第4章「もう一つの朝」
前回までのあらすじ――
研究室の飲み会で、晴也は美月へのさりげない好意をにじませながらも、一歩を踏み出せずにいた。美月自身も、小学校時代の記憶がすっぽり抜け落ちていることに気づき始める。そして夜、薬指に指輪をはめた「左利きの自分」が、病院の一室で誰かを見つめる夢を見た。
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夢が、続くようになった。
毎晩ではない。二日に一度。あるいは三日に一度。規則性はなかった。ただ、来るときの前触れはあった。耳の奥のノイズが強くなる夜は、たいてい来る。布団に入って目を閉じると、暗闇の向こうから別の光がにじんでくるように、あの部屋が立ち上がる。
海のある部屋。
回を重ねるごとに、部屋の情報が増えていた。壁に小さな棚がある。棚の上に観葉植物。葉がすこし垂れている——水をやり忘れているのか、もともとそういう種類なのかはわからない。テーブルの上にはいつもノートパソコンとスケッチブック。コピックの色が前回と配置が違う。生活のある部屋だった。誰かが毎日ここで暮らしている痕跡が、訪れるたびに更新されている。
今夜の夢は、朝から始まった。
目覚まし時計が鳴った。デジタルではなくアナログのベルの音。左手が布団から出て、時計を止める。左手。またこの手だ。右利きの美月の手ではない、左利きの——自分の手。
起き上がってキッチンに向かい、冷蔵庫を開けて牛乳を出す。コーンフレークにかける。——美月は朝にシリアルを食べない。ご飯かパンだ。けれどこの手は慣れた動作でシリアルを準備している。スプーンを左手で持って口に運ぶ。甘い。メープル味。
窓の外に海が光っている。朝の光は夕方のそれとは違って、水面が白く跳ねる。カモメの声が聞こえた——カモメ? 嶺咲市には。いない。ここは嶺咲市ではない。
スマートフォンが鳴った。画面を見る——
ロック画面の壁紙は、海辺の写真だった。誰かと一緒に撮った写真。二人の影が砂浜に伸びている。顔は見えない。影だけ。隣の影は自分より背が高い。
通知が表示されている。名前は——読めなかった。文字がぼやけている。夢の解像度が高い部分と低い部分があって、スマートフォンの画面は低い方に属していた。ただ、通知の最初の数文字だけがちらりと見えた。
『おはよう、今日の元町——』
元町。横浜の元町? なぜ横浜。それ以上は読めなかった。
返信を打つ左手の薬指に、あの指輪が光っていた。
◇
場面が飛んだ。
夢の中で時間が跳躍する——それ自体は珍しくない。しかし今回は跳躍の継ぎ目がはっきりしていた。朝食の場面が唐突に暗くなり、次に光が戻ったとき、そこは別の場所だった。
病院。
白い廊下。消毒液のにおい。蛍光灯の光が均一に落ちている。歩いている。白衣を着ている。——白衣?
自分が白衣を着ている感覚があった。肩にかかる布の重さ、胸ポケットに入ったペンの硬さ。左胸にネームプレートがあるはずだが、視線がそこに落ちないので名前は読めなかった。
前方から、声が聞こえた。
「——意識レベルに変化なし。自発呼吸は安定してますが、脳波パターンに微細な変動が見られます」
看護師の声だった。ナースステーションの方から。報告を受けているのか、それとも——
廊下を曲がった。個室が並ぶ病棟。四〇三号室の前で足が止まった。ドアは半開きで、薄いカーテンの向こうにベッドが見えた。
ベッドに横たわる人の顔は見えなかった。見えなかったが——髪の長さ、肩の輪郭、布団の下の体のかたち。そこにいるのが女性であることはわかった。
左手がドアに触れようとした。
そのとき、背後から声がした。
「ミヅキ、お疲れ。もう上がり?」
知らない声。男の声。穏やかで、親しげで、柔らかい。
「うん。透くん、先行ってー」
自分の口が答えた。
美月は声を出していなかった。声を出したのは——この体の持ち主だ。この左利きの、海の見える部屋に住む、白衣を着た自分。その自分が「透くん」と呼んだ相手に笑いかけている。声のトーンに自然な甘さがあった。恋人の、あるいはそれに近い誰かに向ける声。
透、と呼ばれた男が通り過ぎていく気配があった。足音が遠ざかる。
足が四〇三号室の前に残っている。ドアの隙間から、ベッドの上の女性の輪郭を見つめている。
この体の持ち主が、ぽつりと呟いた。
「——もうすこしだから」
声が小さかった。独り言だった。透に聞こえない距離まで待ってから、ベッドの中の誰かに向けて言った言葉。
もうすこしだから。何が?
ドアの向こうの女性の顔が、もうすこしで見えそうだった。カーテンの隙間が風に揺れて、輪郭が——
◇
美月は目を覚ました。
午前三時。今夜も早い。枕が湿っている。心臓が胸の裏側を叩いている。
天井を見つめた。白い天井。自分の——嶺咲市の、自分のアパートの、自分の部屋の天井。
夢の残像が、消えずに残っていた。
病院。白衣。四〇三号室。ベッドの上の女性。そして——「もうすこしだから」。
美月は両手で顔を覆った。
千尋。
思い出したくないのに、記憶が体の中から這い上がってきた。夢の中の病院が呼び水になったのか。考えるな、と思っても遅かった。
五年前。
七月の土曜日。暑い日だった。千尋から連絡が来ていた。〈明日、買い物行かない? 新しいカフェもできたんだよ〉。美月は返信した。〈ごめん、明日はちょっと用事がある〉。用事はあった。——いや、用事は作れた。別の友人との予定を優先しただけだ。千尋より先に入っていた予定だから、断る理由はない。何もおかしくない。
日曜の夕方。千尋が交差点で車にはねられた。
買い物の帰りだった。一人で出かけていた。美月が一緒にいれば、タイミングが違って、あの交差点にあの時間にいなかったかもしれない。いなかったかもしれないし、いたかもしれない。確率の問題だ。美月のせいではない。誰もそう言った。両親も、友人も、カウンセラーも。美月のせいじゃない。
美月のせいではなかった。
けれど、あの日の夜、病院の廊下で千尋の母親の背中を見たとき——丸まった背中、声を殺して泣いている背中——美月の指は自分の薬指に触れていた。千尋とおそろいで買ったリングを、まだはめていた。
翌週、リングを外した。
理由は——重かったからだ。指にはめているとあの日のことを思い出すから。思い出すのが辛いから。辛いのは当然のことで、外したこと自体は悪いことではない。
ただ。
リングを外すとき、美月は千尋の病室にいなかった。自分の部屋で、一人で、引き出しにしまった。千尋に見せたくなかったのだと——あとになって思った。見られないとわかっているのに。意識のない千尋には何も見えないのに。それでも、千尋の前で外す勇気がなかった。
選べなかった。
千尋と一緒にいることも、千尋を忘れることも、どちらも選べなかった。だからリングを引き出しにしまって、薬指をなぞる癖だけが残った。何かがあった場所をなぞる指。何もないことを確かめる指。
美月は両手を顔から離した。
夢の中で見た病室。四〇三号室。ベッドの上の女性。あれは千尋なのか。夢が千尋の記憶を引っ張り出してきたのか。——しかし、あの病室は千尋の病室ではなかった。千尋の病室は六階の六一二号室だ。番号が違う。内装も違う。カーテンの色も違う。
記憶の再構成なら、細部がずれることはある。夢はそういうものだ。
美月はそう自分に言い聞かせた。
水を飲みに台所に立った。蛇口をひねる。今夜は波の音は聞こえなかった。ただの水の音がした。
コップを持つ手が止まった。
夢の中の自分が、白衣を着ていた。病院で働いていた。看護師か——それに近い何か。ナースステーションからの報告を聞く位置にいた。千尋は看護師になりたいと言っていた。高校のとき。
——偶然。
偶然だ。千尋の夢を見て、千尋が話していた将来の夢が混ざっただけだ。
美月は水を飲んで、コップを置いて、ベッドに戻った。
横になった。目を閉じた。千尋のことを考えまいとした。考えまいとすると、代わりに体のほうが何かを探しはじめる。右手が布団の外に出て、暗闇の中を泳いだ。何かを掴もうとしている。何を?
そのとき、映像が浮かんだ。
誰かと手を繋いでいる。
左手ではなく、右手。自分の右手を、誰かの左手が握っている。——いや、握っているのではない。指を絡めている。恋人繋ぎ。手の大きさからして男の手だ。体温が高い。指が長い。爪がきれいに切ってある。
顔が見えない。
手だけが見える。繋いだ手が揺れている。歩いている。どこかの通りを二人で歩いている。秋の空気。乾いた風。隣にいる人の腕が、すこしだけ美月より高い位置にある。
映像はそこで消えた。
残ったのは、手のぬくもりだけだった。数日前の就寝時にも感じた、あの手。大きくて、乾いた手。今回は指の形まで覚えていた。
知らない手だった。知らない手のはずだった。
なのに体が覚えている感覚があった。この手を知っている。この指の絡め方を知っている。——ただし、いつ、どこで知ったのかが出てこない。
美月は右手を握って、開いた。誰もいない。当然だ。
時計を見た。午前三時四十分。
窓の外はまだ暗い。嶺咲市の夜は静かだった。
——静かなはずだった。
遠くで、かすかに何かが鳴っていた。ノイズではない。もっと低い、地鳴りのような振動。窓ガラスが微細に震えている。三秒ほど続いて、止まった。
空耳かもしれない。
美月はカーテンを開けなかった。開けて何かが見えるのが怖かったのではない。何も見えないことが確定するのが、もう嫌だった。
◇
翌日。
帰り道にコンビニに寄った。弁当を選んでいるとき、レジの横に置かれた小さなテレビが目に入った。夕方のニュース。画面の下にテロップが流れている。
『嶺咲市周辺で断続的な電波障害が発生。原因は調査中。携帯電話の通信に一部影響』
キャスターが話している。嶺咲市と隣接する二つの市で、ここ一週間ほど散発的に携帯電話の電波障害が報告されている。通信事業者は基地局の不具合を調査中。住民からは「テレビにノイズが入る」「ラジオが一瞬途切れる」等の報告。
美月は弁当を持ったまま、テレビの前に立っていた。
ノイズ。
——ただの電波障害だ。
そう思った。思ったが、足がテレビの前から動かなかった。三秒。五秒。キャスターが次の話題に移った。天気予報。明日は晴れ。
美月は弁当をレジに持っていき、会計を済ませて、店を出た。
坂道を登る。夜の嶺咲市の街灯と虫の声、いつもの道。
左手の甲に、もう傷はなかった。とっくに消えている。消えているのに、夢はまだ来る。
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【次回予告】
次回、美月は街に出る。そこで待っていたのは、名刺を差し出す一人の男。




