第167話 市場の音
朝の市場は、音から始まる。
木箱が積まれる音。
包丁が骨に当たる鈍い響き。
遠くで子どもが笑う声。
エレノアは布を抱えて歩いていた。
保存箱が三つ。
まだ新しい木の匂いがする。
魚屋の屋台に着くと、店主が手を振る。
「例の箱だな」
エレノアは頷き、箱を差し出す。
魚を三尾、中に並べる。
湿らせた布を側壁に挟む。
蓋を閉じる。
通気孔から、ゆるやかな風が抜ける。
店主が眉をひそめる。
「氷もねぇのに、どうやって冷やすんだ」
エレノアは短く答える。
「水が乾くとき、少しだけ熱を奪う」
「風が通ると、続く」
店主は手を入れる。
「……ほんのり、だな」
「強くはない」
「でも、持つ」
店主は口元を緩める。
「それで十分だ」
⸻
隣の屋台では干し肉が吊られている。
塩。
煙。
保存の知恵。
「火は使わねぇのか?」
魚屋が聞く。
ラグナが鼻を鳴らす。
「加工には使った」
エレノアが補足する。
「木を乾かすのと、布の処理だけ」
「冷やすのは、風」
店主は通気孔を覗く。
布がゆっくり乾き、空気が抜けていく。
「手入れはいるな」
「布を替えればいい」
店主は頷く。
「氷より安い」
それで話は終わる。
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小さな女の子が覗き込む。
「箱の中、涼しい」
エレノアはしゃがむ。
「少しだけ」
女の子は通気孔に息を吹く。
風が抜ける。
箱の中の空気が、わずかに動く。
「ほんとだ」
ルミナが嬉しそうに光る。
⸻
昼に近づく。
桶の魚は少し疲れている。
だが箱の中の魚は、まだ艶を保つ。
店主が笑う。
「こりゃ売れる」
隣の商人が口を挟む。
「地脈は使ってねぇんだろ?」
「使わない」
エレノアは答える。
「ただ通すだけ」
奪わない。
閉じ込めない。
通す。
市場の布が揺れる。
自然な風。
ヴェルナシアの圧ではない。
ただの朝の風。
通気孔が鳴る。
小さな循環。
魚屋は頷く。
「もう一つ頼む」
注文は増える。
派手ではない。
だが確実だ。
⸻
遠くで吟遊詩人が歌う。
収穫の歌。
雨を願う歌。
市場の人々は聞き流しながら働く。
それがこの街の娯楽だ。
エレノアは箱の布を折り直す。
まだ冷えない。
だが、保つ。
十分ではない。
だが、役に立つ。
外で風が抜ける。
市場は今日も動いている。




