第九話 囁く髪
商店街のアーケードを抜けた先に、目的の理髪店はあった。
零が到着したのは、夕方近い時刻だった。『山口理容店』。昭和から続く個人店で、小さな看板は色あせ、ショーウィンドウの中では古い理容椅子が一つ、静かに置かれている。依頼主である現店主から受け取った鍵を回すと、内部には整髪料と、乾いた髪の匂いが薄く残っていた。
「来てくださって……助かります」
出迎えた店主は五十代の男性で、目元に疲れが濃かった。零は軽く会釈し、店内を見渡した。大きな鏡、壁に並ぶハサミと櫛、そして奥の棚に置かれた古い木箱。呪脈視をそっと開くと、その箱から細い黒い髪のような呪脈が何本も伸び、店内をゆっくりと漂っているのが見えた。髪は零の足元まで寄り、触れると冷たく、同時に甘く絡みつこうとする感触があった。
「失踪した方々は、皆この箱に関わったのですか?」
店主は頷いた。
「ええ。客として髪を切ってもらった子、手伝いに来てくれた子……皆、箱の近くで長く過ごした後からおかしくなりました。切った髪が動く、囁く、夜中に髪に巻かれる、と訴えて……。最後は体に赤い跡を残して衰弱したり、いなくなったりしました。警察は精神的なものとしか言ってくれません」
零は木箱に近づいた。蓋には細い傷が走り、中には何十年分もの切れ落ちた髪が、丁寧にまとめられて入っている。指を近づけると、髪が微かに震え、零の指先に絡みつこうとした。左腕の紋様が、低く応えるように疼く。
「この箱に、何かあったのですか?」
店主は少し躊躇してから、声を落とした。
「戦前の話です。先代の職人の娘が……失恋の末に、自ら髪を切り落としてこの箱に封じ、その中で死んだそうです。『あなたの髪を永遠に手元に置きたい』『髪があれば、いつでも傍に感じられる』と日記に記していたとか。残酷な話ですが、店の人間は皆、薄々知っていました」
零は髪の感触を確かめるように、そっと手を引いた。呪いの核は、この箱に凝縮されている。
「今夜、ここに泊まります」
店主は反対しなかった。ただ、鍵を渡す手が微かに震えていた。
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夜は、髪の匂いの中で静かに深まった。
零は理容椅子に座り、小さなランタンだけを灯していた。店内は外の街灯の光が届かず、暗い。時計が午前零時を回った頃、最初の変化が起きた。
木箱の蓋が、独りでにゆっくりと開いた。
中から黒い髪の束が、意思を持ったように宙へ舞い上がる。髪は零の方へ伸び、まずは足首に絡みついた。冷たい。なのに、触れた瞬間に甘い引き込み感が広がる。零が身じろぎすると、髪はさらに上へ、ふくらはぎへ、膝へとのぼってきた。
『……離さない』
声が、髪を伝って直接聞こえる。女の姿が、髪の海の向こうにゆっくりと現れた。半透明で、長い髪をほどいたまま、古い洋服を着ている。顔は悲しみと執着で歪み、瞳だけが暗く光っていた。
『髪で繋がっていよう。あなたを、私から離さない』
髪が服の上から胸元を横切り、鎖骨を優しく巻き付ける。次に背中へ回り、腰をゆっくりと絡めていく。零の呼吸が乱れた。感覚が急激に過敏になり、髪が肌に触れるたびに、締め付けと甘い疼きが同時に走った。膝に力が入らなくなり、椅子から半ば落ちるようにして床に膝をつく。
『いい子……そのまま、動かないで』
『髪で巻いて、永遠に繋ぎ止めてあげる』
髪が服の隙間から滑り込み、直接肌に触れる。冷たい感触が脇腹を這い、腰骨をなぞり、太腿の内側をゆっくりと巻き付けていく。零は低く吐息を漏らした。首筋から背中にかけて、新しい紋様が熱く反応する。髪が何本も絡みつき、縫い付けるような圧迫感が強くなる。痛みと、それに近接した甘い脱力感。理性が、髪に絡め取られるように薄くなっていく。
『離さない。私のもの。髪があれば、いつでも傍にいられる』
女が近づき、零の頬に冷たい手を当てた。髪が首筋を優しく、しかし確実に締め、鎖骨のくぼみに沈む。零の視界が少し暈け、腰が小さく震えた。このままでは、本当に髪に巻かれてしまう。
零は、髪に絡め取られたままの手で、木箱に触れた。
「……こっちが、ほどく」
呪喰を発動する。
黒い紋様が腕を伝い、箱の核——髪に封じられた女の悲しみと独占欲——に食い込んだ。女の悲鳴が、店内に高く響く。見捨てられた執着と、髪を通じて永遠に繋ぎ止めたい願いが、黒い髪とともに零の体内へ逆流してくる。頭が真っ白になり、首筋から背中にかけて焼けるような熱が走る。新しい紋様が、細く、複雑に浮かび上がっていく。
『返して……離さないで……繋がっていたい……』
零は目を充血させたまま、核を掴んで離さなかった。第八話のときより、さらに制御が安定している。意識を大きく持っていかれずに、核を自分の内側へ沈めていく。髪の感触が体内に残り、体の感度が最大化されたまま、甘く疼き続ける。
空間が、髪とともに薄れていった。
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気がつくと、零は床に座り込んでいた。
木箱の蓋は閉じ、髪はすべて中に戻っていた。店内に、もう異様な気配はない。零はゆっくりと体を起こし、首筋に手を当てた。新しい紋様が、首から背中にかけて熱を持っている。服の生地が触れるだけで、小さく身震いが走った。
「……また、少しだけ、うまくなった」
掠れた声が、静かな店に落ちた。
朝方、店主に簡単な報告をした。これ以上、髪に絡まれる者は出ないだろう、とだけ伝えて、零は店を後にした。
商店街を抜ける道で、零は自分の体を確かめた。感覚はまだ髪に触れられているように敏感で、歩くたびに衣服が肌を擦る感触が、甘く残っている。体内の奥で、絶呪が髪の残滓に反応するように、はっきりと「絡みつこうとする」ような低く強い脈を打つのを感じた。
「……あなたも、誰かに髪で繋がれたままなのか」
問いかけに、答えはなかった。
ただ、コートのポケットに、木箱から落ちた細い髪の束が一筋、静かに沈んでいた。




