第1章「ノイズフロア」
――あらすじ――
認知科学を学ぶ大学院生・柏木美月は、嶺咲市でごく平穏な日々を送っていた。同期の桐生晴也や指導教員・佐伯先生に囲まれた研究室生活の裏側で、丘の上に建つ正体不明の施設が、ひっそりと美月を見つめていた。
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風が変わった、と美月は思った。
朝の嶺咲市は空気がうすい。丘陵の上のバス停からキャンパスまでの十五分、谷をひとつ越えるあいだに季節のにおいが入れ替わる。九月の終わり、夏が首筋からようやく手を離しかけていて、吹き上がってくる風のなかに金木犀の気配がまじりはじめている。
まだ咲いていないはずだった。先週まで残暑がしつこかったから。けれど美月の鼻は、花が開くよりすこし前の、準備している段階のにおいを拾ってしまう。街路樹の緑にまぎれた甘さの予兆。気のせいかもしれないし、気のせいではないのかもしれない。どちらでもいいことだった。
国立嶺咲大学の正門を抜けると、左手にイチョウ並木が続く。まだ青い。十一月にならないと色づかない。キャンパスは朝の八時半にしてはまばらで、研究棟に向かう院生の足音と、自転車のチェーンが噛む軽い金属音がときおり聞こえるだけだった。
認知科学研究室は人文社会系研究棟の四階にある。エレベーターは一基しかなく、朝は混む。美月は階段を選んだ。四階分をのぼるあいだ、今日の予定を頭の中で並べた。十時から指導教員の佐伯先生と論文の打ち合わせ。十三時にゼミ。それ以外は自分のデータ整理。並べたところで、並べたこと以上の意味はなかった。
研究室のドアを開けると、コーヒーのにおいがした。
「おー、珍しい。一番乗り」
桐生晴也が窓際の席から顔を上げた。画面に映っているのはコード——つまり、昨夜から帰っていない。
「おはよう。泊まったの?」
「まあね、ソファで三時間」
晴也は自分のマグカップを掲げてみせた。取っ手の欠けた水色のマグ。研究室に住みついている私物のひとつだった。
「コーヒー、まだあるよ。飲む?」
「ありがとう」
美月は鞄を自分の席に置き、給湯スペースに向かった。備え付けのコーヒーメーカーには、あと二杯分ほど残っていた。自分のマグを手にとって——白地に青い鳥が描かれた、学会の記念品——注いだ。砂糖を入れるかどうかを二秒ほど迷って、入れなかった。昨日は入れた。今日はいいかな、と思っただけで、理由はない。
「昼、食堂いかない?」
席に戻ろうとした背中に晴也の声が追いかけてきた。
「今日の日替わり、チキン南蛮だったはず」
「チキン南蛮」
「おれ調べたんだよ。今月の献立」
笑っていた。けれど美月が振り向いたのは声を聞いたあとで、振り向いたときにはもう晴也の表情は整っていた。こちらの反応を確かめるように目が動いて、それから口角がもうひとつ上がった。笑顔が、ほんのわずかに遅れて届く感じがした。
「いいよ。十二時半くらい?」
「おう」
晴也は画面に視線を戻した。コードの続きに戻ったのか、その横顔はすでに別のことを考えている顔だった。美月はコーヒーを一口飲んで、自分の席についた。
朝が動き出す。
十時。佐伯先生の研究室。
佐伯千鶴は五十代の神経心理学者で、話し方がゆっくりしている。学生を急かさない。そのかわり、問いだけを正確に置いていく人だった。
「柏木さん、論文のテーマなんだけど」
佐伯が机の上に二冊の論文を並べた。
「デジャヴの神経基盤にするか、それとも自伝的記憶のバイアスにするか。どちらも面白いと思うの。データの取り方がだいぶ変わるから、早めに決めたいんだけど」
二つの選択肢が、紙の上に並んでいた。
デジャヴ——初めての経験なのに、かつて同じ場面を体験したと感じる現象。主観的体験としての構造はまだ整理されていない。面白いテーマだった。
自伝的記憶のバイアス。人は過去の出来事を正確には覚えていない。感情に応じて記憶を再構成し、ときにはなかった出来事を「あった」と信じる。こちらも面白かった。
どちらかを選ばなければならない。
「あの、もうすこし考えてもいいですか」
佐伯は笑った。驚いてはいない顔だった。
「来週までに決めてくれるとうれしいな。そろそろ実験デザインに入りたいから」
「はい。すみません」
「謝ることじゃないわ」
研究室を出た。廊下の窓から見える嶺咲の丘陵に、雲の影が滑っていた。どちらのテーマも悪くない。どちらのテーマも、選べなかった。選べないのではなくて——選びたくないのかもしれない。片方を選んだら、もう片方は消えるから。そう思って、馬鹿馬鹿しくなった。論文のテーマくらい、消えたって構わないのに。
左手の薬指を、親指がなぞった。
癖だった。いつからあるのか自分でも覚えていない。指輪をしているわけでもないのに、まるでそこに何かがあったことを確認するように、指先がすべる。無意識だった。そしていま、自分がそれをしていることに気づいて、指がわずかに止まった。
——なんだっけ。
何かの名残。指が覚えていて、頭が忘れていること。そういうものが体にはいくつかある。この癖もそのひとつだろう。気にするほどのことではなかった。
美月は手を鞄のストラップに移して、階段をおりた。
◇
昼。食堂。
チキン南蛮は確かに当たりだった。衣がしっかり揚がっていて、タルタルソースが手作りで、甘酢の加減がちょうどよかった。晴也は食事に関しては信用できる。味覚の精度が妙に高い。
「どう? おれの情報、正確だったろ」
「ん、おいしい」
「だろ。来月は一日にカツカレーが来るぞ。これもおれのおすすめ、覚えといて」
晴也は自分のトレーの唐揚げ定食をすでに半分平らげていた。食べるのが速い。話すのも速い。そのくせ、要所で黙る。
「佐伯先生とどうだった?」
「テーマ、まだ決められなくて」
「どっちにすんの」
「まだ考え中」
「考え中ってことは、考えてないんだろ」
笑いながら言った。意地が悪いのではなく、正確なのだ。核心に触れてから、すぐにそこを離れる。
「まあ、美月が悩むの今にはじまったことじゃないし。迷ったらうまいもん食え。とりあえずそのチキン南蛮を完食しろ」
「してるよ」
「タルタルが残ってるぞ。おいしいのに、もったいない」
美月は少し笑って、タルタルソースをすくった。
食堂の窓の外には、学部生たちがベンチに座って弁当を広げていた。九月の陽射しが芝生の上で揺れている。穏やかな昼だった。嶺咲市の昼はだいたい穏やかだ。大きな事件は起きない。研究者と学生が多くて、街の速度そのものがゆるやかだ。カフェと書店が多い。チェーン店が少ない。美月はこの街が好きだった。ここにいる限り、急かされることがない。何かを選ぶ必要がない。
「なあ、美月。お前、小学校のとき何してた?」
晴也がふいに言った。唐揚げの最後のひとつを箸でつまみながら。
「小学校?」
「お前さ、高校の話はたまに出るけど、小学校の話って聞いたことないなと思って」
美月は箸を止めた。
小学校。嶺咲に来る前。引っ越す前の——
「えーと……普通。普通だったと思う」
普通、のひとことが、重かった。重かったというのは正確ではない。滑りが悪かった。思い出そうとすると、映像の手前に霧のようなものがあって、形がうまく結ばない。校庭は——あったはずだ。担任の先生は——
「普通って、一番情報量ないやつ」
「うるさい。昔のことだから」
「まあ、おれも小学校の記憶とかだいぶ曖昧だけどさ。遠足でゲロ吐いたことだけ異常に鮮明」
「最悪な記憶」
「鮮明なんだよ、そういうのに限って」
晴也が笑った。美月もつられて笑った。
会話はそこで流れた。晴也がスマートフォンで何かを調べはじめ、美月はチキン南蛮の最後のひと切れを口に運んだ。小学校の話は、それ以上ふくらまなかった。
ふくらまなかったことを、美月は気にしなかった。
——昔のことだから。
そう処理して、トレーを返却口に運んだ。
◇
午後。
ゼミのあと、研究室に残ってデータ整理をした。被験者十二名分のアンケート回答を表計算ソフトに入力する単純作業。数字と向き合っているあいだは考えなくていい。頭が静かになる。
窓の外が暗くなりはじめた。日が短くなってきている。
十八時前に、美月は研究棟を出た。正門までの道にはもう人が少ない。夜の嶺咲市は静かだ。街灯が等間隔に並んでいて、その光の輪のあいだに影が落ちる。虫の声が遠くに聞こえた。種類はわからない。秋に鳴く何か。
コンビニに寄った。夕飯の弁当と、明日の朝のパンと、ペットボトルのお茶。レジで会計を済ませて、袋を提げて、アパートまでの坂道をのぼった。
部屋は1Kのワンルーム。アパートの二階。築年数なりに古びているが、窓から嶺咲の夜景がかすかに見える。丘陵の斜面に灯る研究所や大学施設のあかりが、地上の星みたいだと引っ越した日に思った。それからは思わなくなった。
弁当をレンジで温めるあいだ、本棚の前を通った。
教科書と参考書が詰まった棚の端に、卒業アルバムが二冊並んでいる。高校と大学のものだ。背表紙が見える位置に、何の意図もなく立っている。
小学校のアルバムがない。
思い出したのは、思い出そうとしたからではなかった。本棚を見たときに、並びの不在が目に入っただけだった。——どこかにしまってあるはずだった。実家に置いてきたのかもしれない。最後に見たのはいつだっただろう。見た記憶自体が、曖昧だった。
レンジが鳴った。
美月は弁当を取り出し、テーブルに置き、食べはじめた。テレビはつけなかった。スマートフォンの画面を眺めながら、鮭弁当を箸で崩した。
晴也からLINEが来ていた。
〈今日のチキン南蛮、来月もう一回出るらしい。10/17。メモっとけ〉
美月は「了解」とだけ返して、スマートフォンを伏せた。
何もない一日が終わろうとしていた。
何もない一日は、美月にとって安全な一日だった。何も起きなければ、何も選ばなくていい。
歯を磨いて、布団に入って、目を閉じた。明日もたぶん同じ一日が来る。それでいいと思った。
薬指を、また無意識になぞっていた。
眠りに落ちる直前、どこか遠くでかすかなノイズが聞こえた気がした。テレビの砂嵐のような、耳の奥で鳴る微細な音。空耳だろう。この街は夜になると静かすぎて、自分の鼓膜の音が聞こえるときがある。
そういうことにして、美月は眠った。
◇
嶺咲市を一望できる丘陵の頂に、七階建てのビルがある。
外壁に名前はない。表札もない。正面玄関には「関係者以外立入禁止」のプレートが一枚貼られているだけで、そのプレート自体が色褪せていた。嶺咲市に長く住んでいる人間でも、あのビルが何の施設なのかを正確に答えられる者は少ない。
そのビルの五階、窓のない部屋。
壁一面に並んだモニターが、波形を映していた。脳波データ——しかし通常の脳波計測とは明らかに異なるパラメータで、波形の一部は既存の周波数帯のどれにも該当しない律動を刻んでいた。
モニターの前に立つ男が、波形のひとつを指さした。
「この波形。二週間前から振幅が上がってる」
三十代の手。白衣ではなく、紺のジャケット。モニターに映るデータを見つめる横顔は、光の加減で表情が読めなかった。
「活性化し始めてる」
すこし離れた位置から、別の声が応じた。デスクに座った男——こちらは年嵩で、声に力みがなかった。
「まだ早い。もう少し待て」
「しかし、このまま放置すれば——」
「放置するとは言っていない」
年嵩の男がモニターに視線を向けた。波形は規則的に、しかし確実に振幅を増している。
「監視は続けろ。接触はこちらが判断する」
若い男は口を閉じた。モニターの光が二人の顔を照らしていた。
画面の隅に、ファイル名が表示されていた。
——Subject M. Kashiwagi.
嶺咲市の夜は静かだった。丘陵の上から見下ろす街の灯りが、モニターの波形のように等間隔に並んでいた。
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【次回予告】
次回、美月は「夢」を見る。あまりにも鮮明な、知らないはずの部屋の夢を。




