第203話 完全に洗濯された香りの良い衣服という需要 8歳 春
フィヨルドの豊富な雪解け水が、清冽な水流をつくり川を勢いよく流れる。
川の流れは途中に掘られた水路で分岐し、少し緩やかになって小さな水車のついた大きな樽をゆっくりと回す。
ばしゃりばしゃり、と川に半分浮いた状態の樽が中の衣類と一緒に回転し、人の手を介することなく洗濯を行ってくれるのだ。
北方で最初の洗濯機。
その文明の利器を利用しようと、村中の女衆が籠にいっぱいの洗濯物を抱えて長蛇の列を作っている。
あまりの盛況振りに、僕は横入りを防ぎ行列を整理するための人員まで臨時に配置する羽目になったのだけれど、そんな苦労を知らぬように女衆は楽しげに洗濯機が如何に画期的であるかを話題にお喋りをしていた。
「洗い物が冷たくない、ってのはありがたいねえ。冬の水は、どうしても手が荒れるからねえ」
「そうそう。冷たい水だと、どうしても汚れも落ちにくいってのはあるから、なおさら大変だしねえ」
「それに夫の毛皮の服は重いのよね。おまけに冬の漁で海風にずっと吹かれたり浸かってるものだから、こびりついて固まった塩と脂がなかなか落ちなくてねえ」
つまりは、洗濯機は村の女衆に大変な好評を博しているのである。
冷たい水に触ることなく長時間重い衣類を洗うことができる、という圧倒的な革新性は、まさに衣類洗浄の革命。
特に夜通し回すことができる最後の洗いの順番は、くじで取り合いになるぐらい。
村の中に、よく洗われた清潔な服を着られる、という新たな需要を作り出してしまったわけだからね。おまけに洗剤は白樺の葉で、爽やかな香りまでつく。
洗濯樽と白樺の葉による洗浄は、冷たい水で洗うか雪でこすって煙で燻すぐらいしかなかった毛皮の服の手入れに関する一大革命。
洗濯樽で洗われた毛皮の服の感触は、まるで別物になるのだ。
そんな毛皮の衣類洗浄の革命で爆発した需要を、たった一基の洗濯樽で賄えるはずもなく、洗濯樽は毎日が大盛況。
そうした連日の大騒ぎが耳に入らぬはずもなく、僕はシグリズ様に呼び出されることになったわけでして。
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「トール?私は洗濯場の建設は来年に回すと言いませんでしたか?」
ちょっぴり怒っている感じのシグリズ様に詰問されたのだけれど、僕としては完璧な言い訳が揃っているので怖くないのだ。
「はい!ですから男集の工事の労力が不要な洗濯道具を作りました!
村の人の労力を使わずに女衆の労力の節約に成功しました!」
胸を張って答えたわけですよ。
使ったものと言えば、家の倉庫に転がっていた古ぼけた樽と、僕と父ちゃんの労力だけだもの。
あとは知恵と工夫!人類に授けられたチートだけです!
「ほんとうに、この子は…」
なぜかシグリズ様は目眩を覚えたかのように手のひらで目を覆った。
シグリズ様、ちゃんと褒めてくれてもいいんですよ!
とりあえずシグリズ様の詰問を躱せたようなので、僕は次の話題に移った。
「それでシグリズ様、実は相談があるんですけど…」
「なんです?」
目を覆ったままのシグリズ様の顔の前に、僕は服の袖を突き出した。
「ちょっと、この服の匂いを嗅いでくださいませんか?洗ったばかりなのです」
「…いい匂いですね」
そう。特に香を焚きしめたわけでもないのに、服からは白樺の爽やかな香りがするのである。おまけに毛皮の服なのに全然痒みがない!
「これは白樺の葉の香りです。。そして全然痒くならないんです。すごいと思いませんか?これ冬中着ていた毛皮の服なんですよ!」
衣服を何枚も持って着回しができるシグリズ様と違って、庶民は一枚や二枚の服を着回すのがせいぜいなのである。その服を綺麗に香りよく洗濯できることの効用は計り知れない。清潔を保つことは病気を遠ざけることにもつながる。
「それで洗濯樽は地区ごとにあったら便利だと思うんです。ああいえ、今すぐとは言いません。洗濯樽は、もうちょっと改良したほうがいいと思っていますから。
今は排水とか回転を止めたりとかが、ちょっと大変なんで」
今すぐではない、という言葉にシグリズ様は安堵したように先を続けるよう促した。
「それで?」
「洗濯樽は後になると思いますが、野菜洗いの樽は勝手に作れちゃいます。小さくて簡単ですから。
でも勝手に作ってたくさんの人が設置すると、邪魔だとか煩いとか壊れたらどうするとか、水が汚れる下流の人の迷惑になるとか、いろいろ問題が起きると思うんです。
だから村の方で主導して、管理する人とか設置場所を決めたほうがいいと思うんです…」
村の方で管理者と設置場所について指定しておくと、あとあとの争いを減らせると思うんだよね。ちょっぴり、今の仕事は増えるかもしれないけど。
「こ、この子は…!」
僕はシグリズ様のグリグリに備えて、こめかみをさっと押さえた。
学習できる子どもだからね。
すると僕の頭に伸ばされた両手は下の方に流れ、両の頬がつままれた。
「いだだだだ…!」
僕の頬を抓ったまま、シグリズ様は2人のお嬢さんに命じた。
「アルフヒルド、エリス」
「「はい」」
「聞いての通りです。設置場所と管理者の計画を立てられますね。トールから聞き取りをして、今日中に野菜洗い樽の管理に関する規定を整備しなさい」
「「はい」」
「あー。酷い目に遭った…」
僕は少し涙目になりながら2人の文官見習いのお嬢さんたちに向き直る。
すると、両側から頬をきゅぎゅっと抓られた。
「いだだだ…」
ほっぺたが4つに割れそう。
僕の尊い犠牲を糧にして、地区ごとに野菜洗い樽が設置されることになった。
まずは野菜が十分に洗われるようになることで、寄生虫などの病気も減らせるだろう。
洗濯樽の方は改良を続けながら、おいおい整備していく、という流れに。
冬の衣類の洗濯需要が一巡すれば、夏の衣類は軽量で水の冷たさも緩和されるから需要も落ち着きそうだし。
そして貴重な村人の労力が浮くことで、今後の来客対応のための余力は作り出せるようになったことは大きい。
来年は、船の帆も洗えるでっかい洗濯場を建設したい。
帆が入るような大きさの樽を作るのは大変だから、建設地を慎重に選んで、勢いのある水の流れを使った洗浄池を設けたいね。
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春になり海の様子が落ち着きを見せる頃になると、第2陣の商人たちが村にやってくるようになった。
最初に村にやってきた冒険商ソルゲイル人よりはもう少し保守的で、それでも十分に冒険的な商人たちだ。
いずれもが北方21星の大結束の村長たちから保証を受けた商人たちで、その多くが
大麦をたくさん運んできた。これだけの大麦があれば、夏の大クナトルレイク大会の来客たちに出す特製大麦酒や贅沢パンは賄えそう。
それにしても、そんなに大麦をたくさん買い取ると噂になってるのかな。
おまけに判を押したように、全員が特製大麦酒を交易品として欲しがるんだ。
ソルゲイルのやつ、どれだけ噂をばら撒いたのやら。
そして持ち込まれた大麦の品質の検査には、フギンの箱が大活躍。
前回の反省から、なるべく箱の本体を見せないように倉庫の奥でこっそり使用したのだけれど、取引相手の商人たちからは文句や疑義は出なかったのは不思議だった。
やはり北方21星の大結束と取引がある商人はお行儀がいい。
どんな噂を聞いているのか知らないけれど、とってもやりやすい。
でもクナトルレイクで仲良しになる機会が少なくて、父ちゃんは少しつまらなさそう。
来航した船員を歓迎するサウナもパンも大好評。衣類の洗濯は来客優先なので、洗濯樽を利用していた女衆から、ちょっぴり文句は出る。洗濯樽は増やしていきたいね。
そして数席の輸送船を捌ききって、なんとか交易の港としてやっていけるかなと自信を深め始めた頃、この時期には珍しく輸送船ではなく長船がやってきた。
長船には、シグヴァルド様本人が乗っていた。




