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第五章 春霞之夕霧 後

「何者か」

 与三郎が重ねて問うと、女は言った。

「やっと会うことができましたね新右衛門さま……」

「新右衛門……?」

「誰です? 新右衛門って」

 狛若が訊ねたが

「知らん名だ」

 与三郎には心当たりがない。

「よもや忘れたとは言わせませぬ。わらわを……この春霞はるがすみ夕霧ゆうぎりを必ずや身請けすると仰せになったその言葉、忘れてはおりませぬ」

 その時であった。狛若が震える声で叫んだ。

「与三郎さま、足が……足がありません!」

 見れば確かに足がない。なにより暗闇の中に姿が見えるというのも解せぬ話である。

「貴様……昼間の婆だな!」

 与三郎が大喝すると、春霞の夕霧と名乗った女は美しく整った顔を一変させた。眼を剥き口は耳まで裂け上がり、逆巻く長い髪からときおり鬼女の角まで見える。

「婆とは何事ぞ、与三郎とは何者ぞ、なにゆえ新右衛門さまに非ずや!」

 いかに人外とは申せ女相手に鬼喰を抜くをためらっていた与三郎であったが、耳をつんざく鬼女の叫び声が危急を告げる。鬼喰を手にとるや、固く結ばれているとばかりに思っていた鞘袋の紐は既に解かれ、いつでも抜くことができるように準備されていた。鬼女の姿の声に怖じ気づきながらも、必死に狛若が解いたのであった。

「鬼をも喰らうこの鬼喰で、まさか鬼女を斬ることになろうとはの!」

 与三郎は一文字に鬼喰を振るった。胴を輪切りにしたはずだが手応えはない。怪異ゆえか。

「新右衛門さまは決してそのような無体をはたらかなんだ。やはり、やはりそなたは新右衛門さまではない!」

「さっきから左様に申しておる!」

「与三郎とか申したな! なにゆえ妾の前に現れた! なにゆえそなたは新右衛門さまではないのじゃ! 新右衛門さまを返せ! あな、あな口惜しや!」

 鬼女の金切り声が次第に涙の色を帯びてくる。

「聞けよ与三郎」

 夕霧は腫れた恨めしげな視線を与三郎と狛若に向けながら語りはじめた。

「妾は婆ではない。京の都に名を馳せた名妓、春霞の夕霧。笛と鼓の音に舞い、大将軍や有徳人うとくにんと浮き名を流した京の名妓、春霞の夕霧」

 夕霧はかつての栄華を思い起こしているもののように、静かに舞い始めた。

「されど、されど妾が本当に心を許したのは新右衛門さまだけ」

 夕霧は、大将軍や有徳人からたびたび身請けを申し入れられたが、そのすべてを断ったという。

(馬鹿な男たち……こんな取るに足らない芸や、かりそめの美しさに喜んで……)

 そんなときに夕霧の前に現れたのが新右衛門だった。新右衛門はまだ若かったが大将軍の奉公衆だった。夕霧は新右衛門に恋をした。

 新右衛門は純朴であった。新右衛門は歌や舞いを好まず、夕霧を傍らに置くことを望んだ。夕霧は、盃を口に運ぶ新右衛門の物静かな横顔を間近に見ているだけで幸せだった。 

 あるとき夕霧は、新右衛門の切れ長の眦に口づけした。

「よさんか」

 新右衛門が言った。頬が赤らんだのは酒のためか。

 ある晩、褥にて新右衛門が言った。

「明日出陣と相成った。いくさが終わって帰ってきたら必ずやそなたを身請けする。待っておれ」

 夕霧が新右衛門の厚い胸板にすがったこれが最後となった。新右衛門はついに帰らなかった。

「討ち死にしたものか、他の女と結ばれたものか、今も知れぬ」

 夕霧の慟哭だけが廃寺に響く。

「与三郎、そなたは新右衛門さまにうり二つ。かくなるうえは共に冥府へと参らん」

 わっと迫る鬼女。屍臭と香の交ざりあったような臭いがした。身構える与三郎。呼吸が浅くなり、身を躱して逃げることもできない。

「与三郎さま!」

 狛若が与三郎に抱きついた。

 来るか、と思われた鬼女は襲いかかってこなかった。見ればそこには夕霧。ぽつりと佇んでじっとこちらを見つめている。

「それなる稚児は、与三郎を愛しているのかい?」

 狛若、否とも()とも答えず、ただ黙って頷いた。

「坊は妾と同じ。坊を一人にしたらかわいそう」

 夕霧から鬼女の面影が消え、与三郎の身体を縛っていた見えない何かがいつの間にか解かれていた。

「怖い思いをさせました与三郎、そして坊。許しておくれ」

 さめざめと泣いたあと、夕霧は言った。

「このうえ何事か願い事をするのは心苦しいけれども、聞いてくれるかえ与三郎」

 与三郎は黙って頷いた。

「この寺にある無縁墓こそ百年前に死んだ妾の墓。今生に思いを遂げる能わず、妾を弔ってくれるはずの寺もこのとおり廃れてしまった。妾は本当は新右衛門さまがこの世にいないことを知っている。けれども未練のためにこのように夜な夜な迷い出てきてしまうのじゃ。妾は本当はこんなことをしたくない。どうかどうか、妾を供養して、浄土へと送り出しておくれ与三郎。頼みましたよ与三郎」

 夕霧はかくいうと、静かに闇へと消えていったのであった。

 翌朝、二人は破れた屋根から差し込む強烈な光で目を覚ました。どちらともなく無縁墓に向かった与三郎と狛若。無数に並ぶ無銘の墓のいったいどれが夕霧のものか、むろん二人は知らない。夕霧の無念を思い、ただ手を合わせるだけでよかった。

 狛若の目の前をひとひらの花びらが舞い落ちた。

「夕霧さんが空に還っていった」

 春が間近に迫っている。

「急ごう。皆が待っている」

 手を携えあいながら与三郎と狛若が歩き始めた。峠を越えたらいよいよ稲富荘だ。

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