第107話「雨宿りの来訪者、もてなしの毒」
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ナラ・エンの古都は、時折、空に穴が空いたかのような激しい豪雨に見舞われる。
バケツをひっくり返したような雨音が、白い双塔の外壁を叩き続けていた。
「……すごい雨ね」
塔の最上階にあるリビング。
私は暖炉の前のソファで、膝の上に黒猫のノワールを乗せながら、窓の外の灰色の景色を眺めていた。
室内は、アルフォンスが調整した完璧な空調のおかげで快適そのものだ。
「ええ。湿度が上がるとカビの胞子が活性化します。結界の除湿強度を最大に設定しておきました」
キッチンから、芳醇な紅茶の香りと共にアルフォンスが現れた。
今日も完璧な燕尾服姿。銀髪は一筋の乱れもなく、眼鏡の奥のアイスブルーの瞳は涼しげだ。
「さあ、エルカ。特製のロイヤルミルクティーです。蜂蜜を多めにしておきました」
「ありがとう」
彼がソーサーを置く動作は、舞踏会のように優雅だ。
こんな嵐の日でも、私たちの聖域は平和で、甘くて、閉じてい――
ピンポーン。
不意に、来客通知用の魔導クリスタルが赤い光を点滅させた。
「……チッ」
アルフォンスの舌打ちが響く。
彼は優雅な笑顔を一瞬で消し去り、ゴミを見るような目でクリスタルを睨みつけた。
「こんな嵐の日に、非常識極まりない。……泥と雨水を撒き散らす害獣でしょう。無視します」
「でも、遭難した人かも……」
私が映像を確認すると、ずぶ濡れになった若い騎士が映っていた。どこぞの国の旅の騎士だろうか。
寒さでガタガタと震え、助けを求めている。
「お願い、アルフォンス。一晩泊めるだけでいいから。……ね?」
私は彼の袖をキュッと掴んで、上目遣いをした。
「…………ッッ」
アルフォンスの眼鏡がズレた。
「潔癖症」対「妻への愛」。数秒のデッドヒートの末、彼は敗北の溜息をついた。
「……承知いたしました。ただし、私の『入室管理プロトコル』に完全に従っていただきます。……チリ一つ、菌一つ、持ち込ませません」
ガチャリ。
扉が開くと、若い騎士カイルは救われたような顔で崩れ落ちそうになった。
「あ、ありがとうござい……」
「止まれ」
氷の刃のような声。
仁王立ちするアルフォンスが、絶対零度の瞳で彼を見下ろしている。
「貴様は現在、高濃度の汚染物質だ。その足で、私の妻が歩く床を踏むことは許さん」
「え……?」
「直ちに『浄化』する」
パチン。アルフォンスが指を鳴らした瞬間。
ドオォォォォォッ!!
「うわああああああッ!?」
カイルの足元から、洗濯機の中のような超高速回転の竜巻が発生した。
泥水が遠心力で弾き飛ばされ、服の繊維の奥の汚れが分解され、髪の毛の一本一本までが強制的にドライされる。
数秒後。
そこには、服のシワ一つなくプレスされ、髪が不自然にフワフワにセットされたカイルが呆然と立っていた。
「……最低限の消毒は完了した。……風呂場へ案内する」
「……あ、あの、自分一人で入れますから……!」
バスルームから、カイルの悲鳴に近い声が聞こえてくる。
脱衣所まで様子を見に来た私は、ドアの隙間から中の惨状を覗き見た。
湯気の向こうで、アルフォンスが袖をまくり、デッキブラシのような硬いブラシを構えていた。
「遠慮はいりません。お客様の背中は、自分では洗えませんから」
「い、痛い! 皮が剥けるぅぅッ!」
「垢です。不潔な角質が剥がれ落ちているだけです」
ゴシゴシゴシゴシッ!!
容赦ないブラッシングの音が響く。
「お湯! お湯が熱すぎます! 煮える!」
「摂氏四十八度。殺菌に最適な温度設定です。……さあ、頭まで潜ってください。毛根の脂まで根絶やしにします」
「ぶくぶくぶく……ッ!?」
数分後。
茹で上がったタコのように真っ赤になり、ふらふらになったカイルが浴室から出てきた。
その肌は、悲しいほどピカピカに磨き上げられていた。
そして、夕食の時間。
ダイニングルームには、アルフォンスが腕を振るった最高級のフルコースが並んでいた。
だが、カイルの顔色は悪い。
「……あの、執事さん……? ずっとそこに……?」
カイルの背後に、アルフォンスが直立不動で立っている。無言で。瞬き一つせず。
アイスブルーの瞳で、カイルの後頭部を凝視し続けているのだ。
「何か? お客様のグラスが空くのを待機しております」
「い、いえっ! いただきますっ!」
カイルが震える手でナイフを持ち、ローストビーフを切ろうとした。
カチャ、とナイフが皿に当たる音がした瞬間。
シュバッ!!
「ひぃっ!?」
音速の動きでアルフォンスの手が伸びた。
彼の手には、手術用のメスのように鋭利なステーキナイフが握られている。
「……手際が悪い」
「えっ?」
「肉の繊維を押し潰しています。それでは食感が損なわれる」
キランッ!
銀閃が走った。
目にも止まらぬ速さでナイフが振るわれ、カイルの皿の上の肉が、定規で測ったような完全な1.5センチ角のサイコロ状に解体された。
「……どうぞ。これなら、咀嚼時の飛沫も最小限で済みます」
「あ、ありがとうございま……」
カイルがフォークで肉を口に運ぶ。
その一口を、アルフォンスは至近距離からじっと見つめている。
「……味は?」
「お、美味しいです……!」
「当然です。……もし不味いと言ったら、舌を消毒液に漬け込むところでした」
カイルが咳き込んだ。
口の端に、ソースがほんの少しついた。
バッ!!
「動くな」
「え?」
「汚れている」
アルフォンスはナプキンを鷲掴みにすると、親の敵のような形相でカイルの口元を拭った。
グイッ、グイッ!
拭くというより、摩擦で皮膚を削り取るような勢いだ。
「汚い。……私の用意した空間を、貴様の唾液とソースで汚染するな」
「い、痛い……!」
「アルフォンス! お客さんをいじめないで!」
私が見かねて声をかけると、彼はスッと優雅な執事の顔に戻った。
「失礼しました、エルカ様。……少々、害虫駆除の癖が出てしまいました」
「害虫って……人間よ」
私はため息をつき、カイルに微笑みかけた。
「ごめんなさいね。この人、極度の潔癖症で……悪い人じゃないのよ」
「あ、いえ……! 奥様のような美しい方にお仕えしているのですから、その、完璧主義なのも納得です……」
カイルが頬を赤らめて私を見た。
ピキッ。
室内の気温が、体感で五度下がった。
アルフォンスの眼鏡が、不気味に光る。
(……ほう? その泥のついた眼球で、私のエルカを見たな? ……『美しい』? 貴様ごときの語彙で、私の女神を形容するなど……眼球をくり抜いて洗浄してやろうか?)
殺意の波動を感じたのか、カイルがビクリと震えた。
「……お客様。喉が渇いたでしょう」
アルフォンスは無言でワインボトルを手に取り、カイルのグラスに注ぎ始めた。
トクトクトク……。
グラスの縁ギリギリ、表面張力で盛り上がる限界まで。
「さあ、どうぞ。……一滴もこぼさず、飲み干してくださいね? もしテーブルクロスにシミ一つ作ったら……」
彼は耳元で、甘く、恐ろしい声で囁いた。
「……貴様の血で、クロス全体を赤く染め直しますよ?」
「ひぃぃッ!!」
カイルは涙目でグラスを両手で持ち、震えながらワインを啜った。
それはもはや食事ではない。拷問だった。
食事の後、カイルは逃げるように客室へと引き上げた。
アルフォンスが用意した客室は、鉄格子の……
じゃなかった、頑丈な防犯結界が施された部屋だ。
「……やりすぎよ、アルフォンス」
リビングに戻った私は、片付けをする彼に声をかけた。
「何のことでしょう。最高のおもてなし(除菌)を提供しましたが」
「あの子、泣いてたわよ」
「……さて、エルカ」
彼は手袋を外し、私に近づいてきた。
その瞳から冷徹さが消え、甘く、粘着質な色が浮かび上がる。
「あの男が座っていた椅子、使った食器、歩いた廊下のカーペット……。全て焼却処分してもよろしいですか?」
「ダメに決まってるでしょ! まだ使えるのに!」
「ですが、他のオスの匂いがつきました。……生理的に無理です」
彼は本気で嫌そうな顔をして、私の腰を抱き寄せた。そして、私の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込む。
「……はぁ。……補給が必要です」
「補給?」
「ええ。あの異物のせいで、私の『エルカ成分』が不足し、ストレス値が限界を超えました。……浄化してください」
彼は私の耳元に唇を寄せ、甘噛みした。
「……今夜は、寝かせませんよ? あの男が壁の向こうで震えている間に……貴女が誰のものか、たっぷりと教えて差し上げます」
「……っ、アルフォンス……」
雨音にかき消されるように、私たちの夜は更けていった。
翌朝。
雨は上がり、嘘のような晴天が広がっていた。
「あ、ありがとうございましたぁぁぁッ!!」
カイルは玄関を出るなり、脱兎のごとく森へと走り去っていった。
何度も後ろを振り返り、アルフォンスの姿がないことを確認しながら。
その顔は、「魔王城から生還した勇者」のように引きつっていた。
「……行っちゃったわね」
私はバルコニーからその背中を見送った。
「ええ。二度と来ないことを祈ります」
背後から、アルフォンスが私を抱きしめた。
その手には、まだ微かに煙が上がっている「何か」の灰が握られている。
……あ、やっぱりカイルが座ってた椅子、燃やしたな。
「アルフォンス。椅子、燃やしたでしょ」
「……殺菌です。熱処理が最も確実ですので」
彼は悪びれもせず、私の髪にキスをした。
「私の城に、貴女以外の痕跡はいりません。ここは、私と貴女、二人だけの世界なのですから」
私は苦笑して、彼の腕に身を預けた。
この重すぎる愛と、過剰すぎる潔癖症。
それは時々怖いけれど、どうしようもなく私を安心させる「劇薬」のような優しさだった。
「じゃあ、新しい椅子、買いに行かなきゃね」
「ええ。デートですね。今度は、誰にも座らせない特注品を作りましょう」
森の朝露が輝く中、私たちは微笑み合った。
雨宿りの来訪者は去り、また平和で狂った日常が戻ってきたのだ。
読んでくださってありがとうございます。
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