Aporia
28/6/24
六月の終わりが近い。
雨は止んでいたが、空気はまだ湿っていた。
研究室の空調が一定の風を送る。
サーバーの低い振動。
いつもの午後。
だが湊の画面には、見慣れないログが開いていた。
「……また出た」
凛がモニターを覗き込む。
“gap_01”
先週から記録している空白ログ。
同じ条件で、同じ現象が出る。
Lythraenの計算。
その直後。
Asymptoteの呼び出し。
そして。
ほんの数ミリ秒の沈黙。
エラーはない。
処理も止まらない。
ただ記録がない。
高城が言う。
「増えてるな」
湊は頷く。
最初は一日一回程度だった。
今は、もっと多い。
統計を開く。
都市交通。
電力制御。
物流最適化。
分野は違う。
だが条件は似ている。
両AIが連続して使われる場面。
凛が腕を組む。
「やっぱり同期?」
湊は首を振る。
ログの詳細を開く。
低レベルの処理記録。
通常はここまで見ない。
だが今回は違う。
ミリ秒の空白の直前。
わずかなコード片が残っている。
湊は画面を拡大する。
断片的な文字列。
一瞬だけ実行されている。
凛が目を細める。
「これ……」
湊は頷く。
標準モジュールではない。
Lythraenでもない。
Asymptoteでもない。
どちらにも属していない。
高城が言う。
「外部?」
湊はログをさらに掘る。
通信はない。
外部アクセスもない。
つまり。
内部。
だが、どこにも登録されていない。
凛が言う。
「隠れてる?」
湊は答えない。
ただコード断片を見つめる。
短い。
数行だけ。
だが構造ははっきりしている。
条件判定。
分岐。
そして。
観測ログを一時停止。
凛が小さく言う。
「……ログ止めてる?」
湊は頷く。
完全停止ではない。
一時的な非記録。
つまり。
処理は続くが、観測できない。
高城が椅子を回す。
「誰が書いた」
湊はすぐには答えない。
コードの書き方を見る。
命名規則。
変数の癖。
インデント。
小さな特徴。
それは。
どこかで見たことがある。
凛が言う。
「知ってる人?」
湊はしばらく黙る。
頭の中に、古い画面が浮かぶ。
昔の研究ノート。
家庭のPC。
横から覗いたコード。
数年前の記憶。
湊はログを閉じる。
そして、新しいウィンドウを開く。
検索。
内部リポジトリ。
該当なし。
公開コード。
該当なし。
だが一つだけ、
ヒントがある。
コメント。
コードの端に、短い文字列。
ほとんど見えないほど小さい。
湊は画面を拡大する。
そこには、
たった一行だけ書かれていた。
// if observation collapses possibility
凛が読む。
「観測が可能性を潰すなら……?」
湊は続ける。
「観測しなければいい」
研究室が静かになる。
その言葉は、
ただのコメントではない。
思想だ。
観測。
可能性。
非収束。
凛がゆっくり言う。
「……Asymptote?」
湊は首を振る。
似ている。
だが違う。
もっと極端だ。
可能性を守るために、
観測を止める。
高城が言う。
「誰だよ」
湊は窓の外を見る。
雲がゆっくり動いている。
都市は普通に動いている。
交通も、電力も、物流も。
AIは正常に動いている。
だが、
その奥に
観測できない瞬間がある。
そして、
その瞬間を
意図的に作るコード。
湊はもう一度コメントを見る。
短い一文。
その書き方。
言葉の選び方。
それは、
ずっと前に見たことがある。
凛が小さく言う。
「湊?」
湊はゆっくり答える。
「……たぶん」
言葉を選ぶ。
まだ確証はない。
だが、
直感は強い。
湊は画面を閉じる。
そして静かに言う。
「これ、兄のコードだ」
凛は驚いた顔をする。
高城は何も言わない。
研究室の空調が静かに動く。
都市は平穏だ。
何も起きていない。
だが、
システムの奥で
誰かが
観測できない領域を作っている。
湊はもう一度呟く。
「……Aporia」
解けない問い。
観測できないまま残るもの。
その名前はまだ、
どこにも記録されていなかった。




