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最終章 平井入道芳眼討伐之次第 中

 政所まんどころを目指す与三郎の足取りは重かった。

 与三郎が殺したのは、普段は村の中心となって働いているのであろう壮年の百姓ばかりであった。与三郎は、これらの死体にすがりついて泣いている女子供、老人たちの姿を思い返していた。働き手を失った彼らの先もそう長くはあるまい。与三郎が殺したのは男どもだけではなかった。

 路上に二人の影が長く伸びる。峠の中腹から稲富荘を見おろした時には清冽だった日が、西に傾きはじめてきた。

 政所が見えてきた。もし周囲が柵で囲われていなければ、そこが政所かどうか分からないほど荒れ果てた、粗末な小屋であった。

「これが政所……」

 与三郎は困惑した。

 寺社本所領を押領するような代官は、自らの身代を肥やすために押領するわけだから、生活の場を豪奢に飾る傾向があった。少なくとも与三郎が十年前に根絶やしにした伊佐嶋荘の代官はそうだった。代官の根城が豪奢を極めていくのと反比例するように、百姓たちの住処は荒れてゆき、大きくなった根城から炊事の煙が盛んに上がるのに反比例して、百姓たちは痩せ細っていった。

 もしこの法則を当てはめるとしたら、政所が廃屋同然に荒れているというのであれば、百姓たちの住処は立派に、政所からまったく炊事の煙が上がっていないというのであれば、百姓たちは肥え太っていなければ道理に合わぬ。しかしここ稲富荘においては、政所も百姓の住処もことごとく荒れ果てており、政所からは炊事の煙が一条ひとすじも上がっていないのに、百姓たちはみな押し並べて痩せ細っていた。代わりに豪奢を極めた住処に住み、盛んに炊事の煙を上げている何者かがどこかにいるはずであった。それがどこの誰なのか、与三郎もうすうす気付きつつある。

 与三郎は建て付けの悪い政所の扉を力ずくで開いた。夕刻に差し掛かった政所の中に灯火はなく、薄暗かった。昨夏に生い茂ったのであろう雑草は冬の間に枯れ果て、中庭を覆い尽くしていた。枯れ草を踏みしめて中庭を抜けた与三郎と狛若は、対面所へと上がり込んだ。人の気配はなかった。

「待っておったぞ」

 にわかに聞こえた弱々しい声に、ぎょっとする与三郎と狛若。声の主を見れば、奥の間に座する痩せた隻眼の老人がひとり。まとっている法衣の寸法が体にあっておらず、だらりと下がった襟首からあばらの浮き出た胸がのぞいている。頬は痩け、肌に生気は失われているが、見開かれた片眼だけは、強く光っていた。

 与三郎が問うた。

「平井入道か」

「左様である。本寺の者じゃな。名はなんと申す」

「与三郎。百姓どもはあらかた討った。狼藉を働いたゆえに」

「そうか。本寺の刺客が来ると聞いて、皆いきり立っておったからな。よう止めなんだ。許せ」

「刺客? 我らは押領人討伐の命を受けて来ただけだ。百姓どもになんのむごい仕打ちをする肚もなかった」

「百姓どもはそうは考えておらなんだ。わしが討ち果たされれば、もっとむごい仕打ちを受けると信じておった」

「誰がそんなことをするというのだ」

「……かかる飢饉の折節、坊舎修築のためにさらに銭を出せなどと」

 平井入道がここまで言うと、狛若が顔を真っ赤にしながら言った。

「嘘だ! 与三郎さま、早く斬って下さい!」

「わしは見た。僧が……赤子を……」

 平井入道は激しく咳き込み、ぜえぜえと息を整えると

「わしは、救うはずだった。救うはずだった百姓どもを、そなたはあらかた斬ってしまった。残された者も長くはつまい。わしは……わしはなんのために今日まで……」

 隙間だらけの板塀から差し込んでいた西日は沈み、政所の対面所は闇に包まれていた。虫の音だけがひっきりなしに聞こえるなかに、平井入道の咳と苦しげな呼吸がときおり混入する。しばしの沈黙を破って平井入道が言った。

「よくこそ参った与三郎。諸事その目に見たであろう。これより取って返し香大寺を討って、民百姓の愁いを除くべし」

 平井入道はこと切れた。

「騙るな押領人!」

 狛若の甲高い声が響いた。しかし与三郎は、狛若に構うことなく踵を返した。与三郎は、これより香大寺へと取って返し、同寺別当圓曼大僧正を討たなければならなかった。

「いけません与三郎さま!」

 すがるようにその歩みをとめようとする狛若だったが、与三郎は止まらない。

退け狛若」

「いやだ! 圓曼さまが間違えるはずがない……」

 与三郎の覚悟を見て取った狛若が与三郎から脇差を奪う。闇に慣れた与三郎の目が、震えながら短刀を構える狛若の姿を捉えた。

「やめろ狛若。返すんだ」

 手を差し出して求める与三郎に

「いやです。圓曼さまを殺さないとお約束いただくまでは返せませぬ」

 嘘でも殺さないと言えば狛若は脇差を返したかもしれない。だがそのたったひと言がどうしても出てこないのである。

「返せ狛若」

「どうしてもお約束いただけないのですね」

「そなたも聞いたであろう」

 平井入道の言葉を。

 痩せ細った村人たちや平井入道自身の姿、誰ひとり豊かになどなっていない稲富荘の実相を見渡せば、それが虚言でないことは明らかであった。守るべき百姓たちをあまた討った与三郎にできることは、ひとつしかない。

「分かりました。そうまでおっしゃるのでしたら狛若を討ってからにして下さい!」

「なぜそこまで圓曼に忠節を貫こうとする! そなたの見てきたものはなんだ!」

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