手記71
※一部に流血や、暴力的、もしくは生理的嫌悪感を伴う描写がある場合がございます。
苦手な方はご注意ください
ナイフが胸に突き立てられた瞬間、アルマの手足が衝撃で跳ね上がり、その後力無く地面へパタリと投げ出される。
「あ……あぁぁ…………」
その光景に、昨日見た近藤くんが柴田にトドメを刺す瞬間が思い起こされ、オレの口からは思わず呻き声が溢れた。
ま、守れなかった……間に合わなかったんだ……
アルマだけは、守り抜かなくちゃいけなかったのに……
月明かりの下、目の前でアルマが身につけていた白い前掛けが、徐々に鮮血で染まってゆく様を呆然と眺めていると、ふいに樋口さんが立ち上がり、アルマを見下ろしつつ微かに口を動かす。
何で……どうしてなんだよ……
あんなに、楽しそうにしていたじゃないか……
アルマと手を繋ぐのだって、全く嫌そうな顔をしていなかったのに……
連れ去られた時だって、大切な友達だと……
なのに、何で……
眼前で失われていく生命を前に、喪失感からか涙が止めどなく流れる中、ふと先程樋口さんが投げ捨てた斧が視界に入り、オレはゆっくり歩み寄ると斧を拾い上げる。
……その行動そのものは、何かを考えて行ったわけじゃない。
殆ど、無意識だ。
だけど、手に取った斧には……既に誰かの血痕がこびりついていて、その斧が何に使われたモノだったのか……どう扱われていたのかをオレに気付かせるには、充分すぎる程だった。
「…………もう、戻れないんだな。」
青白い月光を鈍く反射する斧頭に視線を落としながら、オレはそう呟く。
何日か前にこの庭で出会って以降だから、それほど長い付き合いってわけじゃないけれど……本当に友達だって思ってた。
だから、ああやって追い回されていても、きっと樋口さんなら……いつか止めてくれると、信じていたんだよ……
でも、オレがこんなんだから……アルマを……みすみす、死なせて……
なぁ……オレは、どうしたらよかったんだ?
彼女が言うように、森の外へ逃げようとしたのが悪かったのか?
大人しく逃げ回って、その時が来るのをただ待つべきだったのか?
……分からない……何も、分からねぇよ……
───ヤメロ!ヤメテクレ!!オレハシニタクナイ!!
深い絶望感に打ちひしがれる最中、どういう訳か謎の幻聴が再びオレの耳へ届くと、ふとオレの中にある考えが浮かんだ。
まるで、オレ自身の声みたいだな……格好つけてるけど、オレだって死にたくないさ……だけど、オレにももう時間は残されちゃいない……
例え今この場から逃げ出して、万に一つの確率で逃げ切れたとしても、そのうちオレも樋口さんのように……
だったら……だったらさ……今、オレのやらなくてはいけない事は……一つだ。
そう決意して、オレは一歩を踏み出す。
アルマを刺した事が、許せないとかじゃない。
その気持ち自体は無いわけではないが、それよりも……あの思慮深かったはずの樋口さんが、これ以上誰かを傷付けたり、殺めたりするだなんて考えたくなかった。
だが、世界に復讐をすると彼女が口にした以上、このままでは何も知らない人達にも、少なからずの被害が出るだろう。
なら、例えオレの身がどうなろうとも……オレの大切な友達に、そんな事を続けて欲しくない……そんな、ワガママのような感情から……
オレは……オレは、彼女を……彼女が、化け物になる前に……
そうして、どういう訳か立ち上がってからはこちらに背を向けたまま、森へ続く道の先を見ている樋口さんへ、オレはゆっくりと近付く。
気付かれてしまえば、こちらに勝ち目は無い。
恐らくは、なす術もなくオレも森田同様に殺されてしまうのだろう。
だから……やるなら、今なんだ。
オレは必死に自分へ言い聞かせながら、震える手のまま意識を逸らしている彼女の背後へと歩み寄り、斧を振りかぶった。
しかしその瞬間、脳裏に彼女とのやり取りや、昨晩見た涙が思い起こされ、オレはそれ以上の行為に及ぶ事が出来なくなる。
……寒くもないのに身体が震え、歯同士がぶつかってカチカチと音を立てているけれど……これは、緊張とかそういうのじゃない。
例え決意をしたとしても、大切な友達をこの手に掛ける事なんて、オレには───
「……やっぱり、貴方は優しいのね。」
「ひ、樋口さん!?」
気付いていたのか!?
「でも……だから、貴方は……大切な人を守れなかったのよ……優しいのと、甘いのは違うの……」
「何を言って……」
「……もう、終わりにしましょう。」
背を向けたまま何かを呟いた為、オレが彼女へ問い掛けると、樋口さんは振り返り静かにそう告げる。
……だが言葉とは裏腹に、彼女はそれまで以上の圧迫感を放っていた。
───殺される
彼女が直接言った訳ではないのに、その圧倒的な気配にあてられたオレの脳裏には、先程見た森田の末路が浮かぶ。
全身の震えと、冷や汗が止まらない……
心臓だって、早く逃げろとオレを捲し立ててやがる……でも、動けないんだ……
怖いだとか、そんな事を考える余裕すら無く、ただただ自分が狩られる側なのだと思い知らされたからか、オレは彼女がゆっくりと右腕を掲げ上げる様を、斧を振りかぶったまま眺める事しか出来なかった。
あの腕が振り下ろされれば、考える暇も無くオレは死ぬ……
何ともあっけない結末だな……
そんな諦めにも似た考えが頭をよぎった瞬間……今度は、オレの奥底から全く別の感情が湧き出してくる。
───死にたくない
……それは、恐らく人が生まれながらに持つ、恐怖から来る剥き出しの本能のようなモノだろう。
だが、そんな本能に突き動かされたオレの身体は、オレの意思とは関係無しに動き……そして、振りかぶったままの斧を彼女へ目掛け、振り下ろした。
きっと、冷静であれば斧が彼女へ届くはずがないだとか、考えていたのだと思う。
だが、オレ自身の意思とは無関係に振り下ろされた斧は、どういうワケか……彼女を捉え……
……そして、彼女の左鎖骨辺りに、深々と突き立てられたんだ。
刃が彼女の骨を断ち、肉を裂く感触がオレの手にも伝わり、驚きのあまりオレは最後まで振り下ろす前に思わず手を離すと、支えを失った斧が地面に落ち、同時に彼女も糸が切れた人形のように地面へと倒れる。
あれ……?今、何が……起きて……?
お、オレが……やった……のか?
地面に仰向けに横たわった樋口さんを見下ろしながら、自身が何をしたのかの理解が及ばないまま、オレは呆然と立ち尽くす。
「オレじゃない……オレじゃない……オレじゃない……」
恐らくは混乱からだろうが、無意識に自らの行いを否定する言葉を繰り返し吐きつつ、少しの間オレは彼女を見下ろした後、ふいにアルマを確かめなければと思い、未だ震える足のまま、ゆっくりとアルマへ近付いた。
「アルマ……ごめん……オレの、せいで……」
……胸元を鮮血で染めあげたアルマを前にして、後悔の気持ちからオレが呟いた直後、何かが足元に落ちている事に気付き、オレは違和感から涙で霞む目を何度も拭いつつ、その物の正体を確かめてみる。
すると……
「ナイフの柄……?」
……先程樋口さんが握っていたと思われる、果物ナイフの柄が落ちていたのだ。
血液らしきドス黒いシミもあるから、今しがた刺すのに使われた物で間違いないと思うけれど……どうして、柄〝だけ〟が……?
刃の部分は何処に……?
さして長くなかったとはいえ、どういう訳か刃だけが無くなっている事を不思議に思い、オレは辺りを見回すも周囲には落ちてはおらず、もしかしたら刺した衝撃で折れてしまったのかと考え、アルマの胸元を確認する。
「…………え?何だ、これ……刺し傷は……?」
だが彼女の胸元には、折れたナイフの刃先はおろか……服が裂けたような形跡すら見当たらない。
なら、この血液は……一体……?
い、いや!!それより、これってもしかして……!?
注視している間、微かにアルマの胸元が上下している事にも気付いたオレは、慌てて彼女の口元へ耳を近付けてみると……
「……息が、ある!!」
……そうして彼女の呼吸を確かめつつ改めて胸元を確認するも、やはりナイフの刃先は刺さっていないらしい。
「よかった……」
生きてる……アルマは、無事だった……んだ…………
彼女の生命に別状が無い事に安堵した瞬間……それまで見えていなかった状況に気付き、心臓が一際強く脈打つような感覚を覚えた。
……ちょ、ちょっと待てよ?
じゃあ、樋口さんは……アルマを刺していなかったって事!?
な、何で!?どうして!?
第一、この血液もどこから……って、まさか!?これ、樋口さんの……
「ゲホッ……」
点同士が繋がり、オレの見えていなかった事象が薄っすらと見え始めた直後、樋口さんが大きく咳き込んだかと思えば、荒く早い呼吸音が聞こえ始める。
息を吹き返した!?なら、まだ助けられるかも……!!
やっぱり、樋口さんは……樋口さんだったんだ!!
そうして、オレは自らの所業を半ば忘れたかのように、樋口さんへ慌てて駆け寄るのだが……
「……ハァ…………」
……石畳に広がり始めた赤い水たまりの中で横たわる彼女を見た途端、この光景を生み出したのがオレ自身なのだと漸く思い出し、オレは思わず彼女の隣で膝をついた。
オ……オレ……なんて事を……
出血も……こんなに……
いや!!今は呆けてる場合じゃない!!
まずは止血しないと!!
そう考えて、彼女の傷口を両手で押さえようとするのだが、どうにも範囲が広く、また傷自体もかなり深い為、とてもではないが手だけでは止められそうにない。
「クソ!!血が…………!!何か、傷口に当てるものは……!?」
呼吸音が酷く苦しそうだ……それに、ゴボゴボって水音みたいなのも混じっているような……?
ど、どうしたら……そうだ、オレの服を裂いて縛るのとかは……
「マ………サト…くん………」
「樋口さん!?」
どう手当をすれば良いのかがわからず、ただひたすら溢れてくる血を両手で止めていたオレの手に、そっと自分の手を重ねながら息も絶え絶えにオレを呼ぶと、彼女は微かに首を横に振ってみせる。
それは、もう助からないって言いたいのか……?
確かに、このままだと……
いや!だとしても、キミを死なせるだなんて───
「ばか……」
馬鹿で結構だよ!!実際そうだしな!
だって、オレがもっとキミを信じていたら……オレがもっと強かったら……オレがもっと……
……早く、キミの行動に気付いていたら……こんな事には……!!
そんな気持ちから、オレが必死で止血を試みていると……
「わ……たし……じょ…ゆうに……なれ……る……かしら……?」
……彼女は口元にだけ笑みを浮かべながら、そう強がる。
だが、言葉とは裏腹に瞳は虚空へ向けられていて、息も荒く、その姿は痛々しさすら覚える程だった。
「なんで……こんな事を……」
女優……つまり、あの鬼ごっこは演技だったのだと暗に告げる彼女へ、オレは疑問から思わず真意を問うと、彼女は何も答えないまま再び首を横に振る。
答える気は無いって事!?
こうなるのを望んでいたとでも言うのかよ!?
「ねぇ……マサト、くん……おね…がい……が、ある……の……」
お願い……?
何だよ、それ……やめてくれよ……それじゃあ、まるで……
「何?」
「わた…しの……なま、え……よんで……」
名前……?
「樋口さん?」
「ちがう……なまえ……」
オレが彼女の苗字を呼ぶと、彼女は酷く不満そうな表情でオレを見るのだが……その双眸は元の黒い瞳に戻っており、樋口さんが正気に戻っている事を如実に物語っていた。
……名前って、下の名前の事か。
そういや、呼んだ事なかったな……だけど、こんな時に何で名前なんだ?
「ミ、ミオ……?」
状況にそぐわない要望に、気恥ずかしさを覚えつつも、それが樋口さんの望みであるならばと思い、オレが初めて彼女の名を呼ぶと、彼女は満足そうに笑みを浮かべて瞳を閉じる。
───そして次の瞬間、止血を続けるオレの手に重ねられていた彼女の手が、力無く地面へと落ちたのだった。
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