二十七話 向こう側②
戦が終わっても、重隆や職隆に休んでいる暇はなかった。
それこそ城を落として二日が経った後でも、二人はろくに休憩も取れていない。
彼らのこなすべき事務仕事は、いまだ山のように残されていた。
むしろその量だけで言えば、戦の最中よりも二人の苦労は大きかったかもしれない。
そもそも読み書きと計算ができ、さらに情報を適切に紙にまとめる能力のある人間は、どうしてもその数に限りがあった。
かと言って、この城の実情を知っているであろう、香山氏の降兵をそのまま黒田側に移行させるには、多少どころではない不安が残る。
そのため、重隆たち、また直近の部下の処置が必要な仕事の量は、否が応でも増加しがちになった。
いやただでさえ、彼らしか判断できない問題も多いのだ。
たとえば捕虜をとりまとめる仕事一つとっても、それぞれが武器を隠し持っていないか、反抗的な者を抑えるために何人の兵が必要か、あるいは一箇所に何人まで留めておけるかなど、可能な限り素早い判断を求められる場面は多い。
ほかにも、香山城に備えられている兵糧・武具を集め、その数量を精査する作業。
具体的には帳簿をつけながら、実際にその数を確認させる作業だが、そこで抱える兵数に対して不足分が見つかれば、人を動かして自領の村や商人にいち早く連絡を付ける必要がある。
それ以外にも内向きに細かい仕事は数多くあった。
しかしそこに加えて外向きの仕事、城の防衛も手を抜くわけにはいかない。
兵の配置。
壊れた設備の修復や、適切な武具の配備。
もしくは、政職から送られてくる援軍の受け入れ準備。
いちいちの仕事について部下への指示や報告の確認を含めると、現在の香山城にはとにかく過剰な仕事量が存在していた。
しばらくすれば黒田庄から応援が来る予定ではある。
だが、それまではなんとか今の状態で耐え忍ばねばならない。
……とはいえ。
重隆や職隆が、目の前に仕事そのものに悪い感情を持つことはなさそうだった。
それどころか体に溜まる疲れは心地よいほどで、するべきことをしているという充実した時間は彼らに充分な活力を与えていた。
「少しよろしいですか」
夜になり、父である重隆のもとを職隆は訪れていた。
とある屋敷の一室。
香山城の本城は火を付けられたため、重隆は本城の一つ下の郭、最も大きな屋敷に一時的に居を構えている。
「どうした?」
胡座をかいて座っていた重隆は、部下に渡された帳簿を置くと、職隆に視線を向けた。
職隆は重隆と同じく、疲れた顔色を見せている。
しかしまだ余裕のある重隆に対して、職隆の表情にはどこか険しい部分が含まれていた。
「何か問題が起きたか」
そう重隆が尋ねると、職隆は頷いて重隆の前に座った。
「南郭についてなのですが」
「ああ、兵五十人の半数が死んだという話だろう。報告は届いている。生きて残ったのが、二十人そこそこだとな。思ったより減ってしまった」
「ええ。実は、その兵に関する話なのですが」
「なんだ? 兵を失ったのは自分のせいだとでも言うつもりか?」
重隆は息子の顔色を見て、冗談のつもりでそう言った。
しかし、
「……南郭に回す兵を減らしたのは自分の判断があってのことですから、言い訳はできません。被害が予想より大きかったのは確かです」
「ん?」
予想外の息子の反応に、重隆は驚いたような表情を見せる。
(……まさか本当にそんなことを言いに来たのか?)
重隆には信じられないことだった。
彼はがしがしと頭を掻くと、職隆に向かって口を開く。
「そう物事を悪く考えるものではない。兵を失った理由の大部分は、兵を率いていた者が退き時を間違えたことだ。届いた報告を聞いた限りでは、そう判断するしかない。わざわざ敵兵の多い、しかも守備を固めているところに突っ込んでいくとは。南郭を完全に攻め落とす必要はないと、しっかり伝えていたんだろう?」
それは職隆に質問したふうではあるが、重隆は返事を待たなかった。
「しかも、その五十人は先立って略奪までやっていたようじゃないか。どうせその時、金目の物を持てるだけ持ちだしたのだ。懐の中身が重くて戦えなかったのなら、それは誰のせいでもない。兵自身の責任だ」
「ですが、南郭で戦った兵に郎党らはわずかしか含まれていませんでした。北郭に戦力が必要だと、引き抜く時、私が故意に選び出したのです。その時いくらかでも配慮しておけば、もう少し統制も取れ、被害を減らせたのではないかと」
「……いや、それは」
後出しでならいくらだってそんなことは言える。
重隆は思ったが、職隆は本気でそのように考えているらしい。
(戦の最中には落ち着いているように見えたが、なぜ今になってこんなことを)
あるいは、その揺り戻しが来たのかもしれなかった。
戦で高ぶった血は、時間が経つと余計に冷える。
(これは話が長くなってしまうか)
いや、長くなっては困るのだった。
自らの失策で失った者を嘆くのは今の職隆がやるべきことではない。
兵の死を想うのは、この状況に一段落が着いてからでいい。
ただ――こうやって悩むのも経験のうちではあった。
重隆は考える。
戦の最中に少しばかり片鱗を見せたとはいえ、職隆はまだ二十歳を過ぎて数年しか経っていない。
半分名目であったにしろ、総大将という立場の重責も感じていたはずだ。
重隆はとりあえず、自分の座る姿勢を楽にした。膝の上に腕を乗せ、それで顎を支える。
「まあ、お前がどう思おうと、五十名を北郭に回したのは間違っていない。全体を通して見れば、結果は上等以外の何ものでもないのだ。それ以上を求めるのは傲慢にしかならない。戦で、人は死ぬものだ」
職隆は黙って話を聞いている。
だが、一向に納得した様子はない。
(もう少し強く言っておくべきか)
息子の態度に、重隆は判断した。
「その上で誰かに慰めて欲しいのなら、自分の屋敷に帰ってから嫁にでも甘えろ。息子の顔を見るのでもいい。ただ今は、気を張っていろ。お前もわかっているはずだ。お前の感傷に付き合っている暇は誰にもない」
すると慰める、という単語には引っかかったようだ。
職隆は何かを反論しようとした。
しかし、重隆と視線を合わせると彼は勢いを失ったのか、強引に言葉を飲み込んだ。
そして、少し時間を置いて職隆が口を開く。
「父上に判断をお願いしたいことがあります」
「いったい何についてだ。早く言え」
少し苛ついた声で重隆が答えた。
「南郭で生き残った兵の扱いを。彼らについて、どうか」
「む?」
最初、なぜ職隆がそんなことを言い出したのか、重隆にはわからなかった。
確かに戦の後の兵の扱いに関して、重隆は息子に全てを一任している。
それは論功行賞の判断も含まれ、南郭の兵についても職隆が判断するべき範疇に入る。
「私が判断しようとすると、どうしても手心が入ります。だからと言って配下の者に任せるには大役ですし、しかも私の意向を探ろうとしますので」
訝しげな重隆の視線を受けて、職隆はそう述べた。
(つまり、客観的な判断をしてほしいということか)
ここでようやく重隆は息子がわざわざやってきた事情を把握した。
職隆は細かな部分での落ち度にこだわり、いささか自信を失っているのかもしれない。
(これは、断って無理矢理やらせるのも一つの手か?)
自らの器を広げることを見据えれば、今後の糧になるだろう。
(しかし、それで職隆の仕事をする手が遅くなったら?)
それも困る話ではあった。
今はいくらでも仕事が溢れている状態なのだ。
「今はその者らに何をさせている?」
「ひとまず動ける者には武器の点検をさせています。集めさせた槍などから壊れた分を取り除き、汚れがあれば磨いておくようにと。怪我人はまだ起き上がれないようでしたから」
「……分かった。では、その兵らについては私が考えておこう」
結局、優先するべき順序を考え直した重隆は、甘いかとも思ったが、職隆にそう答えを返した。
すると職隆は安心したように首を動かして、大きく頷いてみせた。
■
目が覚めた幸村は暗い部屋の中で体を起こした。
握り飯を食べて、さらに一眠りしたからだろう。
先に起きた時とは違い、およそ思い通りに体は動いた。
手をついて起き上がるのにも、何ら苦労は感じない。
長い時間眠っていた割には、頭がやけにすっきりとしていた。
ひどく目も冴えている。
昼過ぎに眠り始めて、どれだけ時間が経ったのか。
すでに日は落ち、夜になっているようだ。
辺りは物静かで、横で眠っている兵の寝息だけが聞こえた。
もしかしたら、だいぶ深い時間帯になっているかもしれない。
ろくな光源がなく、ほとんど何も見えない部屋の中を見回して、幸村はあくびを一つ。
(朝までもう一度寝直すか?)
少しだけ幸村は逡巡した。
しかし昼間、吾助に言われた言葉、
『もういろいろ終わってる』
それを思い出した彼は一度起き上がって、外に出てみることにした。
幸村は一度背を反らした後、ゆっくりとその場で立ち上がる。
「……ぁ!」
そして一歩踏み出した瞬間、思わず幸村は顔を引きつらせた。
床に足を着いた途端、痛みを感じるほどに両脚のふくらはぎが痺れ出したのだ。
どうも二日も横になっていたので、体がひどく鈍っていたらしい。
ふらふらと姿勢が崩れそうになるのを幸村はなんとか踏ん張って耐えた。
ここで一度座ってしまうと、今外に出るのを諦めそうな気がしたからだ。
少しの間じっと動かないでいると痺れはどうにか収まった。
横で眠っている兵を踏まないよう気を付けつつ、幸村はそろそろと足を進める。
板敷きの床から降りる時も大変だった。
暗くてよくわからない地面を足で擦るように探して、幸村は草履を一足見つける。
そうやって見つけた草履が自分の履いていたものかはわからなかったが、少しの間借りるくらいなら人のでも問題はないだろう。
しゃがみこんでそれを履いた幸村は部屋の戸を開け、一歩外に出る。
すると、思った以上に部屋の外は暗かった。
ちょうど月が雲に隠れているらしい。
隙間から漏れるかすかな星明かりだけが、薄暗く地面を照らしている。
部屋の戸をゆっくり閉めると、幸村はとりあえず二三歩前に出た。
周囲に人の気配はない。
ただただ肌寒く冷たい風が吹いて、幸村の全身が打たれるばかりである。
そこでふと、幸村は空を見上げた。
雲の隙間に見える、輝く星々。
彼はそれを眺めて、目が慣れるのをしばらく待った。
少しして、視線を戻す。
そうして暗闇に目が慣れても、あまり遠くまでは見渡せなかった。
しかしそれでも、幸村の目に映った光景はどこか彼に見覚えのあるもの。
そして一度振り向いて、ようやく彼は確信する。
幸村が今まで寝ていたのは、南郭の二段目にあった長屋の一室であった。昼間想像したように、その長屋のおよそ中央にある部屋、そこで幸村は二日間眠っていたようだ。
また、一筋の風が吹く。
その瞬間、何の拍子か、幸村はあの時の出来事を思い出した。
家族を守ろうとして最後の抵抗を図った男と、我欲に奔って死んだあの兵。
この長屋はその二人が死んだ場所。
幸村は視線を横に動かした。
やはり暗くて何も見えない。
しかし、半ば無意識に幸村はそちらの方へ向かって歩き始める。
長屋の一番端、あの女性と子供がいた部屋の前。
その場所にはすぐに辿り着いた。
当然、遺体は残っていなかった。
二日のうちに、片付けられたのだろう。
土をかぶせたのか、地面に血の跡も残っていない。
それでも間違いなく、ここで人が死んだ。
幸村は自身の目でその現場を確認した。
そうして地面に向けていた視線を幸村は正面に上げる。
あの親子がいるはずの部屋。
なんとなく、胸が騒ぎ始めていた。
その戸の向こう側に、まだあの二人はいるのだろうか。
あの時のように、まだ恐怖で震えているのか。
知らず知らずのうちに自分の右手が伸びているのに気付いて、幸村は一瞬戸惑った。
部屋の戸を開けて、いったい自分は何を確認しようというのだろう。
あの時も、そしておそらく今も、幸村の無力さは何も変わっていないというのに。
もう戦は終わっていた。
そしてその戸は少し力を込めれば開く、軽い木戸のはずだった。
ただ彼はいつまでもその場に立ち尽くしたまま、部屋の中を覗くことはできなかった。




