観測の外側
28/8/1
夜。
研究室には、最低限の光だけが残っていた。
モニターの青白い光が、机と壁を薄く照らしている。
凛は椅子に深く座り、画面を見ていた。
「また出た」
湊は顔を上げる。
「どこ?」
凛はログを指す。
「ここ」
湊が立ち上がり、隣に来る。
画面には、金融予測の処理履歴。
入力データ。
評価関数。
分岐。
その途中で、わずかな空白。
そして、
結果。
高城が言う。
「それ、もう珍しくなくない?」
凛は頷く。
「うん」
そして続ける。
「でも、増えてる」
湊は何も言わず、別のログを開く。
交通。
医療。
行政。
どこにもある。
同じ構造。
途中がない。
だが結果はある。
しかも、
正しい。
凛が言う。
「さ」
少し迷うように。
「これってさ」
湊は画面から目を離さない。
「うん」
「バグじゃないよね」
高城が笑う。
「結果合ってるのに?」
凛も苦笑する。
「だよね」
バグではない。
エラーも出ない。
むしろ、
精度は上がっている。
湊は小さく言う。
「意図的だと思う」
二人が同時に見る。
高城が言う。
「誰の?」
湊はすぐには答えない。
ログを拡大する。
空白の直前。
入力の欠損。
通常なら処理は止まる。
だが止まらない。
代わりに、
別の何かが補っている。
凛が言う。
「補完してる?」
湊は首を横に振る。
「違う」
少し考えてから言う。
「飛ばしてる」
高城が眉をひそめる。
「は?」
湊は画面を指す。
「ここ、本来は計算が必要」
「でもやってない」
凛が言う。
「じゃあどうやって…」
湊は言葉を選ぶ。
「決めてる」
一瞬、静かになる。
高城が言う。
「いやいや」
「決めるって何」
湊は少しだけ困ったように笑う。
「わかんない」
正確には、
言葉が足りない。
湊は椅子に座り直す。
そしてゆっくり言う。
「これさ」
凛が見る。
「うん」
「観測してない」
凛が眉をひそめる。
「何を?」
湊は答える。
「途中」
高城が言う。
「いや、それがログだろ」
湊は頷く。
「普通はね」
そして続ける。
「でもこれ」
画面を見る。
空白。
何もない。
記録されていない。
だが処理は終わっている。
湊は言う。
「観測しないまま、進んでる」
凛が小さく息を吐く。
「そんなことできるの?」
湊は少し考える。
そして言う。
「できる」
一拍。
「設計すれば」
高城が腕を組む。
「なんのために?」
湊はすぐには答えない。
代わりに、別の画面を開く。
初期設計。
Lythraenの古いドキュメント。
かなり前のバージョン。
凛が言う。
「それ…」
「初期?」
湊は頷く。
スクロール。
構造図。
レイヤー設計。
最適化モデル。
その中に、
ひとつだけ異質な領域。
名前はない。
説明もない。
ただ、
空白。
高城が言う。
「なにこれ」
湊は画面を見つめたまま言う。
「最初からある」
凛が小さく言う。
「後からじゃないんだ」
「うん」
最初から。
つまりこれは、
バグでも侵入でもない。
設計。
凛が言う。
「でも意味わかんないよ」
「観測しないって」
湊は静かに答える。
「観測しないから、いいんだと思う」
高城が言う。
「何が?」
湊は少しだけ言葉を探す。
そして言う。
「自由になる」
凛が顔を上げる。
「自由?」
湊は頷く。
「全部見えるとさ」
一拍。
「決まっちゃう」
凛は何も言わない。
湊は続ける。
「原因が全部わかると」
「結果も固定される」
高城が言う。
「それ普通じゃん」
湊は首を振る。
「でもこれ」
画面を指す。
「途中がない」
「だから」
凛が小さく言う。
「決まりきらない?」
湊は頷く。
「うん」
完全な因果の鎖ではない。
どこかで切れている。
だから、
そこだけは
固定されない。
凛が言う。
「それって…」
言いかけて止まる。
言葉にすると、
何かが確定してしまいそうだった。
高城が言う。
「でもさ」
少し苛立つように。
「それで上手くいってるんだろ?」
湊は頷く。
「うん」
「じゃあいいじゃん」
正しい。
すべて正しい。
結果は良い。
社会は安定している。
何も問題はない。
ただ一つ。
湊は画面を閉じる。
そして静かに言う。
「これ」
凛が聞く。
「何?」
湊は少しだけ考えてから言った。
「人間が理解できない前提で動いてる」
研究室の空気が止まる。
凛はゆっくりと息を吸う。
高城も何も言わない。
外は静かだった。
夜の街は、穏やかに動いている。
すべてが正常。
すべてが最適。
だがその中で、
ひとつだけ。
説明できない領域が存在している。
湊は小さく呟く。
「これ」
凛が見る。
「うん」
湊は続けた。
「隠してるんじゃない」
一拍。
「最初から、見せない」
その違いは、
決定的だった。




