第6話「第10層、最初のボス」
第6層から、空気が変わった。
それまでのダンジョンは、言ってしまえば「暗い洞窟」だった。第6層は違う。壁が黒く変色し、空気に僅かな重さがある。呼吸するたびに、喉の奥が薄く痺れた。
瘴気だ。
グレンが言っていた。「第6層から瘴気が出る。最初は気にならない程度だが、舐めるな」と。
舐めるつもりはない。けれど、実際に体感すると想像以上だった。
第6層から第9層までは、四日かけて踏破した。
一日一層のペースは変わらない。だが、魔物の強さが明らかに上がっていた。第7層の影蜘蛛は糸で動きを封じてくるし、第8層の毒蠍は尾の一撃が致命的だった。
毎日傷を負った。肩、腕、脇腹。全て浅い傷だったけれど、グレンの「引き際を間違えるな」という言葉が、毎回頭をよぎった。
改良された記録珠の効果は絶大だった。暗所でも鮮明な映像が届くようになり、視聴者からの評判は一変した。
『画質すごくない? 聖女の配信より綺麗まである』
『戦闘の臨場感やばい。手に汗握る』
『フィオナさんに感謝』
フィオナの名前がコメントに出るようになった。彼女に伝えたら「えっ、あたしの名前出てるの。こっぱずかしいな」と言いながら、明らかに嬉しそうだった。
そして、Day 18。
第10層の入り口に立っていた。
ボス階層だ。ここから先は、事前に管理官への申請が必要になる。E級冒険者の単独挑戦は前例がないと言われたが、書類上は禁止されていない。
朝、ギルドでグレンと話した。
「岩甲蟲は、殻が硬い。火属性は有効だが、表面を焼くだけじゃ倒せない。弱点は腹部の関節と、頭部の触角の付け根だ」
「グレンさんは、戦ったことが?」
「ある。A級時代に何度か。だが、俺は剣でやった。魔法で倒すなら、話が違う」
「具体的には」
「殻の隙間に炎を通せ。表面から押し込むんじゃなく、隙間から内側を焼く。できるか?」
できるかどうかは、やってみなければわからない。でも、方法は理解した。
「やります」
「……相変わらず即答かよ」
グレンが苦笑した。
第10層は、広い空間だった。天井が高く、地面は固い岩盤。壁際に青白い鉱石が光っている。
記録珠を起動した。
「第10層、ボス戦に挑みます」
コメントが一気に流れ始めた。視聴者数が跳ね上がっていく。30万、40万、50万。
空間の奥で、何かが動いた。
岩甲蟲。
最初に思ったのは、「大きい」。
馬車二台分を優に超える体長。黒い甲殻に覆われた巨大な昆虫。六本の脚が岩盤を踏みしめ、二本の触角がこちらに向いていた。
重い、という印象だった。一歩ごとに地面が揺れる。こんなものに踏まれたら、一撃で終わる。
岩甲蟲が突進してきた。
横に飛んだ。地面を転がる。直後、さっきまで立っていた場所を巨体が通過した。
振り返りざま、火球を撃った。甲殻に直撃。
弾かれた。
火球が甲殻の表面で散って消えた。焦げ跡すら残っていない。
硬い。グレンの言った通りだ。表面からでは通じない。
岩甲蟲が旋回してくる。六本の脚が器用に方向を変え、再び突進の構え。
距離を取りながら観察する。殻の隙間。頭部と胸部の接合部、脚の付け根、腹部の関節。確かに、甲殻が重なり合う部分に僅かな隙間がある。
だが、動いている相手の隙間を狙うのは至難だ。
二度目の突進が来た。今度は横に跳ぶのではなく、斜め前に走った。岩甲蟲の側面に回り込む。
脚の付け根が見えた。甲殻の隙間から、柔らかい関節部が覗いている。
火球を練る。小さく、鋭く。表面を焼くのではなく、隙間に通す。
撃った。
火球が隙間に滑り込み、関節部で炸裂した。
岩甲蟲が悲鳴を上げた。前脚の一本が動かなくなり、体勢が崩れる。
効いた。
コメントが沸いた。
『入った! 殻の隙間!』
『すっげえ、狙って撃ったのかよ』
『E級の動きじゃねえ……』
だが、岩甲蟲は止まらなかった。残り五本の脚で体勢を立て直し、今度は尾を振り回してきた。
尾の一撃を低く屈んで避ける。風圧で髪が乱れた。
反撃。腹部の関節を狙う。だが角度が悪い。腹は地面に近く、側面からでは見えない。
考える。時間はない。魔力も記録珠の稼働分を含めて残り三割程度。
方法は一つ。岩甲蟲の下に潜り込む。
正気の沙汰ではない。巨体の下に入れば、踏み潰される危険がある。
でも、それしかない。
岩甲蟲が三度目の突進を仕掛けてきた。
私は突進に向かって走った。
『えっ!?』
『突っ込んだ!? 正面から!?』
岩甲蟲の突進は直線的だ。触角が前方を向いている間、真下は死角になる。
突進の直前に地面に滑り込んだ。巨体が頭上を通過する。甲殻が天井のように覆いかぶさり、視界が暗くなった。
腹部が見えた。関節の隙間が、すぐ目の前にあった。
両手に火を灯した。小さな火球ではなく、掌に纏わせた炎をそのまま関節に押しつけた。
「燃えなさい!」
炎が関節部に食い込んだ。内側から焼ける匂いがした。岩甲蟲の全身が痙攣した。
六本の脚が崩れた。巨体が落ちてくる。
転がって脱出した。間一髪。背中を甲殻の端が掠め、革の胸当てが裂けた。
岩甲蟲が横倒しになった。脚がばたつき、触角が力なく垂れ下がり――動かなくなった。
静寂。
それから、コメントが爆発した。
『倒したああああ!!』
『E級単独ボス撃破!? 前代未聞だろ!』
『公爵令嬢が岩甲蟲の腹の下に突っ込むとか頭おかしい(褒めてる)』
視聴者数、85万。
金文字が連続して流れた。
『黒鉄の騎士より:見事。文句なしだ。』 ―― 3金貨
『名も無き商人より:うちの店で応援してた。全員立ち上がった。』 ―― 1金貨
膝が笑っている。全身が汗で濡れていた。左腕に鈍い痛みがある。戦闘の傷ではない。薄い痣のようなものが、肘の内側に浮かんでいた。
いつからあったのか、覚えていない。気にしている余裕はなかった。
「……第10層ボス、撃破しました」
息が荒い。声が掠れている。
「ご視聴ありがとうございます。次は、第11層以降に挑みます」
記録珠の光が消えた。
地上に戻ると、ギルドの酒場が騒然としていた。配信を見ていた冒険者たちが立ち上がって拍手していた。
セリナが走ってきた。
「お姉様! お姉様……っ!」
泣きながら抱きついてきた。私も、少しだけ目が熱くなった。
カウンターの向こうで、グレンが腕を組んでいた。何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。
それで十分だった。
エレノアの配信視聴者数は200万超。私は85万。半分以下。
でも、半分に迫っている。
婚約破棄からまだ18日。始まったばかりだ。
左腕の痣を、袖で隠した。
瘴気のせいだろうか。たぶん、大したことはない。
――と、この時の私は思っていた。




