第11話【 劉の配下の生殖医療の闇 】
「おお! そうだよ、康介」
「劉に押さえられる前に、こっちで
里奈を確保すれば、じじいを牽制できる」
オフィスの空気が、さらに冷たく重く
沈み込む。
劉という怪物の底知れ無い執念と、
かつて康介が追った樫野里奈という女
が抱えていた巨大な秘密の重みが、いま、
康介たちの首元に冷たい刃物のように突き
つけられていた。
「劉がなぜ俺たちのクローン事業に目
をつけたか、その理由だがな、……」
「うむ。……」
「奴の配下が、中国本土の生殖医療の
闇ネットワークを監視していて、
そこで俺たちが手配した資金移動の影を
検知したらしい」
「そこから、俺たちのところに行き着
いたってわけか?」
話は、しばらく前に遡る。
康介たちのペット捜索事業が軌道に乗り、
八王子を引き払い、滝野川に移転する
話を進めてる頃だった。
港区白金台の豪壮な邸。
ガラス張りの向こうには、日本庭園が
広がる。その風景を背にして、
洪腹劉一郎――本名・劉洪貴は、
特製のチャイナティーのカップを
静かに傾けていた。
表向きの顔である「在日華僑連合会」
の会長、そして成功した貿易商として
の劉は、その日も昼下がりから各国の
ビジネスパートナーを招いた優雅な商
談をこなしていた。
「劉先生、今回の香港からのコンテナ船、
横浜港での通関手続きも滞りなく完了し
ております。
高級家具と、そちらの……仕入れ品も、
予定通りのスケジュールで倉庫に収まり
ました」
「ご苦労。相変わらず手際がいいね、
木村君。日本国内の流通網は君に任せて
おけば安心だ」
スーツをビシッと着こなした部下に穏や
かな笑みを向けながら、劉は紅茶の香り
を愉しむ。
その物腰は紳士的で、誰がどう見ても老
練で人望の厚い実業家にしか見えない。
「日本の富裕層向けの高級嗜好品の輸入
販売、そしてアジア全域に広がるサプラ
イチェーンの管理。
表のビジネスだけでも、私の資産は十分
に増え続けている。
だがね、木村君……ビジネスというものは、
ただ合法的に回すだけでは面白味がない。
光が強ければ強いほど、その足元には必
ず深い闇が広がるものだ。私の本当の
基盤がどこにあるのか、君もよく分
かっているはずだね」
「はっ……。セイント・ドラゴン以来
の血脈と、香港の本部とのパイプが
あってこその、現在の我が社の繁栄で
ございます」
劉の言葉に、部下は恭しく頭を下げる。
表の貿易商としての顔の裏で、劉が牛
耳る巨大利権の歯車は、寸分の狂いも
なく、かつ極めて血生臭く回り続けて
いた。
華僑社会の顔役という仮面の下で、
劉は常に国内外の闇のキャッシュフロー
を完全に見渡し、自らの帝国に逆らう
者がいないかを監視し続けているのだ。
だが、その完璧な帝国の一角で、
わずかな違和感が検知された。
邸の最奥にある劉の
プライベート・オフィス。
そこには、表の貿易商の華やかさは
一切なく、無機質なモニターの群れと、
極秘の通信回線が張り巡らされていた。
「ボス、中国本土の生殖医療の闇ネッ
トワーク、および東南アジアの地下
金融ルートのモニタリングから、
奇妙なデータが浮上しました」
黒いスーツに身を包んだ側近の男が、
硬い表情でタブレットを劉に差し出す。
「ふむ……何か引っかかるものでも
あったかね」
「はい。本土の不妊治療や違法な生殖
医療を手掛ける闇のブローカー共の
資金移動を監視していたところ、
東南アジアの小国に新しく設立された
ペーパーカンパニーを経由し、不自然
なドル建ての送金が繰り返されているのを
捕捉しました。金額自体はそれほど大き
くありませんが、送金のアルゴリズムや、
使われている暗号化チャットのプロトコ
ルが、かつて我が組織が使っていたもの
と酷似しています」
劉は細い目をさらに細め、タブレット
の画面をじっと凝視する。
「ほう……。単なる医療ツーリズムや、
個人の違法な代理母出産の類ではない
と?」
「調査を進めた結果、その資金は単な
る医療費の支払いではありません。
遺伝子情報の蓄積、そして動物および
特殊な生殖医療に関する機材の調達に
使われていることが判明しました。
さらに追跡したところ、その末端の
仕掛け人は、なんと日本国内に拠点を
置いています」
劉の指が、デスクの木目を軽く叩く。
「日本国内だと? 我が国のテリトリー
の足元で、私の知らないところで勝手
に生命科学の裏ビジネスをマネタイズ
している不届き者がいるというわけか。
表のビジネスを隠れ蓑にして
いるつもりだろうが、私の許可なく
この国の裏側で動く金脈など存在し
ない」
「いかがいたしましょう。すぐに始末
の部隊を送り込みますか?」
「焦るな。まずは、そやつらが何者
なのか、尻尾をしっかりと掴んでやる
必要がある。
日本の裏ビジネスか、あるいはどこかの
半グレの真似事か。徹底的に洗ってみろ」
劉の唇の端が歪み、笑みが浮かんだ。
彼の網から逃れられる者など、この
アジアの裏社会には一人もいないの
だから。
その頃、香港島の喧騒から外れた九龍
の一角。ネオンがうす汚れた路地を照
らす雑居ビルの地下室で、劉の配下
である情報工作員・陳は、煙草
の煙を吐き出しながら複数のディス
プレイに向き合っていた。
「おい、こちらのIPトレースはどう
なっている?」
陳が広東語で部下に怒鳴りつける。
「ボス、追跡は難航しています。相手
は『ゼロ知識証明』を応用した匿名
チャットと、分散型の暗号資産を巧妙
に組み合わせています。ですが、資金
の流れの末端、日本国内のクラウド
サーバーにアクセスしている発信元
のローカルIPを、ついにピンポイン
トで特定しました」
「日本のどこだ?」
「東京、北区滝野川にあるマンション
です。登録されている名義は、
『R&K探偵事務所』。代表者は、
かつて裏社会の末端でうろついてい
た若い男二人組です」
陳は冷ややかに鼻で笑う。
「探偵事務所だと? ハッ、表向きは
ちっぽけな浮気調査でもやってるつ
もりだろうが、その裏で東南アジア
の生殖ネットワークと繋がり、独自
のクローン製造スキームを構築して
いるというのか。ガキのくせにいい
度胸だ。だが、香港の本部に繋がる
このルートに触れた以上、ただで済
むと思うなよ」
陳は素早くキーボードを叩き、滝野川
の事務所に関するすべてのデータを
暗号化ファイルにまとめ上げる。
「この情報をすぐに東京の劉ボスに
転送しろ。相手がどれほどの技術を
持って隠れようとも、我が組織の網
から逃れられるわけがないことを、
そのガキどもに教えてやる」
九龍の闇夜に響くキーボードの打鍵
音は、まるで獲物を追い詰める野獣
の足音のように、冷たく乾いた響き
を立てていた。
香港からの極秘レポートを受け取っ
た劉は、すぐに行動を起こした。
自ら表立って動く必要などない。
こういう汚れ仕事や、日本の裏社会
のしがらみを利用するには、過去の
古い関係を呼び起こすのが一番効率的
だった。
「もしもし、黒川くんか?」
劉は優雅なトーンのまま、かつて自身
が利用した悪徳探偵事務所の代表・
黒川の携帯電話を鳴らした。
「はっ、はい! お電話ありがとうご
ざいます、劉会長……!
本日はどのようなご用件でしょうか?」
受話器の向こうで、黒川のあからさま
に怯え、かつ媚びるような声が響く。
「いやね、少し君に調べてもらいたい
人間がいるんだ。滝野川で小さな事務
所をやっている、康介と隆平という
若い男たちを知っているかね?」
「こ、康介と隆平……!? あいつら
は、かつてうちの下働きで使っていた
クズどもですが……それがどうかいた
しましたか?」
「ほう、やはり君の息のかかった連中
だったか。実はね、その二人が最近、
私のビジネスの領域に少しばかり不
法に踏み込んできてね。彼らの背後
関係や、最近の動向について、君が
知っている限りのすべてを私に教え
てもらいたいのだよ」
黒川はごくりと生唾を飲み込む。
相手が香港系マフィアのドンである
劉だと知れば、自分の身に何が起き
るかなど想像するまでもない。
「し、承知しております……!
あいつらのことなら、何でも知って
います。特に、あいつらがかつて
執念深く追っていた『樫野里奈』
という女の件も含めて、すべてお話
しします!」
「樫野里奈、か……。あの銀座のク
ラブで消えた、私の元秘書の名前だ
ね。彼らがその女とどう繋がってい
るのか、実に興味深い。黒川くん、
君のその忠誠心、決して無駄には
しないよ」
「ありがとうございます! すぐに、
あいつらの個人情報も、過去の調査
データも、すべてメールで転送いた
します!」
電話を切った劉は、グラスの氷をカ
ランと鳴らし、満足げに微笑んだ。
「愚かなことだ。蟻が巨象の足を
引っ張ろうと足掻いたところで、
踏み潰される運命しか待ってはいない。
さあ、すべてのピースが出揃った。
康介、隆平、そして逃げ回る樫野里
奈……。私の掌の上で、存分に踊ら
せてやろうじゃないか」
東京の冷たい夜空の下、巨大な龍の
牙が、二人の若い男たちの首元へと
静かに、そして確実にその照準を
合わせ始めていた。
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* ゼロ知識証明(Zero-Knowledge Proof, ZKP)とは、ある人が「自分がある事実を知っている」または「ある命題が真である」ということを、その事実の中身(秘密情報そのもの)を一切明かさずに、相手に納得させることができる暗号技術です。
基本的な考え方
満たすべき3条件があります。
完全性(Completeness):主張が本当に真であれば、正直な証明者は正直な検証者を必ず納得させられる
健全性(Soundness):主張が偽であれば、不正な証明者が検証者を騙せる確率は無視できるほど小さい
ゼロ知識性(Zero-Knowledge):検証者は「主張が真であること」以外、何も情報を得られない
実用例
仮想通貨・ブロックチェーン:Zcashなどで、取引の正当性を証明しつつ送金額や当事者を秘匿する
認証:パスワードそのものをサーバーに送らずに「知っている」ことだけを証明する
プライバシー保護:年齢確認で生年月日を明かさず「18歳以上である」ことだけを証明する、など
代表的な方式には対話型のものと、zk-SNARKsやzk-STARKsのような非対話型(一度のやり取りで完結する)のものがあります。
「八王子からここに引っ越してきて
正解だったな。あのままあの場所にいたら、
劉のじじいの監視網に完全に囲い込まれて
身動きが取れなくなっていたかも、……」
明日も、 20:00 に、投稿します。
よろしくお願いいたします。




