8話~ああ、良かった~
社長案件を終えてから、数日が経った。
俺が思った通り、その後に特区から電話が来ることはなかった。
あの後、支社長からは「先方が凄く喜んでいたと、社長が褒めていたぞ?」と言われたから、俺の対応が悪くて見切りを付けられた…と言う線は無さそう。
と言う事はやはり、女性と関わることなんて滅多にないということだ。
正直、少し残念だ。
元の世界でも女っ気のなかった俺だが、こちらの世界に来てからはその比ではない。左も右も男だらけで、花が無いどころか雑草すら生えていないのが現状だ。自然と、女性を求めている自分が居る。
加えて…可愛らしい反応だったからな、鈴木さん。元の世界で彼女と同じやり取りをしたとしても、同じ反応をしていた自信がある。ついつい、有り得ない期待を抱きそうになっただろう。
この感情を拗らせたら、俺もみんなと同じになるんじゃないだろうか?緊張して喋れなくなって、声すらマトモに聴けなくなって…。
そう言えば、最近社長の声に過剰反応する人を見ても何も思わないし、慰問会の事を語られても、嫌悪感を抱かなくなっている。これってもう、俺がこの世界に染まり始めているんじゃないか…?
「どうしました?先輩。前が空いてますよ?」
「うん?ああ、済まない。ありがとう、まっちゃん」
いつの間にか、考え込んでいた。
俺は松本君に指摘され、慌てて列を詰める。そして前の人達に習って、社食を自分のお盆に並べていく。
「いただきます」
色々と怖い想像をしてしまったが、先ずは飯だ。食わねば午後を乗り切れん。
「先輩。元気になりましたね」
「うん?そうか?」
丼ものを掻き込んでいると、松本君がシミジミとそう言う。
俺って、元気が無いと思われていたのか?今の方が余程、ブルーになりかけているんだが?
「ええ。ちょっと前まで、サラダと肉しか食べてなかったじゃないですか。でも最近はしっかり食べていますし」
「うっ…」
言われて、俺は箸を止める。目の前には丼ものだけでなく、うどんもデザートも並んでいる。以前の自分を思い出すと、考えられない量を食べようとしていた。
「しまったな。食い過ぎだ」
「良いんじゃないですか?僕も似たようなものですし」
確かにそうだが…つまりそれって、君と同じ道を歩もうとしているってことだよな?
松本君には失礼な考えだと思いつつ、俺は自分の腹を触る。以前は摘まむ程度だったのに、今は結構な量のお肉を掴めてしまった。
染まりつつあるのは、俺の感覚だけではない。体も、心も、この世界の色になりつつある。
イカンぞ。このままではイカン!社長の声でトイレに駆け込む俺なんて…想像しただけで恐ろしい!
危機感を覚えた俺は、その日の就業後にジムへ向かおうとした。
だが…。
「なっ…俺の行きつけが、カレー屋になっている、だとぉ!?」
週3で通っていたスポーツジムが、カレーの大食い専門店になっていた。
「そうだった。この世界の男は、見た目を気にしないんだった」
体を鍛えて、女の子をゲットしよう!なんて思想に至らないから、ジムを開いても成り立たないのだろう。モテる必要がないから、外見なんて気にしない。
それも、女性のいない世界の弊害か。
仕方ないので、他のジムを探してみる。だが、地図アプリに示されたのはかなり遠くの場所。〈特区〉と書かれた場所の近くに2軒しかないみたいだった。
「って、改めて見ると異常な場所だな。この特区ってところは」
地図アプリで示されているのは、〈特区〉という名前だけ。その中は全部黒く塗りつぶされていて、詳細は一切明かされていない。俺が分かるのは、その規模が相当な大きさであることくらい。
黒塗りの場所と大きさ的に、元世界の東京23区くらいの大きさかな?100万人が住んでいるにしてはかなり広い。元世界の東京が1000万人だから、10分の1の人口しかないのか。
それでいて特区というのは、日本で一番栄えている場所なんだろ?1人辺りのGDPが、相当エグそうだな。
「おっと。そんな事よりジムだ」
どうするか。ここから特区周辺の〈繁華街〉って所までは、車で1時間以上かかる。休日ならまだしも、仕事のある平日は無理だ。
「無いなら…作るしかない!」
と言う事で、俺は行き先を変更する。ホームセンターで丁度いいロールマットを買い、サイクルショップで自転車のチューブを買う。ついでにママチャリも買って、そいつを漕いで家まで帰る。
これで通勤したら、より体に良いだろう。通勤時間も短縮できるし、1石2鳥だ。
…本当は車も欲しいが、経済的に厳しい。オンボロ中古を買っても、車検と駐車場代が痛いしな。
「取り合えずこれで、簡易ジムの完成だ」
部屋の一角に置いたトレーニング器具(代用品)を眺めて、俺は拳を握る。
これで筋肉と精神を鍛えて、この世界に染まらないようにするのだ!
そうして、俺は筋トレを再開し、通勤スタイルも変えた。雨の日は厳しいが、汗臭い満員電車に乗らなくて良くなったのは嬉しい副次効果だった。
加えて、通勤時間帯は渋滞が酷いことも分かったので、結果的に車を買わなくて正解だったかもしれない。
「おはようございます!」
そうして体を動かすようにしたからか、清々しい気持ちで出社できた。自然とやる気も出て来たし、これは仕事も捗りそうだ。
実に、気持ちの良い朝だ!
「先輩。今日はいつもより、タイピングが速いですね」
「おうよ。筋トレを再開したからね。活力が有り余っているんだ」
「気合入り過ぎて、キーボードが悲鳴を上げていますよ?」
安心しろ、まっちゃん。こんなことで音を上げる相棒ではないよ。
うん?気のせいか、Enterーキーの反応が悪いな。どうしたんだ?相棒。
そうして仕事に精を出していると、社用スマホが鳴る。
折角、調子が出て来たのに…。
そう思いながら、スマホ画面を横目で見る。するとそこには、〈支社長〉の文字。
……まさか。
「はい、黒か…」
『て、んそう、する…』
ああ、やっぱり。
俺は緊張と興奮で高鳴りつつある胸を抑え、背筋を伸ばす。机の端の方へと追いやられつつあったファイルを掴んで、目の前に置く。
そうしていると、向こうから可愛らしい声が聞こえた。
『あっ、もしもし』
おっ、この声は。
「お待たせしました。製品管理部の黒川が対応させて頂きます」
『黒川さん。私です。JIEの鈴木です』
キター!鈴木さん。
「お久しぶりです、鈴木さん。本日はどうされましたか?」
『実は、今度は違う機器で不具合がありまして…それを直せないかと電話したのですが…』
「私にお任せ下さい」
不安そうな彼女の声を聞いていたら、俺はいつの間にかそんな発言をしていた。
しまったな。つい、無責任な言葉を吐いてしまった。彼女が可愛らしいからって、格好付けようとするんじゃない。彼女は女性であるのと同時に、親会社の社員さんなんだからな。
俺は心を正した。
『ああ、良かった。黒川さんが居てくれて』
正した心が、一瞬で崩壊した。
うぉおっ!めっちゃ可愛い。そして、めっちゃ嬉しい。
これは、是が非でもお役に立たねば…。
「それで、どんな機器でしょうか?名称などは分かりますか?」
『はい。スタディー350Jの燃焼ガス分析計、です』
今回はスラスラと名称を答えてくれた鈴木さん。
前回の事を覚えていて、しっかりした調べをしてくれたみたいだ。真面目な人なんだな、鈴木さん。
彼女の事を好意的に思う俺。
そうは思うも、開きかけていたファイルを閉じる。
スタディーは他社製品。このファイルには載っていないし、俺も実物を使った事はない。
「鈴木様。少々お時間を頂いてもよろしいでしょうか」
『えっ…もしかして、難しそうですか?』
途端に、彼女の声が不安そうになる。
しまった。
「いえ。ただ他社製品ですので、調べながらお答えさせてもらおうと思いまして。大丈夫です。お任せください。似たような物は扱った事がありますので」
声には余裕を持たせて、手元は先ほどよりも速く動かす。
ネットで製品を検索し、企業ページで説明書をダウンロードする。
『ああ、そうでしたか。これ、黒川さんの所で扱っていない製品だったんですね?ごめんなさい、私…』
「いえいえ。そう言う案件もよくやっていますので、ご安心ください。それで、不具合の内容を教えて頂けますか?」
『はい。エラーコードが102のE1と出ていて、急に測れなくなったと、現場からは報告が上がっていまして』
ふむ。現場と言う言葉からして、鈴木さんのいる部署は管理部門っぽいな。そこに問い合わせが来たけど分からなくて、俺に問い合わせて来たパターンかな?
なんか、俺の立場と似ているな。
親近感を感じながらも、俺は説明書を捲っていく。そして、お目当てのページを見つけた。
なになに…?ああ、これか。
「分かりました、鈴木様」
『ええっ!?もう分かったんですか?』
ふふっ。良い反応だ。
「はい。測定セルの寿命ですね。機器が入っていたケースに、小さな入れ物はありませんか?ペットボトルのキャップ位の大きさで、それを入れ替えれば直りますよ」
『ええっと…キャップ、キャップ…あっ、これですね?これを、入れ替える…あっ、エラーが消えました!ありがとうございます!』
ああ、良かった。今回も何とかなった。
「お役に立てて良かったです。他には何かありませんか?」
『えっと…その…』
何か言い辛そうに呟く鈴木さん。
どうしたのだろうとか?と待っていると、少し硬くなった彼女の声が聞こえた。
『あの、黒川さんの電話番号を……教えて頂けませんか?』
えっ?それって…直で電話してくれるって事!?
不安1割、期待19割で、俺の心臓が高鳴った。
イノセスメモ:
燃焼ガス分析計…機械から排出されるガスの成分を測定する機器。特に、有害物質を排出する機械に使われることが多い。




