第166話 冷えない箱と遠い視線
朝の光が、工房の床を斜めに切る。
昨日の箱は、机の上にある。
エレノアは蓋を開ける。
葉はまだ張りを保っている。
完全ではない。
だが、昨日より萎れていない。
ミラが覗き込む。
「昨日よりいい」
「うん」
ラグナが低く言う。
「火も使ってねぇのにな」
ネファルが静かに観察する。
「蒸散の速度が安定している」
エレノアは布を触る。
乾ききっていない。
通気孔の位置を指でなぞる。
「少し広げる」
削り刃を当てる。
ほんのわずかに。
削りすぎない。
削れば、冷えない。
穴は大きすぎても小さすぎても駄目だ。
ルミナが小さく光る。
「風、通ってる」
エレノアは頷く。
「借りてるだけ」
外の風を。
奪わない。
閉じ込めない。
通す。
⸻
午後、街の商人が一人立ち寄る。
「噂を聞いた」
「冷える箱を作ったとか」
エレノアは首を振る。
「まだ冷えない」
商人は笑う。
「冷えなくてもいい」
「持ちが良くなるなら十分だ」
葉を一枚取り出し、手で確かめる。
「悪くない」
ミラが腕を組む。
「乾きすぎないように、布の補充はいる」
商人は頷く。
「補充で済むなら安い」
注文は小さい。
三つ。
エレノアは頷くだけ。
名声ではない。
ただ、広がる。
⸻
遠く。
砂の向こう。
報告書が机に置かれる。
「地方都市にて、新型保存構造の流通確認」
男は目を細める。
「保存?」
側近が続ける。
「地脈補助を用いない構造とのこと」
沈黙。
机を叩く指が、止まる。
「削らぬ技術か」
声は低い。
怒りではない。
関心。
「規模は?」
「まだ小規模」
「街単位」
男は窓の外を見る。
砂は今日も揺れている。
「干渉は不要」
即答。
「観察のみ」
側近が頷く。
だが、男の視線は遠い。
削らない技術。
吸わない構造。
それは。
対極。
机の上の報告書に、もう一度目を落とす。
「冷えない箱」
小さく呟く。
「冷やさずに保つ……か」
指先が、わずかに机を叩く。
規則正しく。
焦りではない。
思考。
「均衡を崩さぬ者か」
その言葉は、誰にも聞かれない。
砂の外れで、風が流れる。
強くはない。
ただ、長い。
⸻
工房では。
エレノアが二つ目の箱を組み終える。
昨日より手際がいい。
削りは少ない。
布の量も適切。
ミラが言う。
「慣れた?」
「少し」
ネファルが低く告げる。
「削らぬ設計は、時間がかかる」
ラグナが笑う。
「だが、燃えねぇ」
ルミナが嬉しそうに光る。
「やさしい」
エレノアは蓋を閉じる。
音は静か。
歪みはない。
外で風が抜ける。
通気孔が微かに鳴る。
箱の中の空気が動く。
冷えない。
だが、保つ。
それでいい。
まだ、十分ではない。
だが。
遠くの誰かが、気づき始めていることを、
エレノアは知らない。




