第179話 北海の恵み 命の値段 7歳 冬
「なんとかやりきれそうですね!」
「ええ。本当に遺憾なことですが、やれそうです。たしかに、やれそうなんですが…」
黒板で今後の仕事を一覧化してみると、今の体制でもなんとかやりきれそうに見えるんだ。
シグリズ様は、やるべき仕事のあまりの多さと、それでも頑張ればなんとかやれそうだという絶妙な苦痛のバランスにうめき声をあげる。
「わかります。ひどいですよね。シグヴァルド様の無茶振りには、いつも振り回されてばかりです」
僕はシグリズ様の苦悩に共感できることを示すため、大きく頷いた。
まったく。シグヴァルド様の無茶振りには困ったものだよ。
すると、なぜか僕の頬が左右から力強くつままれたんだ。
「どの口がいうの?この口?」
「…やれそうなのが憎い」
むにむにむにむにむに…
「いたひいたひいたひ」
どうして僕が2人のお嬢さんのストレス解消の標的にならなければならないのか。
悪いのは無茶振りをしてきたシグヴァルド様で、僕はただ解決策を頭を絞って考えただけなのに…。
むにむにむにむにむに…
「ふぎん!ふぎん!」
ムニのやつも凶行に及ぶ2人を止めるどころか、僕の肩から離れて囃し立てる始末だ。しばらくは、おやつ抜きだな。運動も増やそう。
ブゥゥウー
「あ、角笛の音だ」
長屋敷の外から角笛の音が聞こえた。
しばらく間をおいて、また1回、角笛が吹き鳴らされる。
襲撃とかではないみたいだ。
「ちょっと見てきますね!」
「あ、待ちなさい!」
むにむにから逃げるために、長屋敷の外に走って出る。
「うっ…さむーい!」
高台の長屋敷にはフィヨルドからの冷たい風が遮るものがなく吹き付ける。
そこからは雪で白く染まり切り立った崖と、白波の立つ蒼い海を裂くように大きく帆を広げた長船が2隻、やってくるのが見える。
「父ちゃんだ!父ちゃんたちが帰ってきた!」
近海の鱈漁に出かけていた男達が帰ってきたのだ。
ブゥウウウー
男達の帰還を歓迎するように、また角笛が鳴らされた。
◯ ◯ ◯ ◯ ◯
鱈漁から男達が帰ってくると、村の全ての民は機械のように動き始める。
女はナイフと桶を持ち、手伝いのできる子どもは母に続く。
僕も手伝い組なので、スキーを履いて急いで向かう。
女たちが鱈を砂漠仕事をする間、託児所と社交場の火の番をしないといけないからね。
「トール。おそーい!」
「うー…」
ようやく浜にたどり着くと、すでに長船は乗り上げて樽に入った鱈の搬出が始まっていた。
託児所と社交場については、先についたエリン姉が火の番をしてくれていたみたい。
僕と交代すると、エリン姉はナイフを持って女衆たちが集まっているところへ向かった。
男達が2人組になって、樽にいっぱいに詰められた樽を慎重におろしていく。
運ばれている樽が傾くと海水がざばあ、と溢れる。
これは今年からの工夫だね。
近海でとれた鱈の鮮度を保つために、エラを落とし血抜きだけをした鱈を冷たい海水に漬けたまま樽に入れて運んできたんだ。
樽に入ったままの鱈を見て、その新鮮さに女衆も驚きを隠せない。
「なんてまあ生きの良い鱈なんだろうね!まるで釣ったばかりみたいじゃないか!」
「本当にねえ!これなら肝臓からも、さぞ良い油が取れるに違いないよ!」
「まあなあ。実際、苦労したんだぜ」
「ご苦労さま。はいはい。まずはサウナに入ってきて!」
女たちが長船から樽で降ろされた樽に群がる中、漁から帰った男達は帰還の挨拶もそこそこに長屋敷に併設されたサウナへと向かう。
近海とはいえ真冬の冷たい北海の海で漁をして、体はすっかり冷えているからね。
狭い船上生活で体も服も汚れているし、食品の加工作業に触れさせるのは良くない。
女たちはナイフを手に、素早く鱈の頭を落とし、背中から真っ二つに開いて内蔵や骨の不要な部分を桶に捨てる。
「すごいねえ。この肝臓の油なら子どもがたくさん助かるよ」
鱈の腹を割いてみるとわかるんだけど、腹の中はほとんど肝臓じゃないだろうか、というぐらい大きな体積を占めていて、ずっしりと重い。
新鮮な鱈の肝臓は淡いピンクのクリーム色をしているから、鮮度も一目瞭然。
鮮度が落ちると、赤黒かったり灰色になるんだよね。
鱈の肝臓の油、いわゆる肝油にはビタミンDが豊富に含まれていて、日光が不足しがちな北方の村人、とりわけ子どもにとっては欠かせない栄養補助食品。飲む太陽、なんて言われたりもする。
でも味はまあ、美味しくない。まずい。苦い。子どもにとっては天敵だ。
だから母ちゃんの発明した蜂蜜肝油飴は画期的なんだ。
その鱈の肝臓だけは大切に、別の樽に取り分けられる。鱈の肝臓だけが積み上げられていく様は、北の海の豊かさを示すようだ。
そして頭を落とされ身が開かれた鱈なんだけど、これも今年は処理の仕方が違う。
「塩を塗って!惜しまずによーく塗るんだよ!」
「贅沢だねえ…」
「塩がたくさん使えるのも、村長さんのおかげだねえ」
村の製塩所が稼働しているので、塩には余裕がある。
鱈の水分を抜くために、表面にたっぷりと塩が塗られる。
「塩を塗ったら積んで行くよ!」
塩を塗られた鱈は、薪を積むように頭と尾が交互になるようにして、少し傾いた板の上に何重にも重ねて高く積まれる。
上には石の重りが載せられ、崩れないよう周囲に杭が打ち込まれる。
そうして積まれた鱈の小さな櫓が、村の浜のいたるところに築かれていく。
鱈の水分を、塩の浸透圧と積み重ねた重しとで抜いていくわけだね。
上の鱈と下の鱈ではかかっている重量が違うから、当番の人が適宜入れ替えを行う。
そうして、だいたい1日か2日をかけて鱈の身から水分を抜くんだ。
「なんだか、吊るして干すだけよりもずいぶんと手間がかかるねえ」
「そうだねえ。塩もずいぶん使うしねえ」
風乾鱈と呼ばれる、北方社会でよく取引される鱈の身を開いて風に晒して干すだけの作り方に慣れた村人には、事前に様々な処理が必要な冷燻の鱈に多少の違和感があるみたいだ。
僕も風乾鱈は優れた保存食であることは否定しない。
塩も使わず冬のフィヨルドの風に晒すだけで作れる、という加工の安さもあるし、完全に水分が抜けて軽いので重量あたりの価値も高いから交易品には向いている。
「でも…安いんだよなあ」
一匹あたりの価格は安い。僕たちの村以外でも多くの村で風乾鱈は作られているし、交易品として大量に持ち込まれている。
僕たちは近海の鱈をとっているけれど、中には遠征して一冬かけて漁場の近くの離島で風乾鱈を作りまくる、という暮らしをしている村もあるらしい。
とにかく競合が多いんだ。だから価格が安くなる。
僕は、父ちゃんたちが命がけでとってきた鱈を買い叩かれたくない。
できるだけ付加価値をつけて、他の村にはない商品に仕上げて高く売りたいんだ。
そのための手間であり、そのための設備は十分に準備した。
品質管理をしっかりして樽に焼印もして、ブランド品として売り出せば5倍高く売れるはず。
父ちゃんたちの命と村の女衆の働きを、しっかりと価格に反映させるんだ。
どうにか全ての鱈を水抜きの櫓として組んでしまえば、しばらくは待つだけ。
上下を入れ替えたり、鱈を狙う海鳥を追い払う子ども以外は一休みだ。
海鳥を追い払うのは、大事な子どもの仕事。
最近はクナトルレイクで鍛えられた子どもたちの、石投げのコントロールも良くなっているから、海鳥も迂闊に近寄れなくなっているとか。
そのとき、ピィイイィ、と聞き慣れない甲高い笛のような音が聞こえた。
振り向くと、白樺トンボが数本、空を舞う海鳥に向かって、高く、音を立てながら舞い上がっていた。




