3話
いつもの帰り道、人通りの多い駅前のロータリーを歩いていると、不意に背後から声をかけられた。
「おい、登利」
振り返ると、そこに見覚えのある顔があった。中学時代、須藤の腰巾着として常に彼の後ろに引っ付き、僕を嘲笑っていた取り巻きの一人、矢口だ。
薄ら笑いを浮かべてはいるが、周囲の目を気にしながら一定の距離を保っている。警戒しているのか、あえて逃げ場の多い街中を選んで接触してきたらしい。
「あのさぁ、お前、須藤どうしたんだよ?」
「……なんの話? 須藤なんて卒業してから会っていないよ」
平坦な声で答える僕を、矢口は探るようなねっとりとした目つきで睨みつけてきた。
「とぼけんなよ。須藤がいなくなったあの日、あいつは『お前に会いに行って金持ってくる』って言って別れたんだ。その後合流する予定だったのに、結局帰って来なかった」
矢口は一歩だけ距離を詰め、声を潜める。
「お前の学校の奴にも確認したんだぜ。そしたら、放課後に須藤がお前を校舎裏に連れていくのを見たってやつがいるんだよ。須藤の性格からして、お前を無傷で解放するなんてありえねぇと思うんだが?」
「だから、須藤なんて知らないよ。途中で逃げたし」
「へぇ……?」
矢口の口角が、ニヤリと歪んだ。
「お前さ、『須藤』って呼び捨てにするなんて、まるでもう脅威ではないって態度だな? 昔は名前を聞くだけで震えてたのによ」
矢口の目が、獲物を見つけた捕食者のそれに変わる。
「……殺ったのか? まぁ、不意打ちで凶器でも使えば、お前みたいなどんくさい奴でもできそうだもんな」
「…………」
「まぁいいや。本当のところはどうでもいい。俺は警察じゃねぇからな。ただ……黙っといてやるから、毎月五万持ってきな」
ポン、と矢口の手が僕の肩を叩く。かつての恐怖が条件反射のように微かに蘇りかけたが、それ以上に、目の前の男の浅ましさに吐き気がした。
「一回目は明日な。もし払わなければ、それなりの噂が流れるかもな。『登利海が同級生を殺した』って。……お前のかあちゃん、ご近所の目に耐えられるかな? w」
下劣な笑い声を残し、矢口は人混みの中へと消えていった。
その日の夜。
自室のベッドに腰掛けた僕は、暗い部屋の中でじっと両手を見つめていた。
また、あの地獄が始まるのか。
怯え、奪われ、理不尽に耐え続けるだけの日々。親の顔色をうかがい、息を潜めて生きるだけの毎日。
「……冗談じゃない」
あんなクズのために、僕の世界が再び濁らされることなどあってはならない。
僕は静かに目を閉じ、意識を集中させた。
対面でなくても、この力は使えるのだろうか。
まずは試しに、頭の中で矢口の姿を思い浮かべ、軽く「消えろ」と念じてみる。
……何も起きない。須藤を消した時に感じた、あの古いテレビの電源を切ったような『プツン』という感覚、確かな「手ごたえ」が全くない。
「ただ想像するだけじゃダメなのか……」
条件があるはずだ。
僕は深く息を吸い込み、あの時の感覚を呼び起こす。
奪われる恐怖。理不尽な暴力への怒り。そして、自分の存在を脅かすノイズを完全に排除するという、絶対的な意志。
僕から金をせびる矢口。
噂を流され、ヒステリーを起こす母親。
またしても崩れ去る、僕の平穏。
——そんな未来は、いらない。
——そんな現実は、僕の世界に存在してはならない。
心の底から湧き上がる真っ黒な拒絶の感情を束ね、脳裏に浮かぶ矢口の姿に向けて叩きつける。
僕の平穏を脅かす、あの下劣な男の存在そのものを、強く、強く、『否定』する。
その瞬間。
『——プツン』
脳の奥底で、確かに何かが弾ける感覚があった。
想像の中で薄笑いを浮かべていた矢口の姿が、ノイズ混じりの映像のように乱れ、瞬く間にドス黒い靄となって霧散していく。
「……っ」
目を開けると、息が少し荒くなっていた。
額には冷たい汗が滲んでいる。だが、確かな手ごたえがあった。
対面していなくても、強い拒絶と明確なイメージさえあれば、この力は届く。距離の壁すらも、僕の「否定」の前には意味をなさないのだ。
窓の外、静まり返った夜の街を見下ろしながら、僕は冷たく笑った。
明日の待ち合わせ場所に、矢口が現れることは絶対にない。
この世界から、また一つ、不快なゴミが消えただけだ。




