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第107話「雨宿りの来訪者、もてなしの毒」

◆ 更新スケジュール ◆


この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。

「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。

ナラ・エンの古都は、時折、空に穴が空いたかのような激しい豪雨に見舞われる。

バケツをひっくり返したような雨音が、白い双塔の外壁を叩き続けていた。


「……すごい雨ね」


塔の最上階にあるリビング。

私は暖炉の前のソファで、膝の上に黒猫のノワールを乗せながら、窓の外の灰色の景色を眺めていた。

室内は、アルフォンスが調整した完璧な空調のおかげで快適そのものだ。


「ええ。湿度が上がるとカビの胞子が活性化します。結界の除湿強度を最大に設定しておきました」


キッチンから、芳醇な紅茶の香りと共にアルフォンスが現れた。

今日も完璧な燕尾服姿。銀髪は一筋の乱れもなく、眼鏡の奥のアイスブルーの瞳は涼しげだ。


「さあ、エルカ。特製のロイヤルミルクティーです。蜂蜜を多めにしておきました」


「ありがとう」


彼がソーサーを置く動作は、舞踏会のように優雅だ。

こんな嵐の日でも、私たちの聖域は平和で、甘くて、閉じてい――


ピンポーン。


不意に、来客通知用の魔導クリスタルが赤い光を点滅させた。


「……チッ」


アルフォンスの舌打ちが響く。

彼は優雅な笑顔を一瞬で消し去り、ゴミを見るような目でクリスタルを睨みつけた。


「こんな嵐の日に、非常識極まりない。……泥と雨水を撒き散らす害獣でしょう。無視します」


「でも、遭難した人かも……」


私が映像を確認すると、ずぶ濡れになった若い騎士が映っていた。どこぞの国の旅の騎士だろうか。

寒さでガタガタと震え、助けを求めている。


「お願い、アルフォンス。一晩泊めるだけでいいから。……ね?」


私は彼の袖をキュッと掴んで、上目遣いをした。


「…………ッッ」


アルフォンスの眼鏡がズレた。

「潔癖症」対「妻への愛」。数秒のデッドヒートの末、彼は敗北の溜息をついた。


「……承知いたしました。ただし、私の『入室管理プロトコル』に完全に従っていただきます。……チリ一つ、菌一つ、持ち込ませません」



ガチャリ。

扉が開くと、若い騎士カイルは救われたような顔で崩れ落ちそうになった。


「あ、ありがとうござい……」


「止まれ」


氷の刃のような声。

仁王立ちするアルフォンスが、絶対零度の瞳で彼を見下ろしている。


「貴様は現在、高濃度の汚染物質だ。その足で、私の妻が歩く床を踏むことは許さん」


「え……?」


「直ちに『浄化』する」


パチン。アルフォンスが指を鳴らした瞬間。


ドオォォォォォッ!!


「うわああああああッ!?」


カイルの足元から、洗濯機の中のような超高速回転の竜巻が発生した。

泥水が遠心力で弾き飛ばされ、服の繊維の奥の汚れが分解され、髪の毛の一本一本までが強制的にドライされる。


数秒後。

そこには、服のシワ一つなくプレスされ、髪が不自然にフワフワにセットされたカイルが呆然と立っていた。


「……最低限の消毒は完了した。……風呂場へ案内する」


「……あ、あの、自分一人で入れますから……!」


バスルームから、カイルの悲鳴に近い声が聞こえてくる。

脱衣所まで様子を見に来た私は、ドアの隙間から中の惨状を覗き見た。


湯気の向こうで、アルフォンスが袖をまくり、デッキブラシのような硬いブラシを構えていた。


「遠慮はいりません。お客様の背中は、自分では洗えませんから」


「い、痛い! 皮が剥けるぅぅッ!」


「垢です。不潔な角質が剥がれ落ちているだけです」


ゴシゴシゴシゴシッ!!

容赦ないブラッシングの音が響く。


「お湯! お湯が熱すぎます! 煮える!」


「摂氏四十八度。殺菌に最適な温度設定です。……さあ、頭まで潜ってください。毛根の脂まで根絶やしにします」


「ぶくぶくぶく……ッ!?」


数分後。

茹で上がったタコのように真っ赤になり、ふらふらになったカイルが浴室から出てきた。

その肌は、悲しいほどピカピカに磨き上げられていた。


そして、夕食の時間。

ダイニングルームには、アルフォンスが腕を振るった最高級のフルコースが並んでいた。

だが、カイルの顔色は悪い。


「……あの、執事さん……? ずっとそこに……?」


カイルの背後に、アルフォンスが直立不動で立っている。無言で。瞬き一つせず。

アイスブルーの瞳で、カイルの後頭部を凝視し続けているのだ。


「何か? お客様のグラスが空くのを待機しております」


「い、いえっ! いただきますっ!」


カイルが震える手でナイフを持ち、ローストビーフを切ろうとした。

カチャ、とナイフが皿に当たる音がした瞬間。


シュバッ!!


「ひぃっ!?」


音速の動きでアルフォンスの手が伸びた。

彼の手には、手術用のメスのように鋭利なステーキナイフが握られている。


「……手際が悪い」


「えっ?」


「肉の繊維を押し潰しています。それでは食感が損なわれる」


キランッ!

銀閃が走った。

目にも止まらぬ速さでナイフが振るわれ、カイルの皿の上の肉が、定規で測ったような完全な1.5センチ角のサイコロ状に解体された。


「……どうぞ。これなら、咀嚼時の飛沫も最小限で済みます」


「あ、ありがとうございま……」


カイルがフォークで肉を口に運ぶ。

その一口を、アルフォンスは至近距離からじっと見つめている。


「……味は?」


「お、美味しいです……!」


「当然です。……もし不味いと言ったら、舌を消毒液に漬け込むところでした」


カイルが咳き込んだ。

口の端に、ソースがほんの少しついた。


バッ!!


「動くな」


「え?」


「汚れている」


アルフォンスはナプキンを鷲掴みにすると、親の敵のような形相でカイルの口元を拭った。

グイッ、グイッ!

拭くというより、摩擦で皮膚を削り取るような勢いだ。


「汚い。……私の用意した空間を、貴様の唾液とソースで汚染するな」


「い、痛い……!」


「アルフォンス! お客さんをいじめないで!」


私が見かねて声をかけると、彼はスッと優雅な執事の顔に戻った。


「失礼しました、エルカ様。……少々、害虫駆除の癖が出てしまいました」


「害虫って……人間よ」


私はため息をつき、カイルに微笑みかけた。


「ごめんなさいね。この人、極度の潔癖症で……悪い人じゃないのよ」


「あ、いえ……! 奥様のような美しい方にお仕えしているのですから、その、完璧主義なのも納得です……」


カイルが頬を赤らめて私を見た。


ピキッ。


室内の気温が、体感で五度下がった。

アルフォンスの眼鏡が、不気味に光る。


(……ほう? その泥のついた眼球で、私のエルカを見たな? ……『美しい』? 貴様ごときの語彙で、私の女神を形容するなど……眼球をくり抜いて洗浄してやろうか?)


殺意の波動を感じたのか、カイルがビクリと震えた。


「……お客様。喉が渇いたでしょう」


アルフォンスは無言でワインボトルを手に取り、カイルのグラスに注ぎ始めた。

トクトクトク……。

グラスの縁ギリギリ、表面張力で盛り上がる限界まで。


「さあ、どうぞ。……一滴もこぼさず、飲み干してくださいね? もしテーブルクロスにシミ一つ作ったら……」


彼は耳元で、甘く、恐ろしい声で囁いた。


「……貴様の血で、クロス全体を赤く染め直しますよ?」


「ひぃぃッ!!」


カイルは涙目でグラスを両手で持ち、震えながらワインを啜った。

それはもはや食事ではない。拷問だった。


食事の後、カイルは逃げるように客室へと引き上げた。

アルフォンスが用意した客室は、鉄格子の……

じゃなかった、頑丈な防犯結界が施された部屋だ。


「……やりすぎよ、アルフォンス」


リビングに戻った私は、片付けをする彼に声をかけた。


「何のことでしょう。最高のおもてなし(除菌)を提供しましたが」


「あの子、泣いてたわよ」


「……さて、エルカ」


彼は手袋を外し、私に近づいてきた。

その瞳から冷徹さが消え、甘く、粘着質な色が浮かび上がる。


「あの男が座っていた椅子、使った食器、歩いた廊下のカーペット……。全て焼却処分してもよろしいですか?」


「ダメに決まってるでしょ! まだ使えるのに!」


「ですが、他のオスの匂いがつきました。……生理的に無理です」


彼は本気で嫌そうな顔をして、私の腰を抱き寄せた。そして、私の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込む。


「……はぁ。……補給が必要です」


「補給?」


「ええ。あの異物のせいで、私の『エルカ成分』が不足し、ストレス値が限界を超えました。……浄化してください」


彼は私の耳元に唇を寄せ、甘噛みした。


「……今夜は、寝かせませんよ? あの男が壁の向こうで震えている間に……貴女が誰のものか、たっぷりと教えて差し上げます」


「……っ、アルフォンス……」


雨音にかき消されるように、私たちの夜は更けていった。


翌朝。

雨は上がり、嘘のような晴天が広がっていた。


「あ、ありがとうございましたぁぁぁッ!!」


カイルは玄関を出るなり、脱兎のごとく森へと走り去っていった。

何度も後ろを振り返り、アルフォンスの姿がないことを確認しながら。

その顔は、「魔王城から生還した勇者」のように引きつっていた。


「……行っちゃったわね」


私はバルコニーからその背中を見送った。


「ええ。二度と来ないことを祈ります」


背後から、アルフォンスが私を抱きしめた。

その手には、まだ微かに煙が上がっている「何か」の灰が握られている。

……あ、やっぱりカイルが座ってた椅子、燃やしたな。


「アルフォンス。椅子、燃やしたでしょ」


「……殺菌です。熱処理が最も確実ですので」


彼は悪びれもせず、私の髪にキスをした。


「私の城に、貴女以外の痕跡はいりません。ここは、私と貴女、二人だけの世界なのですから」


私は苦笑して、彼の腕に身を預けた。

この重すぎる愛と、過剰すぎる潔癖症。

それは時々怖いけれど、どうしようもなく私を安心させる「劇薬」のような優しさだった。


「じゃあ、新しい椅子、買いに行かなきゃね」


「ええ。デートですね。今度は、誰にも座らせない特注品を作りましょう」


森の朝露が輝く中、私たちは微笑み合った。

雨宿りの来訪者は去り、また平和で狂った日常が戻ってきたのだ。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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