二十六話 向こう側
香山城の攻防戦は黒田家に軍配が上がった。
敵の大将である香山重道の首は、重隆と職隆の二人が確認した後で保存のため塩漬けにされている。
これはのちに首級を小寺政職に送り、彼に首検分をさせるためだ。
もちろん、その首を晒したりなどはしない。
それどころか重隆たちが小寺氏の庇護を受けるには必要不可欠な条件と言ってよかったので、首を含めた重道の遺体はひどく慎重に取り扱われた。
また二人は首を送るよりも先、城を落としてすぐの時点で小寺政職に早馬を送っている。
これは黒田家と小寺氏の当初からの取り決めで、政職に後詰の援軍を依頼するためであった。
そのように戦が終わった後に援軍を頼むのはおかしな話だったが、それは香山氏を庇護していた宇野氏が報復の軍勢を香山城に向けてくる恐れがあったから。
つまり、重隆たちは宇野氏への抑えと牽制の役割を小寺氏に頼んだということだった。
そして現状、その約束を政職が破る理由はない。
早いうちに、黒田家を庇護したと周囲に喧伝する必要もある。
そのため、小寺氏の領地から使者が帰ってきたのは重隆たちが予想したよりもずいぶん早かった。
『早急に援軍を送る』
政職の返書は簡潔なものだった。
しかし彼はよほど気が急いでいたのか、その短い文章を書くだけでも文字の列が乱れている。
署名となる花押もどうも右斜めに傾いているようだ。
「政職殿はよほど嬉しがっているらしい」
返書の中身を見た重隆は息子にこう言って、良い笑顔を見せた。
その話を聞いた職隆や周囲の武将たちも笑みを浮かべる。
彼らはそれぞれ、将来を賭けた勝負に勝ったことを理解していた。
自らの手で新たな道を開いたのだと、皆が喜んでいるのだ。
そしてその喜びは彼らだけの話にとどまらない。
まだ後始末は残っているにしろ、兵たちも一連の戦の終わりが見えて、ひとまずほっと胸をなでおろしている。
その中でも特に怪我一つ負うことのなかった者たち。
彼らは我が身の無事をことさら安堵し、人並み以上の幸運をしっかりと噛み締めていた。
まぶたを開くと、見覚えのない天井が視界に入った。
まだらに染みが浮いている、その天井。
年月が経ち、梁が黒ずんでいた。
しばらく忘れていた屋根のある生活を幸村はふと思い出す。
瞬間、自分の体を起こそうと幸村は上半身に力を入れた。
それまでの自分の状況が一気に蘇ってきたのだ。
(ここは!?)
しかし、腹筋に力が入らなかった。
思うように体が動かない。
上に掛けられている薄い布切れでさえ、今は重く感じるようだ。
なんとなく、全身の血の巡りが悪くなっていた。
まるで縄か何かで、体を縛り付けられているような感覚。
もちろん現実にそんなことは起こっていない。
(結局、どうなったんだ)
動けない幸村は、仕方なく横になったままで頭を巡らした。
彼が覚えているのは、三段目の郭で吾助の腕に応急処置を施したところまで。
そこで幸村は吾助に覆いかぶさるようにして、気を失ったはず。
思ったより頭を殴られた時の衝撃が大きかったのか。
幸村はゆっくりと左腕を動かして、こめかみの辺りに手のひらを当てる。
すると、特に痛みの酷い箇所が、包帯のような布で巻かれていることに彼は気づいた。
(治療されてる?)
それが何を意味するか、もちろん幸村には理解できた。
あの場で倒れた幸村が放置されず、こうして治療を受けられたというのは、味方の誰かがここまで彼を運んで、包帯を巻いてくれたということにほかならない。
ならば、城内はもう安全な場所になっているということだ。
(死なずに、済んだ)
そこまで考えて、ようやく幸村はほっと息をつくことができた。
どうにか、戦を乗り切った。
そうはっきり自覚すると、幸村の体からは何か重たいものが抜けていくようだった。
何度かゆっくりと呼吸を繰り返した後、幸村はあらためて無理の無い範囲で頭を動し、自分の周囲を見回す。
そこは家具も何もない、薄汚れた部屋だった。
広さは六畳もないだろう。
ただ気付いたのは、幸村の隣に二人の男が横になって眠っていたこと。
見覚えのある顔ではないが、彼らはおそらく味方のはずだった。
なぜなら二人とも、体に怪我をしている。
布団代わりに掛けられた布きれからはみ出た腕と足に、幸村と同じように布で巻かれている部分があるのだ。
(怪我人が担ぎ込まれた部屋か)
さすがにその場に放置されたままにはならなかったらしい。
ならばこの場所は、二段目の郭にあった長屋の辺りかもしれない。
幸村は予測する。怪我人をそこまで遠くに運ぶのも面倒だったはずだ。
そしてこの部屋に居る三人は、比較的軽傷の類に入るだろうと考えて間違いはなかった。
なぜなら重傷であれば眠った状態でも呻き声が漏れるはずだし、そのことを幸村は前の戦で見張りに立った時に経験している。
しかしそうなると、幸村と同じ場所に倒れていた吾助はどこに運ばれたというのか。
(思ったより、重傷だったか)
実際問題、怪我の具合がひどいとその場で一息に楽にされることもある。
(いや、まさか……)
そんなことを想像すると、だんだん幸村は黙って寝ているわけにはいかない気分になってきた。
そして彼がまたなんとか体を起こそうと腹筋に力を入れた、ちょうどその時。
彼の寝ていた部屋の戸が開き、誰かがその向こうにひょいと顔を見せた。
音に反応した幸村はそちらに視線を向ける。
「おお、目ぇ覚めた?」
そうして幸村に掛けられた声には、まったく切羽詰まった響きがなかった。
その声を聞いた幸村は、半分起こしかけた体から一気に力を抜く。
幸村の心配はまったく的はずれであったようだ。
入り口横の戸から顔を出したのは、片腕を肩から吊るした男。
やけに明るい笑顔を向けてくるその男は、まさに吾助以外の何者でもなかった。
「とりあえず飯食う? 飯」
あらためて起き上がった幸村を見て、吾助はそう言った。
そして幸村が返事をする前に吾助はその場からいなくなると、すぐにどこからか握り飯を二つ調達して戻ってきた。
放るようにして投げ渡されたその二つをなんとか受け取り、幸村はそれらを貪るようにして頬張る。
もういつから食べていないのか、握り飯を目の前に幸村の空腹はひどかった。
そのため、いくぶん大きめに握られていたはずの握り飯は、ものの数分で幸村の胃の中に収まってしまう。
「美味かった」
指についた米粒まで食べ終えると、なんとも言えない調子で幸村は声を漏らした。
「あんたにすりゃ久々の飯だもんな。でもせっかくだったら、昨日の内に目ぇ覚ましときゃ良かったんだよ。それならもう少し旨いもんも食えたんだぜ。酒も出たんだ」
幸村が夢中になっている間に部屋に上がり込んでいた吾助は、狭い床になんとか腰を下ろしながらそう言った。
その声があまりに大きいので、横に寝ている兵を起こすなと幸村は注意する。
すると、「へいへい」と言って、吾助はぽりぽりと頭を掻いた。
「それで、今日は戦が終わってから何日目だ?」
人心地ついたところで、さっそく幸村は質問する。
『昨日』という言葉が気になった。
ああ、と吾助は頷いて答える。
「二日だよ、二日。戦が終わったのはおとといの夕方くらいだろ。いや、その時はまだ俺も寝てたからよく分かんねえんだけど」
「なら、お前はいつ起きたんだ?」
「昨日の朝。そんで昨日の昼が過ぎたくらいには、もう城の中も落ち着いてたかな。んで今は、二日目のだいたい昼すぎくらい?」
幸村が思ったより、意外に時間が経っていた。
二日あれば降兵の取りまとめなども終わっているだろうか。
吾助に尋ねると、すでに黒田家全軍が城の中に入っているという。
「そういえば、俺もちょうど今昼飯食ってきたばっかでさ。ほら、片手だとやっぱ飯食いづらくて、すげえ時間掛かるんだ。それで早く食えって怒られて。しょうがないから椀持ってこう、口に流しこむ感じで食ったんだけど」
続けて吾助がどうでもいい話をしようとしたので、幸村は首を振って話を制止すると、再度吾助に尋ねる。
「それよりお前、大丈夫なのか、腕は?」
「腕? ああ、動くことは動くけど、力入れると痛えから。あんまり動かしたくないな」
「……そうか」
幸村がした処置の影響かはわからないが、少しでも動くならとりあえずは良かった。
自分のやったことに少しでも意味があったかもしれないと思うことができる。
「まあ、生きてるだけでめっけもんだったんだろ。昨日起きた時は、頭ふらふらしてしょうがなかったし。今は治ったけどさ」
そう言う吾助の表情に落ち込んでいるところはない。
「ってか俺もそうだけどさ、あんたの方がやばいんじゃねえの? だって怪我してんの、頭なんだろ?」
そう言って吾助は幸村の左肩のあたりを指さした。
幸村がそこに目を向けると、上着の首元から肩の先までが赤黒く変色している。
おそらくその部分は、幸村の頭から流れた血で染められたのだろう。
かなりの量、血が流れたようだ。
しかし、今のところ幸村に血が足りなくてふらふらするという感覚はない。
あるいは頭からの出血だから、少し大げさに血が流れただけなのかもしれない。
「洗っても落ちないだろうし、着替えないと駄目だな」
「……いや、そういう問題じゃねえと思うけど」
その反応に、吾助は幸村の頭がまだ本調子ではないと考えたようだ。
「あー。じゃあ、俺ちょっと仕事頼まれてるからいなくなるわ。あんたも動いても大丈夫そうだったら外出てみたらいんじゃね? ……もういろいろ終わってて、つまんないかもしんないけどさ」
そう言って吾助は部屋の土間まで降りると、草履を履き直した。
「あとそうだ。俺の腕に包帯巻いてくれたのあんたなんだろ? 昨日、俺を運んでくれたおっちゃんに礼を言いに行った時、そう言われて」
そこで一度言葉を切った吾助は、幸村の方を向かないまま、照れくさそうに鼻の下を擦った。
「礼を言わなきゃと思ってたんだ。助けてくれてありがとな」
それだけ言って吾助は幸村の返事を聞かず、さっさと部屋の中から出て行ってしまった。
そうして部屋に残された幸村は、なんとなくまた寝床に横になる。
『どちらかと言えば礼を言わなければならないのは、自分の方だったのではないか』
幸村はそんなことを思いながら、軽く目を閉じた。




