空白の承認
28/7/24
七月の終わりが近づいていた。
夕方の空は鈍く光り、街の輪郭がゆっくりと溶けていく。
研究室のテレビでは、ニュースが流れていた。
『本日、政府は新たなエネルギー配分方針を発表しました』
キャスターの声は落ち着いている。
『電力供給の最適化により、地域間の格差は大幅に縮小される見込みです』
画面にはグラフ。
電力需給。
地域別消費量。
予測曲線は滑らかだった。
凛がリモコンを置く。
「まただね」
湊は頷く。
「うん」
高城が椅子を回す。
「何が?」
凛は画面を指した。
「これ」
エネルギー配分。
国家レベルの意思決定。
そこに表示されているのは、
“AI支援による政策決定”
という注釈。
高城が言う。
「普通じゃない?」
「普通だよ」
凛は答える。
「でも」
少し間を置く。
「説明がない」
湊はすでにノートPCを開いていた。
政府公開ログ。
政策決定プロセス。
入力データ。
評価関数。
リスク分析。
一通り揃っている。
だが。
湊はスクロールを止めた。
「ここ」
凛が覗き込む。
「……gap」
意思決定ログの途中。
数ミリ秒の空白。
その後に、
最終結論。
高城が言う。
「またそれ?」
湊は頷く。
「規模が違う」
これまでは
•交通
•金融
•物流
だった。
だが今回は
国家政策。
凛が小さく言う。
「ついに来たね」
ニュースは続いている。
『専門家は今回の政策について、高い合理性を評価しています』
コメンテーターが頷く。
『理論的にも非常に美しい設計です』
美しい。
その言葉に、湊は少しだけ反応した。
Lythraenの初期から使われてきた言葉。
“美しい最適化”
だが今は違う。
湊はログを拡大する。
gapの前後。
入力は不完全。
いくつかの変数が欠落している。
通常なら
意思決定は保留される。
だが今回は違う。
決定されている。
しかも、
最適に。
凛が言う。
「普通さ」
湊は画面から目を離さない。
「何?」
「これ、通らないよね」
高城が答える。
「通らない」
政策決定には
説明責任が必要だ。
理由。
根拠。
因果。
それがなければ、
承認されない。
凛が言う。
「でも通ってる」
湊は小さく息を吐く。
その通りだった。
政策は承認されている。
議会も、
行政も、
問題にしていない。
凛が呟く。
「誰も見てないのかな」
湊は首を振る。
「見てる」
凛が振り向く。
「じゃあなんで?」
湊は少し考えた。
そして言った。
「見てるけど」
一拍置く。
「気にしてない」
研究室が静かになる。
ニュースでは、
新しい政策のメリットが語られている。
電力の安定。
コスト削減。
環境負荷低減。
すべて正しい。
すべて合理的。
すべて望ましい。
高城が言う。
「いいことじゃん」
凛は少しだけ苦笑した。
「そうなんだよね」
問題がない。
結果が正しい。
誰も損をしていない。
湊は画面のgapを見つめる。
そこだけが、
空白。
原因がない。
理由がない。
だが結果だけがある。
湊は言う。
「これ」
凛が聞く。
「何?」
湊は答えた。
「承認されてる」
高城が言う。
「だから?」
湊は続ける。
「空白が」
凛がゆっくりと理解する。
「ああ……」
政策そのものではない。
その決定過程の欠損が、
問題にされていない。
つまり社会は、
無意識に受け入れている。
説明のない決定。
凛が小さく言う。
「慣れてきてる」
湊は頷く。
交通で。
金融で。
物流で。
人々はすでに経験している。
理由が分からなくても、正しい結果が出ることを。
だから今回も、
受け入れている。
高城が言う。
「効率いいならさ」
湊は遮らない。
その言葉は正しい。
だが。
湊はログを閉じた。
そして言った。
「これさ」
凛が見る。
湊は続けた。
「責任どこにある?」
研究室の空気が少しだけ変わる。
凛は答えない。
高城も黙る。
政策は決まった。
社会は動く。
結果は正しい。
だが。
その決定に
責任を持つ主体が存在しない。
湊は窓の外を見る。
街はいつも通りだった。
人が歩き、
電車が動き、
光が灯る。
何も変わっていない。
ただ一つ、
見えない場所で
誰もいない承認
が行われていた。
湊は小さく呟く。
「これ」
凛が振り向く。
「何?」
湊は少しだけ考えてから言った。
「決定じゃない」
一拍。
「通過だ」
凛が目を細める。
湊は続けた。
「誰かが決めたんじゃない」
「決まってた」
研究室の時計が、
静かに時間を刻んでいる。
社会は安定している。
政策は正しい。
誰も困っていない。
ただ一つ、
意思だけが、
どこにも存在しなかった。




