1話
登利海、十五歳。
僕の目に映る世界は、いつだってひどく濁った灰色をしている。
小学校高学年のクラス替え。本当に些細な、今となっては理由すら曖昧なきっかけで、僕は「標的」になった。その日から始まった地獄は、中学校を卒業するまでの三年間、一日も休むことなく続いた。
逃げるように家から遠く離れた進学校を選んだ。誰も僕の過去を知らない場所で、やり直せるかもしれないと微かな期待を抱いていた。
しかし、現実は残酷だ。
五年間も他人に怯え、顔色を伺い続けてきた僕には、普通の「友達の作り方」などわからなかった。人との適切な距離感が掴めず、おどおどと空回るばかりの僕は、あっという間に教室という小さな社会で孤立した。
結局、どこへ行こうと僕の居場所なんてないのだ。
ある日の帰り道。
重い足取りで夕暮れの道を歩いていると、不意に前方を塞がれた。
「いいところにいるじゃん。の~ぼ~り~君。ちょっと悪いけどお金くんない?」
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
目の前に立っていたのは、中学時代のいじめの主犯格、須藤だった。だが、いつも威張り散らしていたかつての姿とは違い、その顔には生々しい殴られ傷があり、制服は泥と血でボロボロになっている。いかにも、自分より強い者に暴力を振るわれました、といった惨めな格好だった。
「も、もってないよ」
すくみ上がる声帯をどうにか震わせて答える。
「またまた~。俺、今困っているんだよね~。先輩に目を付けられちゃってさぁ。明日までに十万持ってかないとヤバいんだわ」
「本当にお金なんて持ってないんだよ」
逃げようと足を踏み出した瞬間、須藤の腕がぐんと伸びてきた。
ギリッ、と肩を組む手に強い力が込められる。傷の痛みを誤魔化すような、八つ当たりの暴力の気配。
「おいおい。昔の友達だから優しくしてるのに、そろそろ出さないと強制的にもらっちゃうよ?」
凄む声が耳元で響き、視界が恐怖で暗転した。
——気が付いたら、薄暗い路地裏でボロボロになって蹲っていた。
全身が鈍く痛み、口の中からは鉄の味がする。
落ちていた学生鞄を引き寄せ、中を確認するまでもなく悟った。財布の中身がない。今月を生き延びるための、なけなしの昼飯代が入っていたのに。
ゆっくりと立ち上がり、制服についた土埃をパンパンと払う。ポケットからハンカチを取り出し、顔についた血と汚れを無表情に拭った。
いつものことだ。
もう、なんとも思わない。
怒りも、悲しみも、とっくの昔に摩耗して消え失せてしまった。
重い足を引きずって家に着くと、玄関のドアをそっと開ける。親に見つからないよう、靴音を殺して洗面所へ直行した。
制服の汚れを濡れタオルで手早く落とし、すぐにシャワーを浴びて血と泥を洗い流す。鏡の前の自分は、今日も見事なまでに空っぽな目をしていた。
何事もなかったかのように装うのは慣れたものだ。もし母親にこの傷や汚れを見つけられでもしたら、「どうしてまたそんなことになってるの!?」とヒステリーを起こされる。僕を心配しているのではない。面倒ごとに巻き込まれる自分の不運を嘆いて喚くだけだ。それがとてつもなくめんどくさい。
自室のベッドに倒れ込み、天井の染みを見つめる。
この世界では、誰も僕の事なんて見ていない。
だれも……。
僕がここで息をしていようが、明日死んでいようが、誰も気づかないし、誰も悲しまない。
須藤は僕から金を奪って自分の保身に走り、クラスメイトは僕を透明人間のように扱い、親は面倒を避けるために僕の傷から目を背ける。
他人は皆、自分のことしか考えていない。強者は弱者を蹂躙し、弱者はさらに弱い者を食い物にする。
「……こんな世界、もうどうだっていい」
乾いた唇から零れ落ちた呟きは、僕自身の予想以上に冷たく、そして確かな輪郭を持っていた。
もし、この世界が僕を一切拒絶し、誰も僕の存在を認めないというのなら。
——僕も、この世の全てを否定してやる。
暗闇に沈む部屋の中で、十五歳の登利海は静かに目を閉じた。
それは、彼の中の何かが完全に壊れ、そして、全く新しい異質な何かが産声を上げた瞬間だった。




