表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/5

第4章「もう一つの朝」

前回までのあらすじ――


研究室の飲み会で、晴也は美月へのさりげない好意をにじませながらも、一歩を踏み出せずにいた。美月自身も、小学校時代の記憶がすっぽり抜け落ちていることに気づき始める。そして夜、薬指に指輪をはめた「左利きの自分」が、病院の一室で誰かを見つめる夢を見た。


――――――――――――――――

夢が、続くようになった。


毎晩ではない。二日に一度。あるいは三日に一度。規則性はなかった。ただ、来るときの前触れはあった。耳の奥のノイズが強くなる夜は、たいてい来る。布団に入って目を閉じると、暗闇の向こうから別の光がにじんでくるように、あの部屋が立ち上がる。


海のある部屋。


回を重ねるごとに、部屋の情報が増えていた。壁に小さな棚がある。棚の上に観葉植物。葉がすこし垂れている——水をやり忘れているのか、もともとそういう種類なのかはわからない。テーブルの上にはいつもノートパソコンとスケッチブック。コピックの色が前回と配置が違う。生活のある部屋だった。誰かが毎日ここで暮らしている痕跡が、訪れるたびに更新されている。


今夜の夢は、朝から始まった。


目覚まし時計が鳴った。デジタルではなくアナログのベルの音。左手が布団から出て、時計を止める。左手。またこの手だ。右利きの美月の手ではない、左利きの——自分の手。


起き上がってキッチンに向かい、冷蔵庫を開けて牛乳を出す。コーンフレークにかける。——美月は朝にシリアルを食べない。ご飯かパンだ。けれどこの手は慣れた動作でシリアルを準備している。スプーンを左手で持って口に運ぶ。甘い。メープル味。


窓の外に海が光っている。朝の光は夕方のそれとは違って、水面が白く跳ねる。カモメの声が聞こえた——カモメ? 嶺咲市には。いない。ここは嶺咲市ではない。


スマートフォンが鳴った。画面を見る——


ロック画面の壁紙は、海辺の写真だった。誰かと一緒に撮った写真。二人の影が砂浜に伸びている。顔は見えない。影だけ。隣の影は自分より背が高い。


通知が表示されている。名前は——読めなかった。文字がぼやけている。夢の解像度が高い部分と低い部分があって、スマートフォンの画面は低い方に属していた。ただ、通知の最初の数文字だけがちらりと見えた。


『おはよう、今日の元町——』


元町。横浜の元町? なぜ横浜。それ以上は読めなかった。


返信を打つ左手の薬指に、あの指輪が光っていた。





場面が飛んだ。


夢の中で時間が跳躍する——それ自体は珍しくない。しかし今回は跳躍の継ぎ目がはっきりしていた。朝食の場面が唐突に暗くなり、次に光が戻ったとき、そこは別の場所だった。


病院。


白い廊下。消毒液のにおい。蛍光灯の光が均一に落ちている。歩いている。白衣を着ている。——白衣?


自分が白衣を着ている感覚があった。肩にかかる布の重さ、胸ポケットに入ったペンの硬さ。左胸にネームプレートがあるはずだが、視線がそこに落ちないので名前は読めなかった。


前方から、声が聞こえた。


「——意識レベルに変化なし。自発呼吸は安定してますが、脳波パターンに微細な変動が見られます」


看護師の声だった。ナースステーションの方から。報告を受けているのか、それとも——


廊下を曲がった。個室が並ぶ病棟。四〇三号室の前で足が止まった。ドアは半開きで、薄いカーテンの向こうにベッドが見えた。


ベッドに横たわる人の顔は見えなかった。見えなかったが——髪の長さ、肩の輪郭、布団の下の体のかたち。そこにいるのが女性であることはわかった。


左手がドアに触れようとした。


そのとき、背後から声がした。


「ミヅキ、お疲れ。もう上がり?」


知らない声。男の声。穏やかで、親しげで、柔らかい。


「うん。透くん、先行ってー」


自分の口が答えた。


美月は声を出していなかった。声を出したのは——この体の持ち主だ。この左利きの、海の見える部屋に住む、白衣を着た自分。その自分が「透くん」と呼んだ相手に笑いかけている。声のトーンに自然な甘さがあった。恋人の、あるいはそれに近い誰かに向ける声。


透、と呼ばれた男が通り過ぎていく気配があった。足音が遠ざかる。


足が四〇三号室の前に残っている。ドアの隙間から、ベッドの上の女性の輪郭を見つめている。


この体の持ち主が、ぽつりと呟いた。


「——もうすこしだから」


声が小さかった。独り言だった。透に聞こえない距離まで待ってから、ベッドの中の誰かに向けて言った言葉。


もうすこしだから。何が?


ドアの向こうの女性の顔が、もうすこしで見えそうだった。カーテンの隙間が風に揺れて、輪郭が——





美月は目を覚ました。


午前三時。今夜も早い。枕が湿っている。心臓が胸の裏側を叩いている。


天井を見つめた。白い天井。自分の——嶺咲市の、自分のアパートの、自分の部屋の天井。


夢の残像が、消えずに残っていた。


病院。白衣。四〇三号室。ベッドの上の女性。そして——「もうすこしだから」。


美月は両手で顔を覆った。


千尋。


思い出したくないのに、記憶が体の中から這い上がってきた。夢の中の病院が呼び水になったのか。考えるな、と思っても遅かった。


五年前。


七月の土曜日。暑い日だった。千尋から連絡が来ていた。〈明日、買い物行かない? 新しいカフェもできたんだよ〉。美月は返信した。〈ごめん、明日はちょっと用事がある〉。用事はあった。——いや、用事は作れた。別の友人との予定を優先しただけだ。千尋より先に入っていた予定だから、断る理由はない。何もおかしくない。


日曜の夕方。千尋が交差点で車にはねられた。


買い物の帰りだった。一人で出かけていた。美月が一緒にいれば、タイミングが違って、あの交差点にあの時間にいなかったかもしれない。いなかったかもしれないし、いたかもしれない。確率の問題だ。美月のせいではない。誰もそう言った。両親も、友人も、カウンセラーも。美月のせいじゃない。


美月のせいではなかった。


けれど、あの日の夜、病院の廊下で千尋の母親の背中を見たとき——丸まった背中、声を殺して泣いている背中——美月の指は自分の薬指に触れていた。千尋とおそろいで買ったリングを、まだはめていた。


翌週、リングを外した。


理由は——重かったからだ。指にはめているとあの日のことを思い出すから。思い出すのが辛いから。辛いのは当然のことで、外したこと自体は悪いことではない。


ただ。


リングを外すとき、美月は千尋の病室にいなかった。自分の部屋で、一人で、引き出しにしまった。千尋に見せたくなかったのだと——あとになって思った。見られないとわかっているのに。意識のない千尋には何も見えないのに。それでも、千尋の前で外す勇気がなかった。


選べなかった。


千尋と一緒にいることも、千尋を忘れることも、どちらも選べなかった。だからリングを引き出しにしまって、薬指をなぞる癖だけが残った。何かがあった場所をなぞる指。何もないことを確かめる指。


美月は両手を顔から離した。


夢の中で見た病室。四〇三号室。ベッドの上の女性。あれは千尋なのか。夢が千尋の記憶を引っ張り出してきたのか。——しかし、あの病室は千尋の病室ではなかった。千尋の病室は六階の六一二号室だ。番号が違う。内装も違う。カーテンの色も違う。


記憶の再構成なら、細部がずれることはある。夢はそういうものだ。


美月はそう自分に言い聞かせた。


水を飲みに台所に立った。蛇口をひねる。今夜は波の音は聞こえなかった。ただの水の音がした。


コップを持つ手が止まった。


夢の中の自分が、白衣を着ていた。病院で働いていた。看護師か——それに近い何か。ナースステーションからの報告を聞く位置にいた。千尋は看護師になりたいと言っていた。高校のとき。


——偶然。


偶然だ。千尋の夢を見て、千尋が話していた将来の夢が混ざっただけだ。


美月は水を飲んで、コップを置いて、ベッドに戻った。


横になった。目を閉じた。千尋のことを考えまいとした。考えまいとすると、代わりに体のほうが何かを探しはじめる。右手が布団の外に出て、暗闇の中を泳いだ。何かを掴もうとしている。何を?


そのとき、映像が浮かんだ。


誰かと手を繋いでいる。


左手ではなく、右手。自分の右手を、誰かの左手が握っている。——いや、握っているのではない。指を絡めている。恋人繋ぎ。手の大きさからして男の手だ。体温が高い。指が長い。爪がきれいに切ってある。


顔が見えない。


手だけが見える。繋いだ手が揺れている。歩いている。どこかの通りを二人で歩いている。秋の空気。乾いた風。隣にいる人の腕が、すこしだけ美月より高い位置にある。


映像はそこで消えた。


残ったのは、手のぬくもりだけだった。数日前の就寝時にも感じた、あの手。大きくて、乾いた手。今回は指の形まで覚えていた。


知らない手だった。知らない手のはずだった。


なのに体が覚えている感覚があった。この手を知っている。この指の絡め方を知っている。——ただし、いつ、どこで知ったのかが出てこない。


美月は右手を握って、開いた。誰もいない。当然だ。


時計を見た。午前三時四十分。


窓の外はまだ暗い。嶺咲市の夜は静かだった。


——静かなはずだった。


遠くで、かすかに何かが鳴っていた。ノイズではない。もっと低い、地鳴りのような振動。窓ガラスが微細に震えている。三秒ほど続いて、止まった。


空耳かもしれない。


美月はカーテンを開けなかった。開けて何かが見えるのが怖かったのではない。何も見えないことが確定するのが、もう嫌だった。





翌日。


帰り道にコンビニに寄った。弁当を選んでいるとき、レジの横に置かれた小さなテレビが目に入った。夕方のニュース。画面の下にテロップが流れている。


『嶺咲市周辺で断続的な電波障害が発生。原因は調査中。携帯電話の通信に一部影響』


キャスターが話している。嶺咲市と隣接する二つの市で、ここ一週間ほど散発的に携帯電話の電波障害が報告されている。通信事業者は基地局の不具合を調査中。住民からは「テレビにノイズが入る」「ラジオが一瞬途切れる」等の報告。


美月は弁当を持ったまま、テレビの前に立っていた。


ノイズ。


——ただの電波障害だ。


そう思った。思ったが、足がテレビの前から動かなかった。三秒。五秒。キャスターが次の話題に移った。天気予報。明日は晴れ。


美月は弁当をレジに持っていき、会計を済ませて、店を出た。


坂道を登る。夜の嶺咲市の街灯と虫の声、いつもの道。


左手の甲に、もう傷はなかった。とっくに消えている。消えているのに、夢はまだ来る。

――――――――――――――――


【次回予告】

次回、美月は街に出る。そこで待っていたのは、名刺を差し出す一人の男。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ