第8話「毒と罠、第15層の試練」
第11層に足を踏み入れた瞬間、息が詰まった。
瘴気が、壁のように立ちはだかっていた。第10層までの薄い瘴気とは比較にならない。空気そのものが重く、肌がぴりぴりと痺れる。
魔力を体表に薄く展開する。防御膜。フィオナが革の胸当てに施した魔導付与が補助してくれるが、それでも魔力の消費は大きかった。
配信を起動する。
「第11層です。瘴気が一気に濃くなりました。呼吸がしにくい」
正直に伝えた。飾っても仕方がない。視聴者は私の言葉より、映像を見ればわかるはずだ。画面に映る空気の色が、明らかに違うのだから。
『空気の色がやばい』
『無理すんなよ……』
『鳥肌立った。これが深層か』
第11層から第14層を踏破するのに、六日かかった。
一日一層のペースは変わらないが、一日に探索できる時間が短くなった。二時間が限度。それを超えると、防御膜を維持する魔力が尽きる。
魔物も格段に強くなっていた。
第12層の毒鎧蜘蛛は、糸に瘴気を纏わせて攻撃してきた。糸が肌に触れただけで、焼けるような痛みが走る。火球で焼き切っても、瘴気の残滓が漂って視界を塞いだ。
第13層の黒鉄蛇は、固い鱗と素早い動きを兼ね備えていた。三度噛みつかれそうになり、そのたびにグレンの回避訓練が命を繋いだ。
そして、第13層に潜る前の朝。事件が起きた。
装備を点検していたセリナが、声を上げた。
「お姉様、これ見て。革紐が切れてる」
胸当ての革紐。左肩の部分が、綺麗に切断されていた。
自然に擦り切れた跡ではない。刃物で切ったような断面だった。
「昨夜、ギルドの装備置き場に預けたのよね」
「うん。いつも通り。あたしが鍵をかけた」
「鍵は?」
「あたしが持ってた。一晩中」
誰かが鍵を使わずに装備置き場に侵入し、革紐を切った。
寒気がした。
これがダンジョンの中で起きていたら、戦闘中に胸当てが外れていたら。
「……グレンさんに報告しましょう」
グレンは革紐の断面を見て、顔を険しくした。
「刃物だな。間違いない。ギルド内で装備に手を出す奴がいるとは」
「犯人に心当たりは」
「ない。だが、装備置き場には管理官の鍵のほかに、夜間清掃用の合鍵もある。清掃を担当する下働きなら入れなくもない」
寒気がした。金で動く人間がいるかもしれないということ。
ヒューゴの言葉を思い出した。「聖女様の周辺」。
確証はない。だが、偶然にしてはできすぎている。
「今日から装備は自分で持ち歩け。預けるな」
「わかりました」
革紐をフィオナに応急修理してもらい、予備の紐も三本用意した。
その日の探索は、いつも以上に神経を使った。装備の不調がないか、一つ一つ確認してからダンジョンに入った。
第14層を突破した翌日、Day 28。
第15層に挑んだ。
第15層は、氷の階層だった。壁も床も天井も、青白い氷に覆われている。吐く息が白い。瘴気と寒気が同時に身体を蝕む。
魔物は氷棘狼。鉄牙狼の上位種で、牙だけでなく全身から氷の棘を射出する。
最初の遭遇で、右腕を棘が掠めた。浅い傷。だが、傷口から瘴気が侵入する感覚があった。防御膜を突破された。
痛みを堪えて火球を叩き込む。氷の棘が溶け、狼が悲鳴を上げる。火属性の相性は良い。だが、一匹倒すのに火球三発。魔力の消費が激しすぎる。
二時間の限界が迫っていた。
第15層の奥に、階段が見えた。第16層への入り口。ここを抜ければ、今日の探索は成功だ。
最後の氷棘狼が立ちはだかった。
魔力の残量は、火球二発分。配信の維持にも魔力がいる。計算上、あと一発しか撃てない。
一発で仕留める。
狼が突進してきた。氷の棘が全身から展開される。
私は正面から迎え撃った。右手に残りの魔力を全て注ぎ込む。
小さな火球ではない。掌大の、圧縮した炎の塊。
狼の開いた口に向けて、撃ち込んだ。
内側から火が爆ぜた。
氷棘狼が崩れ落ちた。
同時に、記録珠の光が消えた。魔力切れだ。配信が途絶えた。
静寂の中で、膝が折れた。冷たい氷の床に手をついた。呼吸が荒い。視界が霞んでいる。
左腕の痣が、熱を持っていた。肘から手首まで広がった紫色の痣が、脈打つように疼いている。
瘴気が、確実に身体に溜まっている。
でも、立った。
階段を下りず、来た道を引き返す。今日はここまで。第15層は踏破できた。十分だ。
地上に戻ったとき、ギルドの酒場では配信が途絶えたことで騒ぎになっていた。
セリナが泣きそうな顔で走ってきた。
「お姉様……! 配信が急に切れて……!」
「魔力切れよ。大丈夫。生きてる」
「大丈夫じゃないでしょ、顔真っ青だよ……!」
確かに、鏡を見なくても顔色が悪いのはわかっていた。
グレンが近づいてきた。私の左腕を見た。袖が捲れ上がって、痣が露出していた。
グレンの目が、一瞬だけ細くなった。何か言いかけて、飲み込んだ。
「……今日は休め。明日も休め。二日は潜るな」
「でも」
「潜るなと言っている」
初めて、グレンの声に怒気が混じった。
反論できなかった。身体が限界を訴えていたのは、自分が一番わかっていた。
「……はい」
借家に帰った。セリナに湯を沸かしてもらい、身体を温めた。
布団に入ると、泥のように眠った。
最後に見たのは、配信の途絶えた記録珠の、冷たい表面だった。
100万人が見ていた映像が、途中で消えた。
明日のコメント欄が怖い。でも、それ以上に身体が限界だった。
目を閉じた。




