第2章「夢のノイズ」
――前回までのあらすじ――
研究テーマを決めきれずにいた美月は、晴也との気安い日常を送っていた。だがふとした瞬間に走る既視感や、左手の薬指をなぞる無意識の癖に、自分でも説明のつかない違和感を覚え始める。そして夜、彼女は見知らぬ「海の見える部屋」の夢を見た。
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夢を見ている、と自覚したのは初めてだった。
知らない部屋にいた。白い壁。天井が高い。窓の外に海が見える——海? 嶺咲市に海はない。光の質がちがう。空気がちがう。午後の陽射しが部屋を横切っていて、塵がゆっくり舞っていた。そこまでは夢としておかしくない。夢は知らない場所を見せることがある。
おかしかったのは、解像度だった。
ふつう夢は輪郭がぼやけている。見ているあいだは鮮明なつもりでも、あとから振り返ればディテールが欠落していることに気づく。壁の色、家具の配置、空間の奥行き——夢はそういう細部を省略する。
この夢は省略していなかった。
壁にかかった時計の秒針が動いている。文字盤の数字はアラビア数字で、12の位置に小さな傷がある。テーブルの上にはノートパソコンと、飲みかけのカフェラテ。カップの内側に残ったフォームの泡が、ゆっくり消えかけている。左手前に開いたスケッチブック。画材——コピック? 色が何色か散らばっている。
左手前。
左手で、ペンを持っていた。
美月は右利きだった。箸もペンも右。左手で何かを書くことなど一度もない。なのに夢の中の手は——自分の手だ、指の形で分かる——ペンを左手で握り、スケッチブックに何かを描いていた。描いている内容は見えなかった。視線がペンの先に落ちていなかったから。視線は窓の外、海の方を向いていて、手だけが勝手に動いている。
手が、慣れている。
夢の中で、ペンを持つ左手の指に力のかかり方を感じた。親指と人差し指のあいだの、ペンだこの位置が違う。右手にあるはずの硬さがそこにはなくて、かわりに左手の中指の側面にかすかな膨らみがある。何年もペンを握ってきた手の形だった。
——これ、私の手?
問いかけたつもりだったが、声は出なかった。夢のなかの自分は口を動かすことを許されていなかった。ただ見ている。左手でペンを走らせ、海を眺め、カフェラテの泡が消えていく午後を過ごしている自分を、内側から見ている。
ふいに、左手が止まった。
薬指に何かが光った。
指輪だった。銀色の、細い輪。——違う。銀ではない。プラチナかホワイトゴールドか、光の反射で見分けがつかなかったけれど、確かに左手の薬指にはまっていた。
見覚えが——
そこで誰かが笑った。
声。女の声。甘くて、やわらかくて、懐かしい声が部屋のどこかから降ってきた。
「ミヅキ、またぼーっとしてる」
知っている声だった。
千尋の声だった。
水瀬千尋。高校時代の親友。五年前の交通事故以来、意識が戻らない。嶺咲市の北にある病院のベッドに横たわったまま。あの千尋の声が、笑っている。
夢なのだから、当然だ。夢のなかでは死んだ人間だって歩く。意識のない人間だって笑う。
けれど声の質が、記憶の再生ではなかった。
高校のころの千尋の声を美月は覚えている。やや高くて、語尾が跳ねて、笑うときに鼻に息がかかる声。夢のなかの声は——すこし低かった。五年ぶん、大人になった声。記憶にない声。夢は記憶の断片を再構成するものだとすれば、聞いたことのない声が出てくることは、おかしい。
「——美月」
もう一度、呼ばれた。
響きが違った。声の温度が、笑顔から確認に変わっていた。
部屋が揺れた。
海の光が暗転した。スケッチブックのページが白紙になった。左手の指輪が消えた。声が遠ざかる。千尋の笑い声の残響が、耳の奥で糸のように細くなり——
◇
目が覚めた。
見慣れた天井。アパートの白い壁。窓の外はまだ暗い。スマートフォンを手探りで取ると、午前四時十二分。
心臓が速い。枕が汗で湿っていた。
夢。いまのは夢だ。——確認するまでもなくわかっている。自分は嶺咲市のアパートのベッドにいる。海のある部屋にはいない。左手にペンは握っていない。
左手を見た。
引っかき傷があった。
手の甲に、三本。爪で引っかいたような、浅くて赤い線。いつの間についたのか覚えがない。寝ている間に自分で引っかいた可能性はある。寝相が悪い自覚はないが、ゼロとは言いきれない。
傷を指でなぞった。痛みはほとんどなかった。皮膚の表面だけの浅い傷。明日には消える程度のもの。
それより気になったのは、夢の鮮明さだった。
目を閉じるとまだ見えた。窓の外の海。テーブルの上のカフェラテ。秒針が動く時計の文字盤。12の位置にある小さな傷。
——あの部屋を、私は知らない。
知らないはずだった。知らないはずの場所を、夢は夢の曖昧さでなく、記憶の正確さで見せた。
——いや、見せられただけではなかった。
窓のカーテンが、薄い青だったこと。壁際の棚の二段目に、写真立てが一つ、伏せて置かれていたこと。夢のなかでは、視線がそちらに向いていない。一度も向いていない。それなのに、美月は知っていた。見るより先に、知っていた。
夢だから、と思った。夢なら、知っていてもおかしくない。
けれど左手の指先に、伏せた写真立ての縁の感触が残っていた。木の角に触れた、確かな手触り。
薬指に指輪がはまっていた感覚が、まだ残っている。金属のひんやりとした重さが、皮膚の記憶として左手に張りついている。起きている今の左手の薬指には何もない。何もないのに、何かがあった痕跡を指が主張している。
美月は右手の親指で左手の薬指をなぞった。いつもの癖。いつもと同じ動き。だが今夜に限って、指がなぞる場所に指輪があった感触が重なった。
——偶然。
そう判断した。夢のなかの指輪と、自分の癖には関係がない。夢は脳が勝手に構成するもので、日常のディテールが紛れ込むことはよくある。認知科学の知識がそう言っている。
水を飲みに起き上がった。台所で蛇口をひねり、コップに水を注ぎ、一口。
蛇口から水が出る音が、ふいに遠くなった。
一秒。あるいは一秒未満。台所の蛇口の水音が遠ざかって、代わりに波の音が聞こえた。さざ波の、規則的で穏やかな音。あの部屋の窓から聞こえていた音。——そしてすぐに消えて、蛇口の水音に戻った。
コップを持つ手が、かすかに震えていた。
水を飲んだ。もう一口。コップを置いて、深呼吸をして、ベッドに戻った。時計を見た。四時十九分。
眠れなかった。
◇
翌朝から、ずれが始まった。
キャンパスへの道。バス停でバスを待っているとき、向かいの建物の看板が一瞬だけ読めなくなった。文字が崩れたのではない。文字は文字のまま、意味が取れなくなった。日本語であることはわかるのに、一文字ずつが記号のように見えた。数秒で戻った。
研究棟の廊下を歩いているとき、コーヒーのにおいがした。——あの朝と同じ。まったく同じ。研究室のドアを開けると晴也がいて、同じマグカップを持っていて、「おー、珍しい。一番乗り」と——
廊下には誰もいなかった。
研究室のドアは閉まったまま、コーヒーメーカーの音も聞こえない。あの朝と同じにおいを、美月の鼻が勝手に再生した。
足が止まった。ドアノブに手を伸ばしかけて、やめた。なぜやめたのかはわからない。ただ、このドアを開けたら同じ朝がもう一度始まるような気がして、体が拒んだ。
美月は研究棟を出て、図書館に向かった。
デジャヴ。
既視感。フランス語で「すでに見た」。海馬の処理タイミングのずれで、新規の入力が記憶のタグを誤って引き出す現象。美月はその原理を知っている。論文候補のひとつとして調べたばかりだ。
知っているのに、揺れた。
その日、デジャヴは何度も来た。食堂で、ゼミ室で、廊下で——そのたびに世界の表面がうすい膜のようにめくれかけて、すぐに戻った。いちばん強かったのは帰り道だった。
バス停のベンチに座った瞬間、腿の裏に伝わる硬さが、別の硬さを呼んだ。プラスチックではない。木。古くて、日に焼けて、すこしささくれた木のベンチ。海が見える場所の——
心臓の音が聞こえた。自分の心臓の音。耳の奥ではなく、胸の中で直接鳴っている。ドクン、ドクン。速い。速いことに気づいた瞬間、呼吸が浅くなった。吸っているのに空気が入ってこない感覚。ベンチの硬さが木のままで、プラスチックに戻らない。二秒。三秒。
美月は立ち上がった。
ベンチの感触から引き剥がすように体を起こし、バスが来るまでの五分間を立ったまま待った。額にうっすら汗がにじんでいた。九月の夕方は涼しいはずだったが、体が温度を正しく感じていなかった。心臓がまだ速い。深呼吸を三回した。三回目で、ようやく空気が肺の底まで届いた。
バスに乗った。窓の外で嶺咲市の丘陵が夕暮れに沈んでいく。この景色は知っている。確かに知っている。ここは自分の街だ。
スマートフォンが鳴った。晴也からLINE。
〈今日どこいた? 研究室来なかったろ〉
美月は返信を打った。
〈ごめん、図書館にいた。明日は行くね〉
半分だけ本当だった。図書館には行った。研究室のドアを開けられなかっただけだ。そんなことは言えない。昨夜の夢のことも、一日に何度も来たデジャヴのことも。話したところで、怖い夢を見た、で終わる会話になる。それ以上のことを、美月はまだ言語化できていなかった。
「以上のこと」が何なのか、自分にもわかっていなかった。
わかっていたのは、あの夢が夢らしくなかったこと。左手に傷があったこと。そして何度も来たデジャヴの底に、同じ質感が流れていたことだった。
海のある部屋。知らない部屋。知らないのに、知っている。
アパートに帰って、鍵を閉めて、靴を脱いだ。洗面台で手を洗った。左手の甲の引っかき傷は、朝より薄くなっていた。明日には消える。傷が消えれば、昨夜の夢もただの夢になるだろう。デジャヴも体調のせいだったということになるだろう。
そういうことに、すれば。
なるはずだった。
——けれど夜がまた来て、目を閉じれば。
美月は布団を頭まで引き上げて、眠ることを少しだけ怖いと感じた。耳の奥で、あの微細なノイズがまた聞こえていた。昨夜の就寝前に聞いたのと同じ、テレビの砂嵐のような音。
今夜はそれが、すこしだけ近かった。
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【次回予告】
次回、金曜日の午後。静かな研究室に、いつもの日常が続く――はずだった。




