第15話 【黎明(れいめい)の包囲網と、裏切りのカード】
劉洪貴を裏切り、彼から
逃げ続けた一人の女と、彼女を巡る
巨大なマネーとマフィアの陰謀が、
静かに交錯しようとしていた。
「康介」と、闇の中で、隆平が囁いた。
「絶対に逃がすなよ。あれが、俺達
の未来を決定づける最後の盾だ」
康介はポケットの中で拳を固く握り締め、
冷たい夜風の吹く闇の中で、じっと
その時を待ち続けた。
茨城県ひたちなか市、早朝の冷気が
アスファルトを白く染め上げる頃。
「ハイツ・サンライズ」の古びた
二階の外階段には、薄っすらと霜
が降りていた。錆びた手すりに触
れると、指先が凍てつくような感覚
が走る。
康介は、アパートの二階の端にある
「205号室」のドアの脇に身を寄
せていた。隣では、隆平がスマホに
接続した小型の電波探知機を確認
しながら、無言で頷く。部屋の中
からは、水道の蛇口をひねる音と、
何かを炒める微かな物音が漏れていた。
もうすぐ、この部屋の住人――「中野
有希」という偽名で潜伏している
樫野里奈が、パートの準備のために
表に出てくる時間だ。
「準備はいいな、康介」
隆平が低い声で耳打ちする。
「ああいっそ荒っぽくいくか、それ
とも紳士的に声をかけるか……選ぶ
余裕はないが、絶対に逃がすなよ」
「分かっている。パニックを起こさ
せて大声を出されたら、近隣の住民
に通報されるか、それとも劉の犬ども
に先に嗅ぎつけられる。一瞬で制圧
して中に押し込むぞ」
コンマ数秒の静寂の後、ガチャリと
ドアの鍵が内側から外された。
ドアノブが回る。扉がわずかに開き、
冷たい外気の中に、安物のシャンプー
とトーストの香りが混じり合った。
その瞬間、康介は迷うことなくドアの
隙間に身体を滑り込ませ、全体重を
かけて押し開いた。
「っ……! 誰――!?」
驚愕に満ちた叫び声が上がる。そこ
に立っていたのは、マスクとすっぴん
の顔を強張らせた樫野里奈、その人
だった。
「騒ぐな、里奈。俺たちだ」
康介は声を荒げず、しかし逃げ場を
塞ぐように彼女の腕を掴み、
そのまま部屋の奥へと押し戻した。
隆平が素早く背後からドアを閉め、
内側から鍵をガチャリと掛ける。
「あなたたちは……! どうして、
私がここにいることが……!」
里奈の瞳には、怒りと恐怖、そして
すべてを諦めかけたような絶望の色
が混ざり合っていた。彼女の身なり
は窶れており、銀座の高級
クラブで「椎名凛」として男たちを
魅了していた頃の華やかさは微塵も
ない。安物のスウェット姿で、ひき
つった笑みを浮かべているのだった。
「落ち着け。俺たちは、お前を劉に
引き渡しに来たんじゃない」
康介は両手を軽く上げ、敵意がない
ことを示しながらゆっくりと距離を
詰めた。
「……嘘を言わないで。あの老人が、
私を放っておくわけがないわ。あなた
たちは、あの人の手先なんでしょう?」
「手先なら、こんな静かに部屋に入っ
てきたりしないさ」
後ろから割り込んだのは隆平だった。
彼は部屋の隅のテーブルに置かれた
使い捨てのプリペイドスマホや
ノートの束を一瞥し、
フッと鼻で笑った。
「俺たちは、劉のじじいが裏で進め
ているクローン事業のスキームを乗っ
取った人間だ。そして同時に、劉が
喉から手が出るほど欲しがっている
『お前の持っている機密データ』を
探していた」
里奈の表情が凍りついた。
「……私の、データ……?」
「とぼけるなよ。お前が劉の貿易会社
から持ち出し、自分の会社を立ち上げ
るための取引材料に使った『セイント・
ドラゴン』の裏金ルート、そして政治
家や海外の反社組織を繋ぐマネーロン
ダリングの全貌が記録された暗号化SSD
だ。お前はそれをどこかに隠している
はずだ」
隆平の鋭い指摘に、里奈はわずかに息
を呑んだ。だが、彼女はすぐに強がり
を崩さず、言い放った。
「そんなもの、とっくの昔に処分した
わ。私を脅したところで、何も出てこ
ないわよ」
「処分しただと? 命より大事な保険を、
お前がそんな簡単に手放すわけがない」
康介は里奈の目を真っ直ぐに見据え、
低く言い聞かせるように告げた。
「里奈、よく聞け。今、この瞬間も、
劉の差し向けた追手のエージェント
たちが、このひたちなかの街に迫っ
ている。俺たちがここにたどり着い
たのは奇跡的なタイミングだったが、
次の連中が来たら、お前は一瞬で
消される。……いや、殺されるだけ
ならまだマシだな。あのじじいの
地下室で、二度と日の目を見ない
人生を送ることになる」
里奈の身体が小さく震えた。彼女も、
自分が逃げ切れないことは本能で
分かっていたのだ。
「……じゃあ、私にどうしろって
いうの? あなたたちにそのデータを
渡して、私をどうする気?」
「殺したりしないさ。むしろ、お前を
保護する」
隆平はポケットから小さなフラッシュ
メモリを取り出し、テーブルの上に
ポンと置いた。
「お前が持っているデータのバック
アップ、あるいはその一部を俺たち
に預けろ。それを、俺たちが劉を
牽制するための『最強の盾』にする。
その代わり、俺たちは北関東から
完全に安全な別のルート――お前が
二度と追われないための新しい戸籍
と、海外への逃亡資金を用意する」
「……そんな虫のいい話があるわけ
ない。あなたたちも、結局は私を
利用してあの老人から金と権力を
奪うつもりなんでしょ?」
「その通りだ」
隆平は一切の綺麗事を言わず、真
正面から肯定した。
「俺たちは聖人君子じゃない。生き
残るために、あのじじいと真っ向から
やり合っている。だが、お前が一人
で怯えながらこの安アパートで震えて
いるより、俺たちと組んだ方が生存
確率は圧倒的に高い。選べ。ここで
劉の犬どもに見つかって犬死にするか、
それとも俺たちの盾になって、一緒に
奴らの足元をすくうか」
室内の空気が張り詰めた。
静寂の中、壁の古びた時計の秒針の
音だけが、やけに大きく響く。
里奈はしばらく康介たちの顔を交互に
見つめ、やがて自分の足元に置かれた
古い革製のボストンバッグをゆっくり
と引き寄せた。
「……分かったわよ」
彼女は震える手でバッグのジッパーを
開け、中から布に包まれた小さな黒い
ハードケースを取り出した。
「これが、私が持ち出したすべての
データよ。……これがあの老人から
流出したと知れたら、アジアの裏
社会の半分がひっくり返り、老人は
生涯狙われることになる」
里奈はそれをテーブルの上に置き、
俺たちに差し出した。
康介はその冷たい金属のケースを
そっと手に取り、確かな重みを感じ
ながら隆平に渡した。隆平はそれを
一瞥し、満足げに微かに口角を上げた。
「よく決断したな、里奈。これで、
俺たちの手には十分すぎるカードが
揃った」
その時だった。
ふと、アパートの外の通りから、エ
ンジン音を殺した大型の黒いセダン
が二台、静かにハイツ・サンライズ
の敷地内へと入ってくるのが窓の隙間
から見えた。
「……っ!」
隆平の表情が急変する。
「どうした?」と俺が問う。
「間に合ったと思ったが……甘かっ
たな。劉の部下たちが、すでにこの
アパートの真下に到着した」
「なんだって……!?」
窓の外を覗くと、黒いスーツに身を
包んだ屈強な男たちが次々と車から
降り、足音を立てずに階段を駆け上
がってくる影が見えた。明らかに、
俺たちの侵入ルートか、あるいは
里奈の通信を察知したプロの回収
部隊だ。
「どうする、隆平! 包囲されてるぞ!」
「慌てるな。逃げるルートは最初から
一つしか用意していない」
隆平は冷静にスマートフォンの画面
をタップし、ビルの裏手に停めてある
ハイブリッドカーの遠隔エンジン始動
ボタンを押した。同時に、あらかじめ
「IT小僧連合」のリーダー格である
藤田が仕掛けておいた自動プログラム
を作動させる。
『おい、隆平! そっちの周辺の回線に、
警察と消防の緊急通報システムを模した
偽のハッキングパケットを大量に流し
始めたぞ! 現地警察の端末に「不審な
集団による抗争の通報」を叩き込む!』
イヤホン越しに、藤田の焦ったような、
しかしどこか楽しげな声が響く。
「頼んだぞ、藤田。派手にやってくれ」
ゴンッ!
次の瞬間、アパートの部屋のドアが
激しく叩かれた。
『中野有希さんですね。ドアを開け
てください。東京からのお迎えです』
ドアの向こうから、低く威圧的な男
の声が響く。劉の直接の部下だ。鍵の
シリンダーに特殊な工具が差し込まれ
る音が聞こえる。もう一秒も猶予はない。
「行くぞ!」
康介は里奈の腕を強く引き、部屋の奥
にある小さな窓へと飛びついた。
幸い、二階の窓の下にはアパートの
住人用のゴミ置き場と、緩やかな
傾斜のプレハブの屋根があった。
「私、高いところは……!」と怯える
里奈を、康介が無理やり窓から外へと
押し出す。
「落ちるな。……俺が支える!」
隆平が素早くノートパソコンとハード
ケースを自分のバッグにしまい込み、
最後に窓から飛び降りた。
康介たちがプレハブの屋根に着地した
直後、ガチャリと部屋のドアが内側
から破壊され、黒スーツの男たちが
なだれ込んできた。
「逃げたぞ! 追え!」
男たちの怒号が背後で響く中、康介
たちは屋根からアスファルトの地面
へと飛び降り、待ち構えていたハイ
ブリッドカーへと走り出した。
「乗れ!」
康介が運転席に飛び乗り、助手席に
隆平、後部座席に青ざめた里奈を押
し込むと同時にアクセルを踏み込む。
その背後で、遠くからパトカーの
サイレンの音が鳴り響き始めた。藤田
が仕掛けた偽の通報システムが、見事
にひたちなかの街の警察を現場へと
引きずり出したのだ。
「ちっ、パトカーか……!」
追手の男たちが車を追おうとするが、
警察車両の赤色灯が周囲を包み込み
始めたことで、迂闊に銃を抜けなく
なっている。
康介はバックミラーで追手たちが遠
ざかっていくのを確認し、そのまま
常磐道のインターチェンジへと車を
急発進させた。
車内には、重苦しい静寂と、荒い息
遣いだけが満ちていた。
「……助かったの……?」
後部座席で膝を抱えていた里奈が、
かすれた声で呟く。
「ああ。だが、これで終わりじゃ
ない。ここからが本当の勝負だ」
助手席の隆平は冷静にノートパソコン
を開き、手に入れたばかりの黒い
ハードケースをケーブルで接続した。
画面には、膨大な暗号化ファイルが
ずらりと並び始めていた。
「劉のじじいも、まさか俺たちが
そのデータを手に入れ、本人を直接
保護して逃げ出すとは思っていまい。
……さて、東京に戻ったら、この
カードをどうやってあの老人に突き
つけるかだ」
滝野川のタワーマンションへと向かう
ハイブリッドカーは、茨城の冷たい
朝の闇を切り裂き、再び首都圏へと
疾走していった。
劉洪貴との最終決戦のピースが、
いま完全に揃った瞬間だった。
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滝野川のタワマンの一室。
朝の冷たい光を浴びた東京の街並み。
室内の空気は、外気よりもさらに冷たく、
緊張感で張り詰めている。
「おい、隆平。本当にこのまま白金台
の邸へ乗り込むのか?」
「当たり前だ。逃げ回るフェーズは
終わった」と隆平。
明日も 20:00 に、投稿します。
よろしくお願いいたします。




