17.人魚は諦めない
ホテルの窓から涼やかな夜風が吹き込んでくるのと同時に、背後から声がかかる。
「アルシエル様、ただいま戻りました」
真っ黒のスーツに身を包み跪いている男、レイビスを一瞥すると、課題の手を止めて椅子をレイビスの正面へと向ける。
「ご苦労様、それで? 早く報告を」
「はい。あのコーヒーショップの店主から聞き出した話によりますと、この街ではルイゼと言うあだ名で呼ばれていらっしゃるとの事、本当のお名前はルイーゼと仰るそうです。お住まいはスラム街とのことですが、家の場所までは店主は把握しておりませんでした。しかし勤め先は判明しまして、スラム街と隣接した通りにあるパーズ薬品店と言われる店で店員をしているとの事、ルイーゼ様の裏の仕事についてははぐらかしておりました。ご命令の通り、それ以上は追及しておりません」
「それで構わないよ。勤め先が分かっただけでも上出来だ。本名はルイーゼと言うのか……なんて美しい名だろう。自分の事をまっとうな育ちではないと言っていたけれど、なるほど……スラムか……。あのような仕事をしているのだからなんとなくは考えていたことではあるけれど、その仕事のおかげで僕たちは出会えたんだ。後ろめたい事などと思っては欲しくない。あぁ……ルイーゼ……早く会いたい」
背もたれに体を沈めて天井を見つめる。5年間も恋焦がれていた運命の相手と再び巡り合えたこのチャンスを、絶対に逃したくはない。
「お言葉ですがアルシエル様……」
「なに?」
「アルシエル様のような立場あるお方が、スラムに住むような人間と……」
「レイビス……黙れ」
「申し訳ございません」
「後で店の場所をスマホに送っておいて」
「……かしこまりました」
「下がっていいよ」
「はい」
最低限の会話を終えるとレイビスは来た時と同じように、部屋から風のように去った。
椅子から立ち上がり、開けたままの窓辺へと近寄る。学校の課外授業という名目でこの国に連れてこられたが、観光客の多いこの街で人が多すぎて辟易していた。つまらない形のガラス細工も、目をひかないアクセサリー、コバンザメのように付きまとう陸の女達、一人になりたくて登った小高い丘から故郷の海を見渡せば、少しは心が晴れるだろうかと少しの期待を抱いて登ったその場所に、焦がれて焦がれて焦がれつくしたその人は、海の風にそのきれいな髪をなびかせて佇んでいた。
あの時と何一つ変わらないその姿のままで、僕の事を最初は誰だか分かっていなかったけれど、すぐに思い出してくれた。
そして思い出す。己の失態……思わず窓辺に頭を抱えて蹲る。彼女に再会したらなんて言おうか何万回と繰り返してきたと言うのに、そんな事は頭からすっかり抜け落ちていた。恋に狂った馬鹿な10代の学生が、必死になって大人の女性に愛していると求愛するという最悪な結末……。ルイゼは困り果てていた様子だった。あたりまえだ……自立している女性が学生から番になってくれなどと、彼女には僕が養えるほどの事ができる男であると分かってもらえるはずもない。ただただ愛を乞うのに必死な愚かな若いオスにしか見えなかったことだろう。
拒絶されたのはショックだが当然の結果だ……まだ諦めはしない。彼女の薬指に残した人魚の口づけ……。あれがあれば、少なくとも異種族は牽制できる。
明日、もう一度彼女の元へ行こう。そうだ……彼女に会う前に何か贈り物を買おう。螺鈿のアクセサリー? 彼女の胸元を飾るなら海を思わせる色のものが良い。いや、ガラス細工のかわいらしいグラスはどうだろうか? あれほど自分の興味をひかなかった物達が、彼女を通した途端に色鮮やかで心躍らせるものへと変わっていく。
あぁ……やはり世界に色をくれるのは彼女だけだ。早く会いたい。その小さな指に自分の指を絡ませて、滑らかな頬に触れながら愛を囁きたい。愛に溺れると人魚は狂う。昔から言われてきたことだが、わが身を持って痛感する。
「ルイーゼ……早く君に会いたい……」
締め付けられる甘い胸の痛みに、自分の胸に手を当てる。冷たい夜風が火照った体を心地よく冷やしていった。
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