第3章「予兆」
――前回までのあらすじ――
やけに鮮明な「海の見える部屋」の夢を見た美月は、目覚めると左手に覚えのない引っかき傷を見つける。以来、日常の随所で強いデジャヴに襲われるようになり、耳の奥では正体不明のノイズが響き始めていた。
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あの夢から数日が過ぎた。
金曜日の研究室は、いつもより人が少ない。
午前中のゼミが終わると、学部生はそのまま帰ってしまう。残るのは修士以上のごく少数で、午後には研究室の半分が空席になる。美月はそういう静かな午後が嫌いではなかった。自分のデータに向き合う時間が長くとれるし、誰にも話しかけられない。
隣の席で晴也がキーボードを叩いている。規則正しいリズム。ときおり止まって、画面を睨んで、また叩く。集中しているときの晴也は無口だった。ふだんの軽口が消えて、代わりに背中が少しだけ丸くなる。
「コーヒー買ってくるけど」
美月が立ち上がると、晴也のキーボードが止まった。
「ついでに頼んでいい? ブラック」
「わかった」
美月は財布を持って研究室を出た。
一階の自動販売機まで降りて、缶コーヒーを二本買った。ブラックと、微糖。晴也はブラック。美月は日によって変わる。今日は微糖にした。なんとなく甘いものが欲しかった。
階段を戻りながら、缶の冷たさが両手に伝わっていた。秋が深まってきている。先週まではまだ冷たい缶が心地よかったのに、今日はすこし指がかじかむ。
研究室のドアを開けると、晴也が伸びをしていた。
「ありがと」
缶を受け取って、プルタブを開ける。一口飲んで、画面に視線を戻す。美月は自分の席に座り、微糖の缶を開けた。
コーヒーを買いに行くのは、だいたい美月の方だった。晴也が「ついでに」と言う。美月が買いに行く。それだけのことだった。「一緒に行こう」とは晴也は言わない。言ったことが一度もない。美月はその距離感を自然だと思っていた。同期の友人にはよくある距離感だ。
晴也がどう思っているのかは、考えたことがなかった。
◇
十七時。佐伯ゼミの懇親会——というほど大げさなものではなく、研究室の数人で駅前の居酒屋に行くだけの集まりだった。佐伯先生は来ない。修士と博士課程の院生が六人。美月と晴也のほかに、同期の安藤、後輩の宮田と橋口と赤松。
個室ではなく、カウンター席と小さなテーブルの店だった。晴也が端の席を確保して、美月がその隣に座った。自然にそうなった。いつもそうなる。
生ビールが来て、乾杯して、枝豆をつまみながら研究の愚痴が始まる。安藤が被験者集めに苦労している話。宮田がPythonのライブラリのバグを二日間追いかけた話。晴也がそれを聞いて「どのバージョン?」と即座に訊く。こういう場面での晴也は速い。他人の問題を自分の問題のように扱う。解決策を出す。面倒見が良い——というより、問題があるとそこに向かわずにいられない体質だった。
「桐生さんって、困ってる人放っておけないですよね」
後輩の橋口が言った。酔いが回り始めている。
「別にそういうんじゃねーよ。バグの話は単純に面白い」
「でも前も、赤松のデータ復旧手伝ってたじゃないですか。あのとき自分の締め切りやばかったのに」
「あれは——まあ、目の前にあったから」
晴也はジョッキを傾けた。
「美月ちゃんの論文テーマ、決まった?」
安藤が訊いた。
「まだ」
「まだ? 佐伯先生に怒られない?」
「佐伯先生は怒らないから」
「それはそれで怖くない?」
美月は少し笑った。怒られないから決められないのかもしれない。締め切りがあれば選べるのに、時間があると選べなくなる。
「どっちのテーマでもいいんじゃね。美月が面白いと思う方で」
晴也がぽつりと言った。ジョッキの縁を指でなぞりながら。
「それがわからないの」
「わかんないんじゃなくて、決めたくないんだろ」
核心に触れた。また。
「……かもね」
「どっちかが消えるのがいやなんだろ。おれにはわかんないけど、そういうのあるよな」
そこで話題が変わった。安藤がスマートフォンの画面を見せて、実験室の機材が壊れた写真を出した。晴也がそちらに体を向ける。
美月はそれを——優しさだと思っていた。踏み込みすぎないことが晴也の美徳だと。
◇
二十一時。
二軒目の話が出たが、美月は断った。明日もデータ整理がある。ほんとうは疲れていた。ここ数日、眠りが浅い。あの夢——海のある部屋——以来、夜になると体がこわばる。
「じゃ、お先に」
美月が立ち上がった。晴也が口を開きかけた。
——まだいなよ。
そう言おうとした気配が、あった。気配というのは正確ではない。晴也の唇が動きかけて、止まって、別の形を選んだのが見えた。
「気をつけてな」
笑顔。ごく自然な笑顔だった。だが美月の耳には、その笑顔が声より一瞬だけ遅れて届いた気がした。声が先で、顔があとから追いつく。——あるいは、顔が声のことを知らなかったかのように。
「ん、おつかれ」
美月は店を出た。
駅前の通りを歩きながら、晴也の「気をつけてな」が頭の隅に残っていた。残っていることに意味はない。同期に「気をつけて」と言われることは珍しくない。
夜風が冷たかった。嶺咲市の夜は静かで、繁華街と呼べるのは駅前のこの一角だけだ。五分も歩けば住宅街に入る。街灯の下をひとりで歩く。靴の音が自分にだけ聞こえている。
——ここ数日のことを、誰かに話すべきだろうか。
あの夢のこと。デジャヴのこと。研究室のドアを開けられなかったこと。
話すなら晴也だった。ほかに親しい友人がいないわけではないが、日常の延長で「変な夢を見た」と言える相手は晴也くらいだった。けれど言えない。言えないのは——夢の内容が怖いからではなく、言葉にした瞬間に「大丈夫だよ」と返されるのがわかっているからだった。晴也はそう言う。そう言って、大丈夫にしてくれようとする。それは優しいことだけれど、大丈夫にされたくない何かがあった。
大丈夫じゃないかもしれないと思いたい自分がいた。
——いや、そんなことはない。
美月は頭を振った。大丈夫に決まっている。夢は夢だ。デジャヴは海馬のエラーだ。論文のテーマにしようとしていることを、自分の身体が先取りしただけかもしれない。認知科学をやっていると、そういうバイアスはある。知識が体験を歪める。
アパートの坂道を登りながら、ふいに思い出そうとした。
小学校のこと。
先日の食堂で晴也に訊かれたとき、何も答えられなかった。「普通だった」としか言えなかった。あれから気にならなかったと言えば嘘になる。嘘になるが、気にしていたわけでもない。ただ、時折ふっと浮かぶ。小学校時代の記憶がどこにあるのか。
通っていた小学校の名前。思い出そうとした。
——出てこない。
校舎の色。友達の名前。運動会で何をしたか。修学旅行の行き先。どれも手がかりがない。手がかりがないのは、忘れたからだ。子供の頃の記憶なんてそんなものだ。晴也だって「だいぶ曖昧」と言っていた。
ただ、曖昧なのと、何もないのは違う。
晴也には「遠足でゲロ吐いた」という断片があった。鮮明な一場面。嫌な記憶ほど残る。美月には——その「嫌な一場面」すらなかった。良い記憶も悪い記憶もない。霧の向こうに何かがあるのではなく、霧そのものしかない。
坂の途中で足が止まった。
自分の小学校時代が、空白だ。
認識した。認識したが、それ以上は考えなかった。考える材料がなかった。空白には手が届かない。
美月はアパートの階段を上がり、鍵を開け、靴を脱いだ。
本棚の前を通った。高校と大学のアルバムが二冊。小学校のアルバムはない。この間も確認した。ない。実家にもないかもしれない。実家に電話して訊けばいいのだろうが、何を訊けばいいのかがわからない。「私の小学校のアルバム、ある?」——それだけの質問なのに、電話をかける気にならなかった。
答えが怖いのではない。答えが「ないよ」だったときに、次に何を考えればいいのかがわからないのだ。
シャワーを浴びて、髪を乾かして、布団に入った。
スマートフォンを見ると、晴也からLINEが来ていた。飲み会の写真。安藤が酔いつぶれて宮田に寄りかかっている写真。
〈安藤が大変なことになってる。おれは無事。帰ったら連絡して〉
最後の一文。——帰ったら連絡して。
美月は〈帰ったよ、おつかれさま〉と返した。
返してから気づいた。晴也は美月が帰ったかどうかを気にしていた。夜道をひとりで歩いて、無事にアパートに着いたかどうかを。それを「帰ったら連絡して」というカジュアルな一文に収めている。心配していることを心配として見せない。
——いい人だな。
美月はそう思った。それ以上のことは思わなかった。
目を閉じた。今夜はノイズが聞こえなかった。静かだった。静かなのに、眠りに落ちるまでの時間が長くなっている。暗闇の中で指が動いた。薬指をなぞる。何もない指を、何かがあった場所のように。
なぞりながら——ほんの一瞬、誰かの手のぬくもりが指先に触れた気がした。大きくて、乾いた手。自分の手ではない誰かの手が、指を包んでいる感覚。
一瞬で消えた。
美月は指を止めた。寝返りを打って、壁の方を向いた。
手の感触を、追わなかった。追えば何かが見えるような気がした。それが怖かったのではない。追って何も見えなかったら、自分がおかしいのだと認めなければならないから。
何も起きていないことにした。
眠った。
◇
同じ夜。
居酒屋を出た晴也は、駅前のベンチに座っていた。
安藤を宮田に託して、ひとりになった。電車は二十分後に来る。スマートフォンの画面にLINEの通知。美月からの〈帰ったよ、おつかれさま〉。既読をつけて、返信を打ちかけて、やめた。何を打てばいいのかわからなかった。「おやすみ」か。「よかった」か。どちらも大丈夫だが、どちらも足りない。
——いつからこうなったんだっけ。
最初に隣に滑り込んできた日のこと。遅刻しかけて走ってきた顔。「すみません、ここいいですか」。「どうぞ」。それだけ。あの日のそれだけが、まだ消えない。
兄貴のことを思い出す。桐生拓也、三つ上、医学部。一発で国試受かって、いまは大学病院で三年目。親が食卓で拓也の話をするたびに、晴也は黙って箸を動かしていた。比べられてる。わかってた。嫌だった。でも嫌だと言ったところで何も変わらない。兄貴が優秀なのは事実。情報工学を選んだのは違う道を行きたかったから。裏を返せば、ずっと兄貴を意識してるってことだ。
二番目。二番手。それでいい。そう思ってきた。
美月の隣にいるのも、同じだ。隣の席。コーヒーを飲む距離。飯を食う距離。「ついでに」の距離。——その先に踏み込んでいいのか、わからない。
踏み込んで断られたら。友人でいられなくなったら。あいつの穏やかな日常に、自分の感情を持ち込んでいいのか。
電車のアナウンスが聞こえた。
晴也は立ち上がった。スマートフォンをポケットにしまった。返信はしなかった。
ホームに立って、線路の向こうの暗闇を見た。嶺咲市の丘陵の輪郭が、夜空との境目でぼんやりと浮かんでいる。
最近の美月は、どこか上の空だ。研究室に来ない日がある。話しかけても一拍遅れて反応する。何かあったのかと訊けばいい。訊けばいいのに、訊いて「何もない」と返されるのが怖い。何もないなら、おれに言うことは何もない、ということだから。
——おれはお前の何なんだろうな。
声には出さなかった。口の中で言葉が溶けて、飲み込まれた。電車の振動が体を揺らしている。揺られながら、晴也は寝落ちした。美月の「おつかれさま」に返信しないまま。
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【次回予告】
次回、夢は「もう一つの朝」を映し出す。左手はペンではなく、シリアルのスプーンを握っていた。




