胸に手を当て、涙ぐみながら睨みつけた。
「私をここまでダメ人間にしたんだから……最期まで面倒見なさいよ。
……あんたがどんなに爺さんになって、ボケて私の名前を忘れても……私が魔法で思い出させてあげる。
だから……死んでも、私の執事で、私の夫でいなさいよ!」
「……ッ、上等です……!」
アルフォンスの顔が、歓喜にくしゃりと歪んだ。
彼は私のベールを、震える手でゆっくりと持ち上げた。
朝霧の中、露わになった私の顔を見て、彼は息を呑む。
「……ああ……。美しい……」
「……あんたもね。……世界一、格好いい執事よ」
私たちは、吸い寄せられるように顔を近づけた。
神木から降り注ぐ木漏れ日が、二人を祝福するようにスポットライトとなって降り注ぐ。
ノワールが「にゃあ」と小さく鳴いた。
唇が触れ合う。
あの夕暮れのバルコニーで、彼が悲壮な覚悟を込めて指輪に落としたキスとは違う。
冷たい金属越しではない――温かくて、柔らかくて、生きている人間の唇の感触。
「……ん……」
触れるだけの、優しい口づけ。
でも、その一瞬で、世界が白く弾けたような衝撃が走った。
彼の体温が、唇を通して私の芯まで溶かしていく。
甘い。
お菓子よりも、どんな魔法薬よりも、甘くて痺れる。
アルフォンスの長い睫毛が震えているのが見えた。
彼もまた、この瞬間の尊さに震えているのだ。
指輪から流れ込んでくる彼の魔力が、私の全身を駆け巡り、魂が共鳴して歌い出すような多幸感を与えてくれる。
(ああ、繋がってる……)
物理的な距離だけじゃない。
心も、魔力も、命も。
私たちは今、本当の意味で「一つ」になったのだ。
時間が止まったかのような、永遠に続く数秒間。
ゆっくりと唇が離れると、アルフォンスは額を私の額に押し当て、熱っぽい瞳で私を見つめた。
「エルカ。愛しています。私の、女神」
「私も愛してる。私の、重たい変態執事」
「ふふっ。最高の褒め言葉です」
彼は幸せそうに笑うと、私を軽々と――重厚な白無垢ごと――お姫様抱っこした。
「さあ、帰りましょう。私たちの城へ」
「……え、もう帰るの?」
「当然です。誓いは済みました。……次は、初夜の儀式が待っていますから」
彼のアイスブルーの瞳が、妖しく、そしてねっとりと光った。
「この衣装……脱がせるのに、三時間はかかりそうです。一枚一枚、貴女の肌を愛でながら、朝までたっぷりと時間をかけて解かせていただきますよ?……もう、神木の前でのような『手加減』はいたしません」
「……うわぁ」
「覚悟してください。……正式な夫婦になったのですから」
「……お手柔らかにお願いします、旦那様」
私が赤い顔で呟くと、彼は世界一幸せそうな顔で笑い、霧の森を駆け出した。
風に舞う純白のベール。
森の精霊たちと、呆れ顔の黒猫に見送られて。
ゴミ屋敷で膝を抱えていた孤独な魔女は、完璧で重すぎる執事に磨き上げられ、今、永遠の愛を手に入れた。
「汚らわしい」から始まった私たちの恋は、こうして「貴女なしでは生きられない」という、最高に甘くて重いハッピーエンドへと辿り着いたのだった。
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