第5話 コンクリートの照り返しと、十六号線の憂鬱
最初の頃は、
「……なぁ、康介」
「何だ」
「今月の家賃、あといくら足りない?」
「あと二万。ちなみに明日の食費も怪しい」
という会話を交わしていたものだ。
隆平が、吸い殻の山ができた安物の灰皿に
缶コーヒーを乱暴に叩きつけるように置いていた。
独立すれば勝手に依頼人が押し寄せてくる
などという笑い話のような甘い幻想。
1【 あの頃の「リアル」と、消せない記憶 】
北区滝野川のマンションの上層階、
その一室に響くコーヒーメーカーの
静かな駆動音を聞きながら、ふと、
三年という時間の重さを感じる。
いま康介たちの手元には、洗練された
マーケティング戦略と、港区の富裕層を
顧客に抱える安定した経営基盤がある。
だが、どれほど高級なスーツに身を包み、
真鍮のプレートが掲げられたエントランスを
誇らしげにくぐろうとも、康介の足の裏には、
いまだにあの時のコンクリートの熱さが
こびりついて離れない。
八王子の雑居ビル。
ペンキの剥げかけたドアを開ければ、
そこにあったのは安物のオフィスデスクと、
リサイクルショップで五十回値切って買った、
中のウレタンがボソボソと露出しているソファ
だけだった。
事務所の看板を掲げても、二週間経たないうちに、
現実という名で粉々に打ち砕かれていた。
電話は鳴らなかった。
鳴るのは、昼夜問わずかかってくる「ホーム
ページ制作の営業」か「光回線の切り替え案内」
だけだった。
見栄を張って、血迷ったように分割払いで購入
した探偵機材。
「待ってたって仕事が舞い込む訳ないんだし、
どこかの事務所の下請けでもやるか?」
隆平は弱音を吐いていた。
何のために看板を掲げたのか。
板金塗装の職人のように、技術と手間で「言い値」
で対価を得る。
そう誓ったはずの誇りが、家賃の督促状という
現実の重みによって、音を立ててすり減っていく。
そんな、何をやっても空回りしていた初期の
悪戦苦闘の日々の中で、康介たちの無知と
未熟さを一番残酷な形で叩きつけてきた事件
があった。
それが、開業して間もない頃に引き受けた
――あの「チワワの捜索」だった。
2【 高を括っていた「最初の依頼」】
「子犬の一匹くらい、数時間で見つかるだろ」
最初は、本気でそう思っていた。
依頼人は、八王子の郊外にある古い住宅街に住む
初老の女性だった。
「完全室内飼いの白と黒のミックスで、
名前は『チャコ』。窓の隙間から外に出てしまっ
たんです。どうか……探してください」
震える声で差し出された依頼料は、手作りの
封筒に入ったわずか三万円。
当時の康介たちにとっては、喉から手が出るほど
欲しい金額だった。
「お任せください。プロの調査能力を舐めて
もらっては困ります」
何を根拠にそんな大口を叩いたのか。いま
思い返しても顔から火が出るほどのハッタリ
だったが、当時の康介たちは「探偵」という
肩書だけが頼りの、ただの素人の集まりに
すぎなかった。
調査初日。隆平たちは意気揚々と、現場の住宅街へと向かった。
映画やドラマのように、スマートに車の中から
双眼鏡を覗いて……なんて優雅なものではない。
移動はもっぱら、隆平のボロい軽自動車だ。
ターゲットである「チャコ」が目撃されたという
路地裏に到着し、康介たちは手分けして捜索を
開始した。
「おい、あそこの塀の隙間になんか黒い影が」
隆平が低い声で指をさす。
確かに、古いモルタルの塀と、放置された
植え込みの狭い隙間を、すばやい黒い影が
横切った。
「逃がすな!」
隆平たちは、スーツのジャケットを脱ぎ捨てる
のも忘れて、その黒い影を追いかけた。
しかし、現実は甘くなかった。
四足歩行の猫の瞬発力と、狭い隙間をすり抜
ける柔軟性は、人間の想像を遥かに超えていた。
アスファルトの照り返しが強烈な真夏の午後、
黒い革靴の足音が住宅街の静けさを引き裂く。
「待て、待てっておい!」
隆平は住宅の間の狭い路地を全速力で駆け抜けた。
だが、曲がり角を曲がった瞬間に見失う。
息が切れ、心臓がバクバクと耳の奥で鳴り響く。
スーツの背中は汗でぐっしょりと濡れ、
ネクタイが風に煽られて顔に張り付いた。
「康介! こっちだ!」
少し離れた場所から隆平の声がする。
そちらへ駆け寄ると、隆平は野良猫の縄張りを
荒らした野次馬のように、他人の家の庭木に
突っ込み、散らばった植木鉢を派手にひっくり
返していた。
「どこだ、行ったか!?」
「くそっ、見失った……あそこの床下に潜り
込んだかもしれない!」
大の男二人が、汗まみれになって住宅街の
路地裏を駆けずり回る。
通行人の冷ややかな視線が、背中に刺さる
ように痛かった。
「なんだあの人たち……」
「変な格好して、何やってるのよ……」
主婦たちのひそひそ声が聞こえる。
それもそのはずだ。平日の昼間から、スーツ
姿の男二人が必死の形相で住宅街を走り回り、
他人の家の軒下を覗き込んで
「チャコー! チャコー!」と叫んでいるのだから、
端から見れば不審者以外の何物でもなかった。
3【 十八号線の巡査と、手探りの洗礼 】
案の定というか、当然というか、災難は
すぐにやってきた。
「そこのお二人さん、ちょっと待って
もらえますか」
背後から、低く威厳のある声がかかった。
振り返ると、地元の交番に勤務する初老の
巡査が、自転車を押しながら鋭い視線を
こちらに向けて立っていた。
制服の白線が、真夏の太陽の光を反射して
眩しい。
「は、はい……?」
康介は反射的に立ち止まり、生乾きの汗の匂い
を漂わせながら引きつった笑みを浮かべた。
「この辺りで、怪しい動きをしている男たち
がいるって住民から通報があってね。
あなた方、何をしているんですか」
「あ、いえ、俺たちはその……」
言葉に詰まる康介の横から、隆平が慌てて胸
ポケットに手を突っ込む。
「あ、あの、俺たちはですね! 近くで探偵
事務所をやっておりまして、その、依頼さ
れたペットの捜索をですね……」
隆平が取り出したのは、出来立てホヤホヤの、
インクの匂いがまだ微かに残る「R&K探偵
事務所」の名刺だった。
巡査はそれを無言で受け取り、じっと見
つめる。
「探偵ねえ……。最近はこの辺りでも空き
巣や変質者の被害が増えていてね。
いくら探偵を名乗っても、他人の家の敷地
を覗き込んだり、庭木を荒らしたりしてい
れば、不審者として署まで同行してもらう
ことになりますよ」
巡査の目は本気だった。
康介たちの名刺なんて、所詮は自分たちで
パソコンで作ったペラペラの紙きれにすぎ
ない。
警察の追及に対して、法的根拠や毅然とし
た態度を示せるほどの裏付けなんて、当時
の俺たちには微塵もなかった。
「す、すみません……! ただの子犬探し
なんです、本当に、悪気はなくて……」
康介は頭を下げ、冷や汗を拭うことも忘
れて弁解した。
「子犬探し? 仕事なら仕事で、近隣の
住民に不安を与えるような真似は慎みな
さい。次に見かけたら、ただじゃ置かな
いからね」
巡査は厳重注意を与えると、自転車に
またがり、去ってい去っていった。
取り残された俺たちは、その場でガックリ
と膝をついた。
「……最悪だな」
隆平がアスファルトに座り込み、乾いた笑い
を漏らす。
「ああ、完璧にな」
俺はポケットからコンビニで買った安い
ペットボトルを取り出し、ぬるくなった
麦茶を喉に流し込んだ。
プライドも、自信も、カッコいい探偵へ
の憧れも、あの真夏の暑さと警察官の冷
たい視線によって、すべて溶かされてい
くようだった。
4.路上で食う弁当と、そこから這い
上がる覚悟
夕方。
すっかり日も傾きかけた頃、俺たちは
依頼人の家とは反対方向の、少し寂れた
公園のベンチに並んで座っていた。
目の前を走るのは、トラックの排気ガスが
立ち込める十六号線だ。
手元にあるのは、コンビニで買った割引
シールの貼られた幕の内弁当。
箸を割る音すら、やけに重く響いた。
「子犬一匹まともに捕まえられない俺た
ちが、これから先、本当にやっていける
のかよ」
隆平が、白米の上にのったパサパサの唐
揚げを口に放り込みながら、呟いた。
「さあな」
康介は、遠くを走る車のテールランプを
ぼんやりと眺める。
「あの巡査の言う通りだった。俺たちは
ただの『事務所を持った素人』だ。
格好つけて名刺を作ったところで、中身
はあの頃の興信所の使い走りとなんら変
わっちゃいない」
「……だな」
溜息が、夜の冷え始めた空気の中に白く
溶けていく……いや、まだ夏の名残がある
夜風は生ぬるく、俺たちの焦燥感を煽る
ようにまとわりついていた。
だが、不思議と「ここで終わりだ」とは
思わなかった。
あの時、逃げ出した子犬を捕まえられず、
警察に叱られ、路上で食べたコンビニ弁当
の惨めな味が、俺たちの舌の奥底にしっか
りと刻み込まれていたからだ。
「なぁ、隆平」
「ん? ……」
「この前も言ったけど、張り込みをする
時はスニーカーの底をゴム底の静かな
やつに変えようぜ」
「……」
「響くんだよ。プロなら、気配を消さ
なきゃいけないだろ?」
俺の言葉に、隆平はしばらくぽかんとし
た顔をした後、ふっと鼻で笑った。
「そうだな。次はもっと、マシな道具を
揃える資金を稼がないとな」
結局、その日逃した「チャコ」は、三日後
に依頼人の家の玄関先へ、自力でトボトボ
と帰ってきたという。
康介たちの三万円の初仕事は、完全な失敗
に終わった。
依頼人には平身低頭で謝罪し、受け取った
手作りの封筒は、そのままそっくり返金した。
恥ずかしくて、顔を上げられなかった。
しかし、その失敗があったからこそ、康介
たちは「泥臭く足を使うだけでは生き残れ
ない」という現実を学んだ。
どうすれば怪しまれないか。
どうすれば警察との無駄な摩擦を避け、
スムーズに調査を進められるか。
そして、泥をすすってでも生き残るため
の「システム」をどう構築すべきか。
今、滝野川の高層マンションの一室で、
スマートに富裕層のペットを高額な報酬
で救い出す康介たちの姿だけを見れば、
誰もあの日の十六号線の路地裏で、猫や
犬を追いかけて警察に怒鳴られていた哀
れな素人たちの姿を想像することはでき
ないだろう。
だが、忘れない。
あの、アスファルトの照り返しの中で流
した汗と、無力感に震えた夜の冷たさこ
そが、康介たち「R&K探偵事務所」の、
すべての始まりだったのだから。
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康介は浮気調査で致命的な失態を
やらかす。対象者の男を車で尾行中、
完全に男の車を見失ってしまい、
調査は失敗に終わる。事務所に戻り、
「俺は、頭が悪いなぁ。……」
まさか、その自嘲気味の独り言が、
康介と隆平の二人にとって大きな
飛躍のきっかけになろうとは。
明日8月6日も 20:00 に、第6話を
投稿します。
よろしくお願いいたします。




