全知全能唯一無二の神……
この世界には全知全能で唯一無二の神は存在しない。なぜなら、そんなものが存在していては物語がつまらなくなるからだ。仮に居る可能性があるとしても世界が終わる間際に少し姿を現すぐらいだろう。
そもそも、全人類というよりも世界そのものが創造神なので、唯一無二の神とは世界そのものを指し、人類だけでなく惑星などの無機物も全て神なのだ。それを崇めるという事は、他人と自然と世界を尊重するという祈りになる。
「私は唯一無二の神を崇めています。だから、私をお救いください」
とか言っている人は自分が狂人だと気が付いた方が良い。唯一無二の神にはこう聞こえているからだ。
「私は唯一無二の神を崇めています。だから、私だけを救ってあなたは犠牲になってください!」
こう言われてあなたは何を思うだろうか?唯一無二の神もあなたと同じ感想を抱いていると思う。ちなみに私の感想は「こいつやべぇやつだ。近づくのは止めておこう」だ。唯一無二の神も同じ感想を抱いているのだとしたら、彼らは神の加護を得る事無く放置されているだろう。
唯一無二の神を大切にして加護を得たいのなら、こう祈るべきだと思う。
「私は唯一無二の神を崇めています。だから、私を含めた全人類に幸福を」
この祈りでなければ唯一無二の神を崇めた事には成らない。
「私は唯一無二の神を崇めています。だから、悪人には裁きを」
これも、唯一無二の神を否定している。正しく悪人を裁きたいのなら、こう祈った方が良い。
「私は唯一無二の神を崇めています。ですが、悪人は私と価値観が違うので違う世界で生きさせてください」
これは悪人と一緒に居る事は否定しているが、存在は否定していないので唯一無二の神を否定した事には成らない。
そもそも全知全能唯一無二の神が居る世界に異教徒が居る事が矛盾しているのだ。宗教家の言い訳として「自分の偉大さを示すために異教徒や悪魔を生かしている」というのがあるが、そもそも全知全能唯一無二の神は偉大だから異教徒や悪魔を必要としない。
自分の偉大さを示すために自分よりも劣った存在を必要とする神は、子供たちがヒーローごっこ遊びでヒーローが勝つために誰かに悪役を押し付けているのと何が違うのか?全知全能の神の精神レベルが子供と同じなんて有り得ない。
比較対象が無ければ偉大さが示せないと言うのなら、あなたは就職活動で自分を売り込むときに、自分より劣っている人間を引き合いに出して自分が優れているとアピールするのか?絶対にしないだろう?
20年前後生きた経験と知識で就職活動する学生でさえ、自分を売り込むために劣った他者を引き合いに出す事をしないのだ。就職活動では、自分がどういう人間か説明するだけに留める。なぜなら、他人を貶めて自分をアピールする人間は下劣だと思われるからだ。
自分が偉大だと知っていれば比較対象は不要なのだ。
仮に全知全能唯一無二の神が世界を創ったらどうなるか?自分以外の未熟な存在を必要としないので一柱で完全な世界を創り、そこには異教徒も悪魔も存在しないだろう。唯一無二で完璧なのだから必然とそうなってしまうのだ。
そもそも唯一無二なのだから、同じ存在は二つ存在できない。完璧な存在が作った完璧な世界に存在できるのは完璧な人間だけであり、それは全知全能の神の言う事に絶対服従し、異議を唱えず、自ら考える事すらせず。全知全能の神が定めた法を完全に守って存在するロボットの様な個性のない人間だ。
それは、全知全能の神と同一の存在に成る。同じ完璧な存在が複数いた場合、全員が同じことを思考し、同じ行動を取る。複数いる意味が無いし唯一無二ではなくなる。よって全知全能で唯一無二の神は一柱だけ存在していればいい。
なので、今のこの世界を創った存在は全知全能ではなく唯一無二でもない。その方が世界が面白くなるからだ。そういう訳で、唯一無二の神を崇めている人たちは存在しないものを崇めているのでご利益なんか無い。
その証拠に、唯一無二の神を信じている教徒は、戦争に巻き込まれ、戦争を撒き散らし、戦場で大勢死んでいる。唯一無二の神を信じず八百万の神と仏を信じた日本は、外国と長い間戦争はせず。内乱はあったが、壊滅的な人的被害は無く、平和な時代が長く続いてきた。
どちらの神がご利益あるかは言うまでもない。片方は存在しない神なのだから当然と言えば当然の結果だ。
他にも、全知全能の神が不完全な存在を残しておく理由が成長し完全に正しい人間に成るのを待っているという理屈もあるが破綻している。完全な世界が必要なら、全知全能の神は最初から完全な世界を創るのだ。成長するのを待つ必要は無い。
もし、成長する事に価値があるとしたら、最初から全知全能で完全である神は無価値であると言っているに等しい。それに、間違いを犯す存在を作ったという事実だけで、神は邪悪な存在と成る。
そもそも、成長があるから物語は面白いのだ。そして、邪悪な者が改心するから面白い。敵対する者が仲間になる展開は王道だ。そう考えると、この世界には本当の意味で悪者なんて居ないのだ。
全てが成長し変化が許されている世界に悪は存在しない。未熟が存在するだけで最終的には全てが成長し善なる存在と成る。
だから、この世界に全知全能で唯一無二の神が居ない事は、ただの事実である。
クリエイターの立場で考えた時、全知全能の神は世界には必要ない存在であり、存在できたとしても、それは物語の終盤、世界が壊れる時にしか出番が無い。そして、今の人類ですら核戦争を起こしたとしても全生命を殺し尽くす事は出来ない。
ノアの洪水の様な天変地異があれば別だが、2026年現時点で80億人いると言われている人類の中で、全人類滅びて欲しいと思っている人間は、どれだけ居るだろうか?
私の感覚では10%未満だ。
こんな状態では全知全能の神は出てこれない。世界は全く危機に瀕していないし大多数が幸福に生きている。一部の人間の身勝手な破滅願望や嫉妬による金持ちや権力者、成功者への懲罰願望による終末などあり得ない。
この世界に全知全能で唯一無二の神は存在しないし、存在していたとしても終末が来るには人類は幸せで平和な状況だ。しかし、唯一無二で有りたいと思っているのも創造神の意思の一部でもあるので、その意志を継ぐ者同士好きなだけ殺し合いをしていれば良いと思う。
私は戦うことなく逃げる。逃げ場が無くなったら自殺して天界へ逃げる。
唯一無二の神様が存在しない世界では、勝者は常に移り変わっていく、有史以来世界の頂点に君臨し続けたものは居ない。老いがあり、怪我をしたら完全に元に戻る事は無いこの世界で、永遠に一番である事は不可能だ。
歴史が、それを証明し続けている。
なので、私は一番である事よりも誰かに勝つ事よりも自分と向き合い幸せに成る方法を見つけて、楽しく生きれれば良いと思っている。
もちろん戦って勝つことが好きなら、そう生きて良い。全知全能で唯一無二の神はこの世界に存在しないのだから、正しい生き方なんていうものは存在しない。だから、好きに生きて良い。ただし、やった事は因果応報で返ってくるので、そこだけは注意が必要だ。
唯一無二の正しさを説いたとすると必ず反対する者が現れる。それを悪魔と決めつけ否定すれば、相手からも同じ扱いを受けるのだ。まさに今のユダヤ教、キリスト教、イスラム教の対立そのものだ。
彼らは互いを悪魔と罵りあいながら戦い続けている。
唯一無二を取り下げない限り、彼らの戦いは終わる事が無いのだ。
私の認識では世界に神と呼ばれる存在は3種類だ。まずは、この世界そのものである創造神、全知全能であるが人間に自由意志を許可した事で全知全能では無くなり、唯一無二だったが、自由意志の発生と共に唯一無二では無くなった神である。
創造神は奇跡を許可しない。
次に裁きの神、旧約聖書に出てくるYHVH様はこれに当たる。旧約聖書では正しさを説き背く者に罰を与える神であり、終末を起こして天国へ至る人間を選別する選民思想の神様という性格で描かれている。
ただし、これは旧約聖書を書いた人間の『他者を支配したいという欲望』を元に書かれた捻じ曲がった性格である。ただしくは、因果応報の神だ。
自身が行った行動を自分もされて嫌ではないかを確認させてくれる神だ。
その性格は厳格にして公正だ。努力した者には報酬を楽をした者には罰を与える。この努力には正しい努力と倫理的に間違った努力がある。正しい努力には報酬だけが与えられるが、間違った努力には報酬と罰が与えられる。
間違った努力の例は他人の報酬を盗むという行為がある。この場合、報酬は得られるが因果応報を受けて、その報酬を別の者に奪われる。これは、盗まれる事だけではなく、美男美女に貢ぐ、ギャンブルで失う、法外な値段で飲食するという行為も含まれている。
間違った努力で得たものは何も残らない。
正しい努力で手にいれた報酬は無くなっても自分自身の価値を高めるので、報酬が振り込まれ続けるのだ。
裁きの神は貧富の差を許容する。優劣を許容する。暴力も競争も戦争も盗みも詐欺も支配も独占も許容する。なぜなら、努力せずに弱者で居るという事は、努力し優れた者に負ける事を許容することになるからだ。
裁きの神は弱者を救わない。
それは因果方法だからだ。最初から弱い人間は居る。だが、努力次第で強く成れる。その努力をしないものには生きる価値が無い。これが、裁きの神の世界だ。金持ちや権力者に成りたかったら裁きの神に願えば良い。ただし、負けた者に裁きの神は容赦などしない。
弱肉強食の世界では、敗者は死ぬのが定めだ。
ちなみに、神道では八幡様、仏教では閻魔大王、天使ではミカエル様が、裁きの属性を持っている。弱肉強食と因果応報が好きであれば、好みで選んで話しかけてみると良い。お金は裁きの神の道具なので金持ちに成りたい場合は、裁きの神にお願いすると良い。
お金の本質は、差を生み出す事にある。価値を定めるという行為が貧富の差と優劣の差を明確にするからだ。なので、お金は裁きの領分である。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は裁きの神を信じている。なので、価値観が違う存在を攻撃する。
「汝隣人を愛せ」という教えは裁きの神の教えに背いているのだ。隣人が悪人なら裁くのが教えなのだ。それを否定したキリストは裁きの神の使徒ではない。次に書く慈悲の神の使徒だったのだ。だからこそ、ユダヤ教徒はキリストを予言者とは認めていない。
最後に慈愛の神、新約聖書に出てくるキリストが、これに当たる。裁きの神が見捨てた弱者を救う神だ。因果応報の世界の行きつく先は、唯一絶対の強者が君臨し、弱者は搾取されて救われない世界だ。
それに対抗するために、優しさや愛を司る神だ。慈悲と言っても良いだろう。この神が居るから、金持ちや権力者の中に弱者を救おうと施しを行う者たちが現れる。
慈愛の神は在るがままを肯定してくれる。
慈愛の神は、優劣を決めない。暴力も競争も戦争も盗みも詐欺も支配も独占も許さない。なぜなら、それらは全て人を苦しめる行為だからだ。慈愛の神は人に安息を与える為に存在している。なので、努力も否定する。
努力とは今の自分を否定し優れた自分を肯定する行為なのだが、今ある自分を否定し苦しめることになる。だから、慈愛の神は努力を否定する。今ある自分を肯定して良いという。
最初に作られた楽園は慈愛に満ちていた。誰も努力せず、何でも手に入り、苦しみや悲しみも無く平和な世界が続いていた。だが、想像して欲しい。そんな世界をずっと見続けて楽しいだろうか?飽きないだろうか?ドラマとして面白いだろうか?
たぶん、全人類が肯定してくれると思うのだが、そんなものを見続けるのは拷問に近い苦行だと思う。
よって、聖書にもある通り、完璧で美しい天国から人間は追放され裁きの神と慈愛の神が拮抗している世界に放り出されたのだ。
もちろん、創造神も完全な存在である事を捨ててこの世界を維持している。
弱者は慈愛の神にすがればいい。どんな無能であろうとも許して生かしてくれる。神道では天照大神様、仏教では菩薩様が慈愛の属性を持っている。努力や競争は合わないという人は話しかけてみると良い。
裁きと慈愛、どちらが正しいかは決めようが無い。どちらも正しいのだ。全知全能で唯一無二の神が考えて生み出した誰にも否定されない事実、矛盾、永遠に解決されない問題、これが未知であり、全知全能と唯一無二を捨ててまで獲得した。感動を得る方法が、無数に分裂させた全知全能唯一無二の神々による人形劇なのだ。
我々の本体は魂であり、肉体はデバイスでしかない。
その証拠に、目を閉じて周りを見るイメージをしてみればいい。そのイメージの中心点、私が存在する場所は、視線の先、鼻の上である。心臓でも脳でも無い、何もない空間が私が認識している私が居る空間なのだ。これは、一人称視点の3Dゲームの視点の位置と一致する。
肉体の外に私は存在している。私の実態は魂であり不滅なのだ。
さて、これまでさんざん全知全能唯一無二の神は居ない。聖書の神は全知全能ではないと説明してきた。しかし、私も完全には存在を否定できない。全知全能唯一無二の神がクリエイターだとするなら、それはそうなのだ。
ただ、この解釈だと全知全能唯一無二の神は、世界に干渉しない。今までの物語で、作者が作品に登場し悪役を主人公に変わって倒した物語が面白いと思われて名作だと言われたものがあっただろうか?
聖書が一番有名だろう。ただし、それは物語の最後に出てきて悪を滅ぼし信者だけ救うという話だ。
となると全知全能唯一無二の神は、やはり世界の終わりにしか登場しない。世界が滅ぶ条件は全人類が真っ二つに分かれて戦う聖戦が起こらない限り実現しない。今の世界情勢では1%の人間が聖書を信じて戦争というおままごとをしているに過ぎない。
もっと大勢を巻き込んで世界を二分する本当の人類滅亡を掛けた戦いが起こらない限り、神は現れないし救世主も来ない。
そう言う事なので、裁きの神か慈愛の神と対話して自分の幸せな未来を定め、願いを叶えた方が良いと思う。
最後になるが、裁きの神と慈愛の神と区別しているが、裁きと慈愛の共通点は何か分かるだろうか?答えは二つとも愛が無ければ出来ない事だ。人を裁くのは改心して欲しいからであって憎いからではない。慈愛も罪を犯したものを放置したいのではなく、生かして反省して欲しいからだ。
どちらも本質は同じという事になる。
つまり、二つに分けた神でさえも本質的には一緒で手段が違うだけなのだ。なので、この世界にはやはり一柱しか神は居なかったことになる。
ちなみに、裁きも慈愛も愛が無い場合は、裁きではなく加虐、慈愛ではなく無関心となるので、注意が必要だ。




