第9話 【 二億の罠(わな)と、凍(い)てつく闇(やみ) 】
「そこまでして、やるか?」
「顧客次第だな。……」
「特別スキーム、という訳だな?」
「そういうことだ。……」
「かなりの代償を貰わないと、……」
「うむ。……」
「国内に持ち込むかどうかは兎も角、
準備は進めておこう。……」
「かなりの出費になるぞ」
「……、考えておく」
1【 予期せぬ再会と、見抜かれた正体 】
「樫野里奈。……」
その名を聞いた瞬間、俺――康介の
足がピタリと止まった。
脳裏の奥底に封じ込めていたはずの
記憶が、濁った水底から浮き上がる
ように蘇る。忘れもしない。
俺と隆平が、東京・八王子の片隅で
何も知らない素人から探偵業を始め
るきっかけとなった、あの因縁の女
の名前だった。
「女房が世話になってるんだってね」
目の前に座る老人は、恰幅が良く、
高級な仕立てのスーツを纏っていた。
言葉遣いはどこまでも慇懃だったが、
その底には人を威圧するような凄まじい
澱のような凄みがあった。
――いったい、何者なんだこいつは?
「まさか、貴殿が直接の
捜索担当者だったとはね、……」
「当時は、私は、まだ
駆け出しのアルバイトでして、……」
冷や汗が背中を伝うのを隠しながら、
康介はしどろもどろになって答える。
かつての泥臭い探偵事務所時代の記憶
が、急に現実の喉元に突きつけられた
ような感覚だった。
「そうだってねぇ。黒川君から聞いた
よ」
黒川というのは、俺たちが最初に下働き
としてしがみついていた、あの悪徳に近
い探偵事務所の代表の名前だ。
「どうだろう? 改めて、君に頼みたい」
「……。樫野さんの捜索を、ですか?」
「勿論だ。……」
「……」
「それなりの礼はするよ」
「はぁ。……」
以前の捜索で直面した、あのどう
しようもない人間の業や、複雑に
絡み合った悲哀の記憶が蘇る。
それに、この目の前の人物の不気味
さだ。
――はたして、この男の依頼を素直
に受けていいものか?
俺の全身の勘が、ヒリヒリと危険
信号を鳴らしていた。
「女房のペット、もう先が長くない
かもしれないんだ。……」
老人は、ふっと目を細めて窓の外を
見た。
「……」
「全く同じ姿のものを、あんたたちが
手配できるんだろ?」
「! ……」
その言葉を聞いた瞬間、心臓が凍り
ついた。
――ヤバい。こいつ、俺たちが裏で
進めているクローンのスキームを、
完全に嗅ぎつけてやがる!
俺の頭の中で、黄色信号が一気に
真っ赤な警報へと切り替わった。
「その折には、そういう
替わりのペットの手配も頼みたい。
リスクはもちろん承知している。
愛する女房の為だ。費用が億に
届いても構わない」
「! ……」
――1億円なら、俺たちが作り上げ
てきたこの禁断のビジネススキームが、
一気に軌道に乗る! だが、しかし……。
「樫野君の行方についても、同額を
用意する」
「! ……」
――里奈の捜索に1億、クローンの
手配に1億。合わせて、総額2億
の巨大なビジネスだ。
「どうだね?」
「そ、即答しなきゃ、ダメですか?」
かろうじて、乾いた声でそう絞り出す。
「返事は、早い方がいいねぇ。
私の時間はそう多くない」
「はい、……。共同経営者にも一度
諮りませんと、……」
「ほぉ~、……。共同経営者ねぇ」
老人の目が、ニヤリと底意地の悪く
歪んだ。
――もしかして、俺だけでなく、隆
平の動きまですべてコイツに把握
されているのか……?
俺は冷や汗を拭うことも忘れて、
這う這うの体でその
豪邸を辞した。
2【 事務所の密室と、凍りついた空調 】
移転したばかりの滝野川のビル。
事務所のドアを勢いよく開け、俺は
息を切らせながら部屋に飛び込んだ。
「どうしたんだよ、そんな青い顔して」
デスクで書類を整理していた隆平が、
怪訝そうに顔を上げる。
俺はドアをしっかりと内側から鍵をかけ、
カーテンを閉め切ると、そのままソファ
に崩れ落ちた。
「おい、隆平……ヤバいことになった
かもしれない」
「何がだ」
俺は、あの老人のもとで言われたすべて
のやり取りを、途切れ途切れの息継ぎと
ともに吐き出した。
樫野里奈の名前。黒川という名前。
そして、俺たちが裏で進めている
クローン事業の機密、さらには総額
2億円という法外な報酬の提示。
それを聞いた隆平の表情から、
すべての血の気が引いていった。
「……ふっ」
隆平は乾いた笑いを漏らし、手元の
ペンを机に置いた。
「寒い! 寒すぎるぞ、これは……」
「どうするよ、おい。俺たちの足元、
完全に掴まれてるぞ」
隆平は立ち上がり、狭い部屋の中を
ゆっくりと歩き回る。その顔は、
かつてないほど険しかった。
「康介、お前は気づいてないのか?」
「なにがだよ」
「その老人がどんな奴なのか、本当
に分かっていないのか」
「ただの資産家という訳じゃなさそ
うだ。恰幅が良くて、途方もない権力
と金を持った怪物みたいなじじいだ」
「……」
隆平は窓の外の薄暗い空を見上げ
ながら、ポツリと言った。
「黒川が俺たちの情報を流した、
あるいはその老人が黒川を買い取った。
どっちにしろ、俺たちが水面下で
動かしてきたペットのクローン
ビジネスの裏ルート、そのすべてが
向こうの掌の上にあるってことだ」
部屋の空気が、まるで真冬の冷凍庫
のように凍りついていく。
「じゃあ、俺たちはどうなる?
嵌められたのか?」
「嵌められたのか、それとも巨大な
蜘蛛の巣に自分から飛び込んだのか、
それはまだ分からない。だが、2億
という金額は魅力的だが、一歩間違え
ば、俺たちは法の裁きどころか、どこか
の海の底に沈められるような連中と繋が
ってしまったってことだ」
逃げ道はない。
依頼を断れば、これまでの悪事がどこへ
通報されるか分からない。かといって、
この底知れない老人の巨大な罠にこの
まま飛び込めば、二人の人生は完全に
その男の玩具にされてしまう。
「どうする、隆平……」
俺の問いかけに、隆平は目を光らせた
まま、静かにこう呟いた。
「乗るしかないだろ。……たとえそれが、
地獄への片道切符だとしてもな」
滝野川の冷たい夜風が、眼下の街に吹い
ている。
康介と隆平の心を、揺らし続けるように。
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老人の提案は、裏社会からの
悪夢の招待状か。
明日、20:00 に、第10話を掲載
します。よろしくお願いします。




