2話
翌日。僕はいつも通り、鉛のように重い体を引きずって学校へと向かった。
変わらない灰色の景色。すれ違う生徒たちの笑い声が、ひどく遠くに聞こえる。昨日、心の中で何かが決定的に壊れ、同時に生まれた冷たい感覚だけが、胸の奥で静かに脈打っていた。
校舎の裏手に差し掛かった時だった。
待ち伏せしていたかのように、須藤が現れた。昨日の無様な姿はそのままに、血走った目で僕を睨みつける。
「おい、のぼり。持ってきたんだろうな? 十万。今日払えなきゃ、俺は先輩に殺されるんだよ!」
唾を飛ばしながら胸倉を掴もうと手を伸ばしてくる須藤。その醜悪な顔を見つめながら、僕はひどく冷静だった。
かつてなら震え上がっていたはずのその暴力的なプレッシャーが、今の僕にはチリほどの脅威にも感じられない。
「……渡さない。お前に奪われるお金なんて、ない」
僕はただ、自分の意志を押し通すように、その理不尽な事実を頭の中で強く『否定』した。
パラリ、と。
軽い音が足元で鳴った。
須藤の制服のポケットから、数枚の千円札と小銭が抜け落ちたのだ。それは昨日、空っぽになった財布から奪われた僕の昼飯代と、一円の狂いもなく全く同じ金額だった。
「あ……? な、なんだこれ」
戸惑う須藤をよそに、僕はしゃがみ込んで自分の金を拾い上げる。奪われたという事実が、たった今『無かったこと』になったのだ。
「てめぇ……ふざけんなよ! なに小細工してんだ!」
わけのわからない現象への恐怖を怒りで塗りつぶし、須藤が激昂した。
「ぶっ殺してやる!」と叫びながら、顔面を狙って右の拳を思い切り振り被る。
かつての僕なら目を閉じて衝撃に耐えていただろう。だが、今の僕は違った。
自分に向けられる暴力。その理不尽な結果を、明確な殺意を持って『否定』した。
——ドッ、という鈍い音が響くはずだった。
しかし、空間を支配したのは不気味なほどの「無音」だった。
「……え?」
須藤の間抜けな声が漏れる。
僕の鼻先数センチで止まった彼の右腕。いや、止まったのではない。
肘から先の部分が、まるで空間ごと消しゴムで削り取られたように『消滅』していたのだ。
血一滴すら流れていない。ただ、そこにあったはずの肉体が、初めから存在しなかったかのように切り取られている。
「あ……? ああ……? お、俺の腕……俺の腕が!?」
数秒の遅れを経て、自分が置かれた異常な状況を理解した須藤が絶叫し始めた。
尻餅をつき、ないはずの腕を左手で押さえながら、顔を恐怖に歪ませて後ずさる。
「ヒッ、バケモノ! なんだお前、何をしたぁあああっ!!」
うるさい。
鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにして喚き散らす須藤を見て、僕は心底冷めた感情を抱いていた。
こいつは昨日、僕からなけなしの金を奪い、路地裏に放置した。五年以上も僕をサンドバッグにし続けた。それなのに、自分が少し傷ついただけで被害者面をして泣き喚くのか。
あまりにも醜い。あまりにも不快だ。
こんなゴミみたいな存在が、僕の視界に入っていること自体が耐えられない。
「……消えろ」
静かに、けれど決定的な意志を持って。
僕は『須藤という存在そのもの』を強く否定した。
プツン。
古いテレビの電源を切ったような、微かな感覚。
「たすけ——」
命乞いの言葉の途中で、須藤の姿は世界から完全に消失した。
制服も、靴も、彼がそこにいたという痕跡すら何一つ残されていない。ただ、初夏の生ぬるい風が、誰もいない空間を吹き抜けていくだけだった。
「……本当に、消えた」
自分の両手を見つめる。
人を一人消し去ったというのに、罪悪感は欠片も湧いてこない。
その代わり、体の奥底からマグマのように熱いものが込み上げてきた。長年こびりついていた無力感や恐怖が嘘のように消え去り、全能感にも似た黒い歓喜が全身を駆け巡る。
僕は、できる。
この腐った世界を、理不尽な現実を、僕の意志一つで思い通りに書き換えることができるのだ。
「あはは……っ」
誰もいない校舎裏に、僕の笑い声だけが響いた。
それは五年間の地獄を抜け出し、圧倒的な力を手に入れた少年が、初めて見せた本物の笑顔だった。




