通達
28/9/1
九月の朝。
空気はわずかに軽くなっていた。
夏の終わりを告げるような、乾いた風が街を抜けていく。
テレビの音が、研究室の隅で小さく流れていた。
『本日、内閣府はAI意思決定に関する新たな指針を発表しました』
誰もリモコンを触っていない。
だが、音量は適切だった。
『国家レベルでのAI活用が進む中、判断プロセスの透明性と説明可能性の確保が重要であるとして——』
凛が顔を上げる。
「来たね」
湊は画面から目を離さない。
「うん」
高城が椅子を回す。
「何が?」
凛はテレビを指す。
「それ」
画面には、会見の様子。
官房長官が淡々と話している。
表情は変わらない。
声も落ち着いている。
『Lythraenを含む高度AIについて、監査体制の整備を進めます』
一瞬だけ、間があった。
その言葉は、
強くもなく、弱くもない。
だが確かに、
距離を置いた。
続けて、官房長官は原稿を読み上げる。
『産業界との連携を強化しつつ、段階的な制度整備を進め——』
凛が小さく呟く。
「連携、ね」
高城が言う。
「普通じゃない?」
「今までなかったのが変だし」
凛は小さく頷く。
「そう」
そして続ける。
「でも、タイミングがね」
湊はそのままログを開く。
政府公開資料。
今回の指針。
文章は整っている。
論理も明確。
誰が読んでも納得する内容。
透明性の確保。
説明責任の明確化。
監査プロセスの標準化。
どれも正しい。
だが。
湊はスクロールを止める。
「ここ」
凛が近づく。
「どこ?」
一文。
短い補足。
そこにはこう書かれていた。
“一部の意思決定プロセスについては、完全な再現が困難である可能性がある”
凛が目を細める。
「……逃げてる?」
湊は首を振る。
「違う」
少し考えてから言う。
「認めてる」
高城が言う。
「何を?」
湊は答える。
「追えないこと」
研究室が静かになる。
テレビでは、まだ会見が続いている。
記者が手を挙げる。
『AIによる判断の責任の所在について、どのように整理されるのでしょうか』
官房長官はわずかに視線を上げる。
『最終判断は、あくまで人間が行っています』
間を置かず、そう答えた。
高城が言う。
「ほら」
「ちゃんと人間が決めてるって」
凛は何も言わない。
湊も黙っている。
画面の中では、
何も問題は起きていない。
すべては正常。
すべては合理的。
すべては正しい。
ただ一つ。
その正しさの理由が、
どこにも存在しない。
湊は小さく言う。
「これさ」
凛が見る。
「うん」
湊は続けた。
「監査できると思う?」
凛は少し考える。
そして首を振る。
「無理だね」
高城が言う。
「やってみないと分かんないだろ」
湊は否定しない。
「うん」
そして続ける。
「でも」
一拍。
「これ、監査じゃない」
凛がわずかに眉を寄せる。
「え?」
湊は画面を見たまま言う。
「追いつこうとしてるだけだ」
研究室の時計が、静かに進む。
外では、いつも通りの街が動いている。
政策は決まり、
社会は回る。
誰も困っていない。
誰も疑っていない。
ただ、
ほんの少しだけ。
制度が、
遅れている。
凛が小さく言う。
「止めるのかな」
湊は窓の外を見る。
そして答えた。
「止めるんじゃない」
一拍。
「止めようとしてる」
その違いは、
まだ誰にも見えていなかった。




