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第五章 春霞之夕霧 前

 旅の二人に雨が降る。簑笠に身を包む大小二人。


「急ぐぞ狛若」


 夜になる前に、どこかしら雨をしのげる場所を見つけなければならなかった。


「与三郎さま、これを……」


 狛若が懐より取り出したのは鞘袋であった。湿気から鬼喰を守らねばならなかった。


「すまぬ」


 与三郎が鬼喰を鞘袋に入れると、狛若は袋の紐を固く結んでこれを手伝った。


(あまり固く結んでくれるな。いざというときに抜くのが遅れる)


 与三郎は苦言を口にするところであったが、鬼喰を濡らすまいというきっと狛若なりの心遣いなのだろう。与三郎は狛若の思うように紐を結ばせることにした。


「すまぬ」


 与三郎が重ねて言った。


「やめて下さい与三郎さま。これしきのことで……」


水干の肩に雨が染みこんでいる。


「急ごう」


 雨脚が途端に強くなってきたので、与三郎は狛若の手を引きながら街道に並ぶ松の木影に駆け込んだ。


「弱りましたね……」


「しばらく待つしかあるまい」


 駆け込んだ先はよく茂った松の木影であったが、完全に雨を防いではくれなかった。春は相当近付いてきてはいるが、それでも雨に濡れてひと晩過ごせば寒さのために体調を崩すに相違ない。雨脚が弱まった頃合いを見計らってどこかしら宿を探す必要があった。


 そのときであった。狛若がはっと息を呑んだ。


「いかがした狛若」


「あ……あれを」


 狛若が指差した先に、簑笠に身を包んだ何者かが雨の路上に屈み込んでいる姿が見える。


「先ほどまであんな所に人はいませんでした。もしや怪異かも……」


「馬鹿を申すな」


 与三郎は狛若が止めるのも聞かず木影を飛び出した。松の木影まで連れて行くためだった。


 雨にうたれながら、与三郎が簑笠に身を包んだ人物を助け起こすと、皺だらけの老婆。


「あれなる木影に」


 与三郎は老女を松の木影に誘った。


「ありがたや。どなたかは存じませんがこのような老いぼれにお手を貸していただいて……」


「旅の道中には見えんが」


「人を待っておったのでございます」


「こんな雨では待ち人が来ることもあるまい。時にどこか宿はないか」


「あれに宿が……。間もなく雨も弱まりましょう。向かわれたがよい」


 与三郎がその指差す先から老女に視線を戻すと、その姿は忽然と消えていた。


「やっぱり怪異ですよ与三郎さま!」


 青くなってがたがた震えながら言う狛若。


「そうだったのかも知れんがもう消えた。親切を施した我らに仇なすこともあるまい。そら見ろ、婆の申したとおり雨が弱まって参った。行こう」


 二人は松の木影を出ると、泥にぬかるむ道を、老女の指差した先に向かって速歩に歩いた。しかし見えてきたのは見るからに苔むした廃寺であった。


「やっぱり化かされたんですよう、与三郎さまぁ」


「情けない声を出すな狛若」


 廃寺を前に呆然と立ち尽くす二人。無情にも雨脚が再度強まってきた。日も相当傾いてきている。今から他に宿を探しあてることなどもうできないだろう。


「ここに泊まろう」


「怖い」


「怖いことなどあるか。俺と一緒だ」


 狛若の肩を、与三郎は強く抱いた。


 雨漏りの酷い廃寺であったが、幸い中心部の居住部分は無事であった。囲炉裏もある。薪さえあれば寒さをしのぐこともできよう。しかし


「湿ってなかなか火がつきません」


 何度石を打ってもなかなか藁に着火せず苦労する狛若。


「もうよい。寝よう」


 与三郎はごろりと横になり、狛若を包み込んだ。


「与三郎さま」


 真っ暗な廃寺に狛若の声が鈴にように鳴った。


「どうした狛若」


「あったかい」


 全身を与三郎に包まれている狛若は温かいかもしれなかったが、与三郎の濡れた足先は冷えたままであった。それでも与三郎が


「俺もだ」


 と答えた所以は、もし足先が冷えていることを正直に言ったならば、きっと狛若はそれを温めようと、あれこれ気を回すに違いないと思ったからであった。与三郎の嘘に安心したのか、狛若は間を置かずすやすやと寝息を立てながら与三郎の懐に寝入った。


 その時だった。


「何やつ!」


 殺気を感じた与三郎が突然ガバと跳ね起きた。


「うわぁ!」


 急に起こされて素っ頓狂な声を上げる狛若。与三郎が視線を向ける先を見ると、そこには夜の霧に浮かぶ月よりも青い顔をした若い女が、与三郎をじっと見つめながら立っていた。

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