十九話 壁④
戦は続いていた。
幸村の目の前には今、無精髭を伸ばした赤黒い顔があった。
男はひどく充血した目をしている。
目尻には、白いやにがたまっていた。
またその身長は幸村よりもやや高い。
もみあげの辺りには白いものが見える。
額の皺も深く、年齢は幸村より二回りは歳上であろう。
ただ、その顔周りと頭以外、男の体に老いの兆候は見られなかった。
二の腕の筋肉は見るからに隆々としていて、事実、力も強いのだ。
そこに加えて、男はこのような場面に慣れている様子さえある。
素手での、戦闘。
得物を落としてしまった幸村と男の格闘は、ひとまず膠着状態を保っていた。
二人は額をぶつけ合うようにして組み合いながら、互いに相手を牽制しあう。
男は隙あらば幸村の首に手をのばそうとしていた。
それを幸村は相手の肩、腕の付け根の辺りを押さえることで防いでいる。
純粋な、自分自身の力で戦わねばならない状況。
あまり幸村に余裕はなかった。
これまでの疲れもあって、時折、男に押しこまれそうになる。
(味方は――)
さきほどから幸村は大きな声をあげて助けを呼んでいた。
だが、周囲の味方からの反応はない。
助けを呼ぶ声が周りに聞こえていないわけではなかった。
単に戦っているのが幸村だけではないということだった。
その点は彼も重々承知している。
しかしそれでも一瞬、幸村は周囲に目をやってしまう。
その余計な行為がわずかな隙になった。
男が勝負を決めにきた。
頭突きをかまそうとして、男が頭を振りかぶる。
それに少し遅れて反応した幸村は、互いの体の隙間に膝を入れこんで距離を取ろうとした。
が、うまくいかない。
そして気づいた時には、眉間に強い衝撃が走っていた。
視界が、大きく揺らぐ。
一拍遅れて鈍い痛みがやってきたかと思えば、目の前が真っ暗なままになった。
無意識に目をつぶり、そのままの状態でいたのだと気づくまで少し時間がかかった。
まぶたに力を入れ、無理やり目を開ける。
時すでに遅かった。
男の両腕が自由に動くようになっていた。
抵抗する間もなく、幸村の首に手が回される。
相手の二の腕に血管が浮くのがかすかに見えた。
次の瞬間、幸村の喉が男のあらん限りの力で締めあげられた。
息が、詰まる。
みるみるうちに呼吸が苦しくなった。
男の指を引き剥がそうと幸村は相手の両手を掴んだ。
力を込める。
全く動かない。
ならばと、爪をたてたがうまくいかなかった。
足を振って男の体を蹴りあげてもみる。
何ら成果はない。
そしてまもなく、危険な領域に入った。
次第に意識が薄まり始めた。
視界の端々が白くかすんでいく。
声もあげられない。
脳に酸素が回らないのだ。
最後には思考も途切れ途切れになった。
本当に死ぬ時は自分が死ぬのだということすら考えられないのか。
やっとそれだけを思い、だんだんと腕も足も動かなくなっていく自分の体に恐怖を覚えた、その時。
すぐ横で大きな叫び声があがった。
幸村の横を何かが通りすぎる。
それと同時に低く槍が突き出され、幸村の首を締め上げていた男の脇腹が貫かれた。
小さく開いた口から漏れたのは、ほのかに白い息ばかり。
声はあがらなかった。
歪んだ表情こそ、ほんの一瞬限りのこと。
すぐに男の口が閉じられた。
次いで奥歯が割れてしまいそうなほど、ぎりぎりと歯を食いしばる音が聞こえる。
顔はみるみる間に赤く変わり、目の前の男は必死の形相で痛みをこらえていた。
だかまだ、男は諦めていないようだった。
幸村の首から手が離れない。
しかしそれゆえ、男の不幸は続いた。
男のことさらついていなかった点は、その腹を突いた槍の先端が戦の中で丸まっていたことだろう。
切り裂くのではなく押し開くようにしてできた傷口は半端で、従って、槍を握る手に伝わった手応えは妙に引っかかったようになる。
だから、駄目押しがなされた。
槍の根本、石突きが膝でぐいと押された。
自然、槍はさらに腹に食い込む。
ついには穂先が腹の中に飲み込まれ、見えなくなった。
か細い声が男から漏れた。
大きくなった傷の隙間から生暖かい空気が立ちのぼる。
肌寒い風に乗り、途端に匂いを放ち始めたその白い湯気は、まるで生きる力が漏れだしているようでもあった。
実際、男の体から一気に力が抜けた。
幸村は懸命に力を込めて、男の両肩を掌で突く。
その勢いのままに、ついに男が地面に倒れた。
立ち上がってくる様子はない。
槍も脇腹に突き刺さったままである。
決着が着いた。
倒れこみたいのを我慢して、幸村は腹と膝に力を入れる。
大きく息を吸った。
すぐに視界に色が戻ってきた。
何度か瞬きをして目を慣らすと、その視界の端に人の影が映り込む。
「なにやってんだよ、危ねえよ!」
乱暴な口調は吾助のものであった。
やけに低い位置から聞こえ、幸村は少しだけ顔を下に向ける。
すると、吾助が倒れた男の腹に足をかけ、雑に槍を引き抜いているのが見えた。
そこでようやく、自分を助けてくれたのが吾助なのだと幸村は気づいた。
それでも礼を言う余裕はない。
さらにごほごほと咳をして喉の詰まりを直した後、幸村は顔を左右に振って安全を確認する。
あいかわらず、周囲は乱戦のまっただなかであった。
今までとは違う、こちらが優位ではない争い。
同じ隊の味方が何人か倒れているのが見える。
生死はわからなかった。確認にも行けない。
幸村が戦っているうちに、いつの間にか部隊の味方はさらに郭の内側まで進んでいた。
幸村のいる位置とは少し距離ができてしまっている。
今から半刻ほど前に始められた戦闘は、それまでの戦いが何であったのかと思うほど激しく、またその勢いを増していた。
互いの被害もずっと大きくなっている。
もはやその争いは、どちらかが全滅するまで終わらないのかと思われるほどであった。
南郭を攻めた部隊は、ひとまず簡単に略奪を終えたことで、その目的を半ば果たしたような気分になっていた。
このまま何事も無く家に帰りさえすれば、しばらくの間は余裕を持って暮らすことができる。
普段より量のある食事を摂ることができ、運が良ければ、多額の臨時収入を手にすることができるかもしれない。
すでに上々の戦果が上がっているのだ。
彼らの主たる役目は敵をその場で引き止めることで、それ自体は敵を上に上に押し込んだことでほぼ達成された。
あるいはここで戦闘を打ち切ることも選択肢の一つにはあった。
それでも彼らがまた一つ上の郭に登ろうとするのを止めなかったのは、やはり拍子抜けするほど敵の抵抗が弱かったからであろう。
『いくら守りを固めているとはいえ、少し強くつついてやればまた敵は後ろに、山の中に逃げ込んでいくはずだ』
攻勢の勢いもついていた。
大なり小なり、皆がそうした見通しを持っていたのは無理もないことだったかもしれない。
しかしそれは言わば、そうであってほしいという甘い願望に違いなかった。
さらに進むことの危険性に気づいていた兵も少なからず存在した。
だが、全体的に見れば幸村たちはおおよそ野放図な集団であったし、それゆえ集団でいることの弊害はことさらはっきりと表れた。
いわば個々の願望は縄のように撚り合わされて強められ、いつしか事実に等しいものとして誤認されていたのだ。
結果、そうした懸念は半ば意図的に無視されることになった。
つまり、この想定から大きく外れた事態は、しかるべくして発生した事態でもあるのだ。
黒田側、五十人弱の兵が足並みそろえて三段目の郭に上がると、敵はこれまでとはまったく違う必死さでもって彼らに立ち向かってきた。
一段目、二段目の郭から逃げてきた兵を含めると、兵の数自体は城内の敵のほうがまだ多い。
さらに向こうにやる気があって、しかも真正面からのぶつかりあうのでは、幸村たちが苦戦するのも当然のことだ。
それではなぜ、敵はこれほど突然積極的に攻めてくるようになったか。
その理由は単純である。
城内の兵たちは後退して逃げる道を塞がれていた。
統制の効いた部隊が郭の後方に置かれ、前線の兵をこれ以上後ろに下がらせなくしていたのだ。
その際には、手段も選ばれなかった。
無理に下がろうとした兵は味方のはずの兵に斬って倒された。
すなわち、城内の兵にとっての活路は前に進むことだけになった。
それがもともとの作戦であったのか、それとも窮余の一策であったのか、敵側である幸村には判断がつかない。
ただ現状が自分たちにとって悪い方向に進んでいることだけわかっている。
(後退は)
呼吸を整え終わり、足元に落ちていた槍を拾い上げながら幸村は考える。
(……無理か)
すぐに結論が出た。
一斉に秩序だてて後退するならともかく、隊列が乱れに乱れているこの有り様では、言うまでもなく敵の追撃でひどいことになる。
それに幸村の声が周囲に届いたとして、この混乱の中、誰が言うことを聞いてくれるだろう。
(それなら、味方を無視して……)
息つく暇なく、また新たな敵が目の前に現れた。
二人組、そのうちいきなり槍を振り上げた方の一人と幸村は槍を合わせる。
先ほどの男よりも戦に慣れていないような敵であった。
互いの槍をぶつけあい、そのまま力比べをするようにして相手の動きを固定する。
そこに吾助が突きかかった。
簡単に敵が倒れた。
いつの間にか、吾助は一線を越えられるようになっていた。
それに対する感想はともかく、現状ひどく頼もしいことではあった。
とはいえ、たった二人ではすぐにまた限界がくる。
(とにかく部隊と合流しないと)
吾助が横に戻ると、幸村は彼の肩を叩き、前に出るぞと言った。
吾助が頷く。ずいぶん顔を真赤にしていた。
見るからに興奮していて、戦意は高い。
ここで逃げるかなどと尋ねては、よほど蔑んだ目でみられることになりそうだった。
息を整え、走りだす。
すぐ後ろに吾助が続いた。
槍を突き出すふりをして敵を威嚇しつつ、その横を走ってすり抜ける。
味方がいる場所までは呼吸三回分で着いた。
十人ほどの集団の中に飛び込んで、すぐに外を向く。
吾助もまもなく飛び込んできた。
即座に、槍を構える。
それから周囲をうかがった幸村はふと気づいて、愕然とした。
味方の数が三十人あまりまで減っていたのだ。
幸村が飛び込んだ集団以外に味方の固まっている場所は二つしかない。
幸村の部隊においても、見知った顔が半分欠けている。
事態は思ったよりも深刻だ。
(このままじゃ、ジリ貧になる)
まだ一気に押し切られるほど、敵に負けているわけではない。
が、いつまでもこのままでいてはそれもわからなくなってしまうだろう。
早急に、何らかの策が講じられねばならない。
しかし、その策がまったく思いつかない。
そうした問題から目をそらすようにして、幸村は北郭の方向に顔を向けた。
(向こうはいったいどうなってるんだ)
まさかまだ正門にかかっているわけではと最悪の事態も考えたその瞬間、幸村はああ、とわずかに声を漏らした。
香山城北郭の本城。
幸村たちのいる位置よりさらに上にあるその城から火の手が上がっているのを幸村はその目で捉えた。




