最終章 平井入道芳眼討伐之次第 前
険しい峠道をこえ、下り坂の中腹より稲富荘を見下ろす二人。
百姓たちが棄てたはずの田畑に新緑が点在してみえる。苗かと思ったがそうではなく、厳しい冬を越えて芽吹きはじめた雑草であった。
ほんらいであれば田植えが本格化するのはこれからであった。田畑を雑草ごと鋤き返し、水を引いた田に百姓総出で苗を並べていくのが常の光景であった。しかし稲富荘の百姓たちはいま、名主平井入道の収奪を恐れ憎み、まったく小屋あがりしてしまっていた。逃散――耕作放棄は名主の苛政に百姓が対抗する数少ない手段のひとつではあったが、田畑で生み出される作物は百姓たちの糧でもあるのだから、長引けば百姓自身が飢えるのは必定であった。
(一刻もはやく平井入道を討伐せねばならぬ)
与三郎は村に一歩を踏み入れた。
村は静かであった。沿道に建つ粗末な小屋や一面に拡がる田畑に人の姿はない。声も聞こえない。鳴っているのは吹き抜ける風の音と、二人の足音だけであった。
与三郎は気付いていた。
無人を装う掘っ立て小屋に百姓たちは隠れ潜んでおり、村に侵入した二人の姿をいままさに凝視していることに。そしてそれが、物珍しさからくる好奇の視線などではないことにも。
「みな殺気だっておるな」
緊張にたえかねて、与三郎が呟いた。
「無理もございません。命がけで小屋に上がった人々ですから……」
狛若は自分自身に言い聞かせるように答えた。
与三郎は、ともすれば鬼喰の柄を握ろうという手を止めなければならなかった。殺気にいらだってその柄を握らんか、百姓たちが先手必勝とばかりに襲いかかってくるであろうことが容易に推察できたからである。狛若も同じことを考えているものとみえる。与三郎より預かっている左文字をいっそう強く抱きしめた。
「狛若、気を抜くなよ」
「与三郎さまも……」
狛若が答えるや否や、与三郎の右手がついに鬼喰の柄を握った。
目にもとまらぬ早業で大太刀を抜くや一閃、逆袈裟に切り上げると、カチンと鳴って一寸四方の石が中空へと弾きあげられる。石は真っ二つに割れていた。
「印地(投石)だ! 気をつけろ!」
与三郎が叫ぶと同時に、まるで堰を切ったかのように無数の石が二人に向かって投げつけられはじめた。気がつけばどこからか湧いて出てきた百姓ども。ざっと十数名はいるだろうか。壮年者ばかりではあるが、その顔はみな押し並べて青い。痩せ細った腕を懸命に振り回し、手当たり次第二人に向かって石を投げつけてくる。
「よさんか! やめい!」
呼びかける与三郎。
与三郎が鬼喰を振るえば、百姓どもが崩れ立つことは目に見えていた。やろうと思えばなで切りも不可能ではなかろうが、そもそも与三郎にとって百姓どもは討伐の対象ではない。
与三郎は百姓たちに呼びかけ続けた。
「我らはそなたらを救わんがために香大寺より遣わされてきた者! 村に仇なす者ではない、味方じゃ! 味方であるぞ! ええいやめよと申すに!」
いくら与三郎が訴えても投石はやまなかった。
「やはり本寺の手の者だ!」
「思ったとおりだ! 帰れ!」
「平井さまに近付くな!」
「あの方まで失うわけにはいかねえ!」
怒号と共に飛んでくる石のいきおいは弱かったが、数の多いことには両名とも閉口した。与三郎は鬼喰を収めると、長物のように振るって石を弾いた。
その時、与三郎の背後から、狛若の甲高い叫び声が聞こえた。
「いたいっ」
「狛若、大丈夫か!」
見れば狛若の右の目尻から血が流れている。
「見せてみよ」
与三郎があわてて狛若の傷を確かめると、珠のように白くみずみずしい肌に小指の先ほどの裂け目が赤く開いている。与三郎は懐より取り出した手ぬぐいを狛若の目尻に押し当てた。
「すまぬ、自分のことで精一杯で」
与三郎が言うと、手ぬぐいをあてがうたくましいその腕に狛若が手を添えた。
「直々のお手当、狛若は幸せでございます与三郎さま。狛若はなんともございません。与三郎さまこそお怪我はございませんか」
「ない。大丈夫だ」
主従が互いを気遣っている間にも無数の石つぶてが飛んでくる。そのうちのひとつが与三郎のこめかみに命中した。
その瞬間、なにかが切れた。
与三郎はふたたび鬼喰を抜くと、鞘を投げ捨て、防勢から一転、百姓たちの群れにおどりかかった。与三郎の獰猛な姿におそれをなした百姓たちは碌に抵抗もせず崩れ立ち、背中を見せて逃げ惑う。しかしそんな弱者の姿を見ても与三郎の怒りは鎮まることがなかった。
――狛若を傷つけるとは!
鬼喰が光った。逃げる背が裂け、斃れ、また斃れた。辺り一面はあっという間に血の海になった。
悲鳴と咆哮はやんだ。
風の音、木々のざわめきは相も変わらぬ。春のぬくもりに誘われたものか、蝶が畦の菜の花にひらひらりと舞った。
しばしの静寂ののち、ひとりふたりと姿を現したのは、女や子供、老人たちであった。
「あんた……あんたしっかり」
「太兵衛、死ぬでねぇ……」
血まみれの死体にすがりついて泣いている。
狛若とさほど歳の変わらぬ子が石つぶてを握ると、母親がその手を止めた。憎悪に歪む母子の顔。
「行きましょう、与三郎さま!」
狛若の声が震えていた。




